金田一耕助ファイル5    犬神家の一族 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  発 端  第一章 絶世の美人  第二章 |斧《よき》・|琴《こと》・|菊《きく》  第三章 凶報至る  第四章 捨て小舟  第五章 |唐《から》|櫃《びつ》の中  第六章 琴の糸  第七章 |噫《ああ》|無《む》|残《ざん》!  第八章 運命の母子  第九章 恐ろしき偶然  大団円     発 端  信州財界の一巨頭、犬神財閥の創始者、日本の生糸王といわれる|犬《いぬ》|神《がみ》|佐《さ》|兵《へ》|衛《え》翁が、八十一歳の高齢をもって、信州|那《な》|須《す》|湖《こ》|畔《はん》にある本宅で永眠したのは、昭和二十×年二月のことであった。  犬神佐兵衛は立志伝中のひとである。佐兵衛翁の立志美談は、過去何十年間いろんな新聞や雑誌に掲載されて、ひろく世に|喧《けん》|伝《でん》されているが、それのいちばん詳しいのは翁の死後、犬神奉公会から発行された「犬神佐兵衛伝」である。  それによると、幼にして孤児となった佐兵衛が信州那須湖畔に流れついたのは、十七の年であった。かれは自分の郷里を知らない。いったいどこの生まれなのか、両親がなんであったか、それすらもわきまえない。第一犬神という妙な姓からして、ほんとうのものかどうか明らかでない。  いったい、人間も偉くなったり、金持ちになったりすると、とかく家系をかざりたがるものだが、佐兵衛翁にはそういう見栄が|微《み》|塵《じん》もなかった。かれはいつも側近のものにむかって、人間はだれでも、生まれたときは裸だよとうそぶいていた。そしてまた平気でこんなことをいっていたという。 「自分は十七になる年まで、|乞《こ》|食《じき》同様の身の上で、国から国へと流れあるいていたんだよ。それがこちらへ流れついて、|野《の》|々《の》|宮《みや》の|旦《だん》|那《な》に眼をかけられたのが、そもそも運のひらきはじめだった」  この野々宮というのは、野々宮|大《だい》|弐《に》といって、那須湖畔にある那須神社の神官だったが、このひとこそ、佐兵衛翁にとっては終世の恩人で、その|鴻《こう》|恩《おん》がよほど肝に銘じていたらしく、さすが卓抜|不《ふ》|羈《き》な佐兵衛翁も、談たまたまこの人のことに及ぶと、いつもきちんと座り直したという。  佐兵衛翁のこの終世かわらぬ感謝の念と、大弐の遺族のものに対する報恩のまことは、たしかにひとつの美談であった。しかし、物事にはおのずから限度というものがある。翁の死後、犬神家の一族に起こった、あの血みどろな殺人ざたは、すべて佐兵衛翁の野々宮家の遺族に対する、報恩の念が、あまりにも度が過ぎていたところに、端を発していたのであった。これを思えば、たとえ善意に発したことでも、いったん処置をあやまるならば、どのような大惨事を|惹起《じゃっき》させぬでもないという、これがひとつのよい教訓になるであろう。  それはさておき、佐兵衛翁と野々宮大弐の最初の接触はつぎのようにして起こった。  佐兵衛翁の談にもあるとおり、当時乞食同様の境涯で、国から国へと流れあるいていた佐兵衛は、あるとき那須神社の拝殿の床下で、犬のように倒れていた。それはもう秋のおそいころで、寒気のきびしい信州のこの湖畔では、こたつなしには暮らせない時分であった。  それにもかかわらず佐兵衛はそのとき、ボロボロのつづれ一枚に縄の帯という悲惨なすがたで、おまけにまる三日というもの、ろくな食物も口にしていなかった。空腹と寒気のために、幼い佐兵衛はハッキリと死を意識していた。実際あのとき野々宮大弐が、かれを発見するのがもう少し遅れたら、佐兵衛はそこで野垂れ死にをしていたにちがいない。  野々宮大弐は幼い乞食の子が、床下に倒れているのを見ると、驚いてそれをうちへ抱えこんだ。そして、妻の|晴《はる》|世《よ》に命じて、なにくれとなく介抱をさせた。これが大弐と佐兵衛の最初の結びつきとなったのである。 「犬神佐兵衛伝」によると、このとき大弐は四十二歳、妻の晴世は二十二歳、たいへん年齢のちがった夫婦だったが佐兵衛翁の談によると、この晴世というひとは、神のごとくやさしく、しかもその美しさときたら神々しいばかりであったという。  それはさておき、夫婦の手厚い介抱によって、根が頑健な佐兵衛は、いくばくもなくして回復したが、回復しても大弐はかれを手離そうとしなかった。|不《ふ》|憫《びん》なかれの境涯をきいて、いつまでもここにとどまっているようにすすめた。佐兵衛もまた、温かいこのねぐらをはなれたくなかった。こうしてかれは、|居候《いそうろう》とも奉公人ともつかぬ格好で、那須神社の神官のもとに足をとどめることになった。佐兵衛はそれまで学校へ行ったこともなく、むろん眼に|一《いっ》|丁《てい》|字《じ》もなかったが、大弐はそれをわが子のようにいたわって、ねんごろに教育したのである。  大弐がかくまで佐兵衛に眼をかけたのは、その俊敏を見抜いたせいもあるが、もうひとつ、これは「犬神佐兵衛伝」にも出ていない、秘密の理由があったといわれている。それは佐兵衛がたぐいまれな美少年だったことである。晩年にいたっても、佐兵衛翁はわかき日の|美《び》|貌《ぼう》のなごりをとどめていたが、幼いころのかれの美しさは、それこそ文字どおり玉のようであったといわれている。  大弐はその色をめでたのである。ふたりのあいだには当時、|衆《しゅ》|道《どう》のちぎりが結ばれていたという。それの何よりのよい証拠には佐兵衛が身を寄せるようになってから一年あまりのちに、神のようにやさしい晴世が、一時実家へかえっていたことがあるが、それは大弐が佐兵衛ばかり|寵愛《ちょうあい》して、妻をかえりみなかったせいだといわれている。  しかし、夫婦のこの不和も、佐兵衛が家を出ることによって解消したらしく、間もなく晴世は野々宮家へかえっている。そして、その後は夫婦のかたらいもこまやかだったらしく、数年ののちに、晴世は一子|祝《のり》|子《こ》をあげた。この祝子がのちに成人して、養子をむかえて、そのあいだにできたのが|珠《たま》|世《よ》である。そして珠世こそ、実にこの物語の主人公なのだが、そのことについては、もっとさきへいってからお話ししよう。  さて、野々宮家を出た佐兵衛は、大弐の|周旋《しゅうせん》でちっぽけな製糸工場へはいったが、これこそ後に日本財界の一方の雄、犬神財閥をきずきあげる第一歩となったのである。俊敏な佐兵衛は、ひとが数年かかって習うところを、一年にして習得した。それに野々宮家を出たとはいえ、全然、義絶してしまったわけではなく、この後もたえず出入りして大弐の|薫《くん》|陶《とう》をうけていたから、教養もおいおい深くなっていたのである。大弐の妻の晴世も、いったんは佐兵衛のために家出までする羽目にたちいたったが、その後釈然としたらしく、佐兵衛がくると、現在の弟のようになにくれとなくめんどうを見ていたという。  佐兵衛が製糸工場へはいった明治二十年ごろは、いわば日本の生糸工場の|揺《よう》|籃《らん》時代みたいなものであった。佐兵衛はそこで働いているうちに、製糸工場の機構と、生糸を売りさばく商法をまなびとると、まもなく独立して、自分の工場を持つことになったが、それに必要な資本を提供したのは、野々宮大弐であったといわれる。  それから後の佐兵衛はとんとん拍子であった。日清、日露の両戦争、さてはまた第一次世界戦争を経て、日本の国力が充実してくると同時に、生糸が輸出産業の|大《たい》|宗《そう》となるに及んで、犬神製糸会社は、押しも押されもせぬ日本一流の大会社になってしまった。  野々宮大弐は明治四十四年六十八歳をもってみまかった。かれこそは、犬神佐兵衛の最初の事業への投資者だったが、そのとき投資した金額に、若干の利息を加えたものを、のちに受け取っただけで、佐兵衛がどんなに口を酸っぱくして説いても、絶対にかれは、利益のわけまえにあずかろうとはしなかった。かれは生涯を神官として、清い生活を送ったのである。  大弐の死後間もなく、わすれがたみの祝子に養子をむかえて、神官の職をつがせたが、それはみんな佐兵衛の|斡《あつ》|旋《せん》であった。この養子と祝子のあいだには、長いあいだ子がなかったが、結婚後十数年たった、大正十三年にはじめて女の子が生まれた。それが珠世である。  珠世の生まれたころには、祖母の晴世もすでに死亡していたし、また珠世の二十になるまえに、父母ともにあいついでみまかったので、珠世は犬神家にひきとられた。そして、そこで一種特別な待遇……大事な主家のわすれがたみとして下へもおかぬ|丁重《ていちょう》な、客分扱いをうけていた。  ところで犬神佐兵衛だが、どういうわけか、生涯かれは正室というものを持たなかった。佐兵衛には、松子、竹子、梅子と女ばかり三人の子どもがあったが、三人が三人とも生母を異にしており、いずれも佐兵衛の正式の妻ではなかった。この三人はともに養子をむかえて、それぞれ子どももあり、長女松子の夫が那須市の本店、次女竹子の夫が東京支店、三女梅子の夫が神戸支店と、めいめい支配人をつとめていた。佐兵衛翁は犬神財閥の巨大実権を、死ぬまで一手ににぎって、絶対にこれを、婿たちに譲らなかったのである。  さて、昭和二十×年二月十八日、犬神佐兵衛臨終の|枕《ちん》|頭《とう》に侍した犬神家の一族というのはつぎのひとびとであった。  まず長女の松子。彼女は五十歳の坂を二つ三つ越した年ごろだが犬神家の一族では、当時いちばん孤独な|境涯《きょうがい》におかれていた。それというのが、彼女の夫は先年なくなっていたし、一人息子の|佐《すけ》|清《きよ》は、戦争にとられたきり、まだ復員していなかった。もっとも終戦後間もなく、ビルマから便りがあり、生きていることはわかったが、復員するのはいつのことかわからなかった。だから、佐兵衛翁の三人の孫息子のうち、佐清だけが臨終の席にいなかったわけである。  さて、松子のつぎには次女の竹子とその夫の|寅《とら》|之《の》|助《すけ》、それから二人のあいだにできた|佐《すけ》|武《たけ》と小夜子の兄妹。佐武は二十八、妹の小夜子は二十二歳である。  さて、竹子の一家のつぎには三女梅子とその夫幸吉、それから一人息子の|佐《すけ》|智《とも》がひかえている。佐智は佐武とは一つちがいの二十七歳である。  以上八人に未復員の佐清を加えた九人が、佐兵衛翁にとって血縁にあたるひとびとであり、これが犬神家の一族の全部であった。  さて、佐兵衛翁の臨終の席には、以上述べた人々のほかにもうひとり佐兵衛翁にとって縁故の深い人物が|侍《はべ》っていた。いうまでもなくそれは野々宮家のたったひとりの遺児珠世である。珠世は二十六になる。  ひとびとはいま、刻々と細りいく佐兵衛翁の息づかいを見守りながら石のように押しだまっている。不思議なことにはそれらのひとびとの顔色には、肉親の臨終の席に侍している悲哀のいろが微塵も見られなかった。いやいや、悲哀どころか、珠世をのぞいたほかのひとびとの顔に、一様にうかんでいるのは焦燥のいろだった。かれらは何かひどくあせっている。のみならず、たがいに腹をさぐりあっている。おとろえていく佐兵衛翁から眼をはなすとき、かれらの眼はかならず|猜《さい》|疑《ぎ》にみちたいろをうかべて、同族の人々の顔を見回すのである。  かれらがあせっているのは、佐兵衛翁の遺志がわからないからである。この巨大な犬神財閥の機構は、翁の死後、だれによってうけつがれるべきか。また、あの|莫《ばく》|大《だい》な翁の遺産は、どのように分配されるのか、それに対して佐兵衛翁は、いままで一度も意思表示をしていないのである。  そのことについて、かれらが焦燥し、懸念するには、ひとつの理由があった。佐兵衛はかれの娘たちに対して、どういうわけか微塵も愛情をもっていなかった。いわんや、娘の婿たちに対しては、小指のさきほどの信頼もおいていなかったのである。  主治医に脈をとられたまま、佐兵衛翁の息は刻々として細っていく。たまりかねて長女の松子が、とうとう|膝《ひざ》を乗り出した。 「お父様、御遺言は……? 御遺言は……?」  松子の声が耳にはいったのか、佐兵衛翁はうっすらと眼を見開いた。 「お父様、御遺言がございましたらおっしゃってくださいまし。みなお父様の御遺言をおうかがいしたいと待っております」  松子の言葉の意味がわかったのか、翁はかすかにほほえむとふるえる指をあげて、末席に侍っている人物を指さした。佐兵衛翁に指さされたのは、犬神家の顧問弁護士|古館恭三《ふるだてきょうぞう》という人物であった。佐兵衛翁に指さされて、古館弁護士はかるく|咳《せき》をすると、 「いや、御老人の遺言状ならば、たしかにこの私がおあずかりいたしております」  古館弁護士のこの一言は、しめやかな臨終の席に、爆弾を投げつけたも同様の効果があった。珠世をのぞいたほかの人物は、|愕《がく》|然《ぜん》として古館弁護士のほうをふりかえった。 「遺言状があったのですか」  あえぐようにつぶやいたのは、次女竹子の亭主寅之助であった。かれはそうつぶやいてから、あわててポケットからハンケチを出して、額ににじむ汗をぬぐった。それが寒い二月であったにかかわらず。—— 「そしてその遺言状はいつ発表されるのですか。社長がおなくなりになったらすぐ……」  そう尋ねたのは、三女梅子の亭主幸吉である。かれの顔にも、はげしい焦燥の色がうかんでいた。 「いや、そういうわけにはまいりません、御老人の意思によってこの遺言状は、|佐《すけ》|清《きよ》さんが復員されたときはじめて開封、発表されることになっております」 「佐清君が……」  そうつぶやいたのは、竹子の息子の佐武である。なんとなく不安そうな顔色だった。 「しかし、もし、佐清さんが復員できないような場合には……? 不吉なことをいうようですけれど……」  そういったのは次女の竹子である。松子はそれをきくと、ギロリとすごい眼をひからせた。 「ほんとに竹子さんのおっしゃるとおりですわね。生きていらっしゃるといっても、遠いビルマのことですもの。お国へかえってくるまでには、まだまだ、どのようなことがあるかもしれませんわ」  三女の梅子である。姉の顔色などなんのそのといわぬばかりの顔つきで、なんとなく毒々しい口のききかただった。 「いや、なに、そんな場合には……」  と、古館弁護士はかるく咳払いをして、 「御老人の一周忌を期して発表することになっております。そして、それまでのあいだ、犬神家の事業、ならびに財産の管理は、いっさい犬神奉公会で代行することになっております」  不快な沈黙がシーンと一同の上におちてきた。珠世をのぞくほかのひとびとの顔には、一様に焦燥と懸念とそれから一種の憎悪の色さえうかんでいる。松子でさえが、希望と不安と願望と、憎悪のいりまじった眼で、佐兵衛翁の顔を凝視している。  佐兵衛翁はしかし、あいかわらず薄笑いを口もとにうかべたまま、うつろの眼を見はって、松子から順繰りに、一同の顔をながめていたが、最後にその眼が珠世にそそがれると佐兵衛翁の視線は、それきり動かなくなった。  脈をとっていた医者が、そのときおごそかな声で宣言した。 「御臨終です」  かくて犬神佐兵衛翁は、八十一歳の事多かった生涯をとじたのであったが、いまにして思えば、この瞬間こそ、そののちに起こった犬神家の、あの血みどろな事件の発端だったのである。     第一章 絶世の美人  犬神佐兵衛翁がなくなってから、八か月ほどたった十月十八日のことである。那須湖畔にある那須ホテルへ、ひとりの客が来て部屋をとった。  客というのは、年ごろ三十五、六、もじゃもじゃ頭の、|風《ふう》|采《さい》のあがらぬ小柄の人物で、よれよれのセルに、よれよれの|袴《はかま》といういでたち。口を利くと、少しどもるくせがある。宿帳にしるした名前をみると|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》。  もし諸君が「本陣殺人事件」からはじまる金田一耕助の一連の|探《たん》|偵《てい》|譚《だん》を読んでおられたら、この人物に関する説明は不用のはずである。しかしはじめてお眼にかかる読者諸君のために、ここにいささか説明の筆を費やしておこう。  金田一耕助というのは、いたってひょうひょうたる|風《ふう》|貌《ぼう》を持った探偵さんなのである。見たところ、どこにどうといって取り柄のない、いたって風采のあがらぬどもり男だが、その推理の糸のみごとさは「本陣殺人事件」「獄門島」、さては「八つ墓村」の事件などで証明ずみである。興奮するとこの男、どもりがいよいよはげしくなるうえに、むやみやたらと、もじゃもじゃ頭をかきまわすくせがある。あんまり上品なくせではない。  それはさておき、金田一耕助は湖水に面した二階の座敷へ案内されると、さっそく室内電話を外線につないでもらって、どこかへ電話をかけていたが、 「ああ、そう、それじゃ一時間ほどして……ええ、よござんす、お待ちしております。では……」  と、電話を切ると、女中をかえりみてこういった。 「一時間ほどすると、ぼくの名をいってたずねてくるひとがあるから、そうしたらすぐにこの部屋へ通してください。ぼくの名前? 金田一耕助」  金田一耕助はそれからひとふろあびて、部屋へもどってくると、何やらむつかしい顔をして、スーツケースのなかから、一冊の本と一通の手紙を取り出した。本は一か月ほどまえに、犬神奉公会から発行された「犬神佐兵衛伝」、手紙の差出人は、この那須市にある古館法律事務所の、若林豊一郎という人物である。  金田一耕助は湖水に面した縁側に|椅《い》|子《す》を持ち出し、すでに何度も読んだらしい「犬神佐兵衛伝」のページを、あちこち繰っていたが、やがてそれをかたわらにおくと、封筒の中から若林豊一郎なる人物の手紙を取り出した。手紙の文面というのはつぎのとおり、およそ奇怪なものであった。 [#ここから1字下げ]  拝啓、時下秋冷の候、尊台にはますます御健勝、御繁栄の趣き、賀し奉ります。さて未だ面識もなき小生より突如文面をもって、尊台の御清閑をおさまたげすること|甚《はなは》だ恐縮ですが、ぜひとも尊台にお願い申し上げたいことがあるのです。お願いと申すは余の儀にあらず、別送申し上げた「犬神佐兵衛伝」の主人公犬神佐兵衛翁の遺族に関することですが、近くこの犬神家の一族に、容易ならぬ事態が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》するにあらずやと、憂慮にたえぬものがあるのです。容易ならぬ事態——それ尊台の領分に属する血みどろな事件なのです。犬神家の一族中に幾人も幾人も、犠牲者が出るのではあるまいか——それを考えると小生は目下、夜も眠れぬくらいなのです。いやいや、それは将来起こるべき事態にあらずして、現在すでに起こりつつあり、これをこのまま放置せんか、いかなる大惨事となって発展するやも計られず、それを未然にふせぐために、ぜひとも尊台の御来須、御調査を仰ぎたく、|無躾《ぶしつけ》ながらこの文章をしたためました。おそらくこの手紙を読まれる尊台は、小生の狂気をおうたがいになられるであろうが決して小生発狂せしにあらず、あまりの憂慮、あまりの懸念、あまりの恐怖のために、尊台にお|縋《すが》り申し上げるしだいです。なお、御来須の節は、表記古館法律事務所へお電話くだされば、直ちに御訪問申し上げます。くれぐれもこの一文、御閑却くださるまじく、幾重にもお願い申し上げます。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]敬白  [#地から2字上げ]若林豊一郎拝 [#ここから1字下げ]  金田一耕助殿       玉案下 追伸、なお、このこと必ず必ず御他言無用のこと。 [#ここで字下げ終わり]  固苦しい候文を書きなれたひとが、無理に言文一致体の文章を書いたような、どこかギゴチないこの手紙を受け取ったとき、さすが物に動ぜぬ金田一耕助も、|唖《あ》|然《ぜん》たらざるを得なかった。狂人と思ってくれるなといわれても、狂人と思わざるを得なかった。ひとをバカにしているとも考えた。  血みどろな事件といい、幾人も幾人も、犠牲者が出るのではあるまいかというところ、この手紙の筆者はおそらく殺人を予想しているのであろうが、どうしてかれはそれを知っているのであろうか。殺人を計画している人物が、それを余人にもらすはずはないし、第一、人殺しなどということが、たとえ心中に計画があったとしても、そうむやみに実行できるものではない。それだのにこの手紙の筆者が、それを必然の事実のように思いこんでいるのが、なんとなく異様な感じであった。  それに、よしまたそういう計画があり、それをなんらかの理由で探知したとしても、それならば、なぜそのことを犠牲者となるべきひとびとに耳打ちしないのか。まだ事件が起こっていない現在、警察へうったえて出るということはまずいとしても、不幸なひとびとにそっと耳打ちするぐらいのことはできるじゃないか。正面切って打ち明けるのがまずければ、匿名の手紙なりなんなりで、知らせる方法もあるというものだ。  金田一耕助もはじめのうち、この手紙を一笑に付してしまおうかと考えた。しかし、それにはなんとなく気になる節があった。それは文中にある「いやいや、それは将来起こるべき事態にあらずして、現在すでに起こりつつあり」と、いう一節である。  それではなにか妙な事件が、すでに起こったというのであろうか……。  それともうひとつ、金田一耕助の注意をひいたのは、筆者が法律事務所に勤務している人物らしいことである。法律事務所に勤務しているといえば、弁護士か弁護士の見習生ではあるまいか。そういう人物ならば、あるいは他人の家庭の秘事を知り、殺人計画を、かぎつけるような場合もありうるかもしれぬ。  金田一耕助はそこで何度もその手紙を読みかえし、それから同時に送られてきた「犬神佐兵衛伝」を読んでみた。そして、そこにある犬神家の複雑な家庭の事情を知ると、にわかに興味を催した。  金田一耕助も、犬神佐兵衛翁がこの春さきになくなったことを知っていた。また、翁の遺言状の公開が、孫のひとりが復員するまで、保留されていることを、なにかで読んだことも思い出した。耕助の好奇心はいよいよ強くあおられた。そこで、そのころひっかかっていた事件を大急ぎで片づけると、スーツケース片手に、|飄然《ひょうぜん》としてこの那須市へやってきたのである。  金田一耕助が手紙と本を膝へおいて、ぼんやりそんなことを考えているところへ、女中が茶をもってきた。 「ああ、きみ、きみ」  茶をおいて立ち去ろうとする女中を、耕助はあわてて呼びとめると、 「犬神さんのお宅というのはどのへんだね」 「犬神さまのお宅ならば、向こうに見えるあれがそうでございます」  女中の指さすところを見ると、なるほどホテルから数町はなれたところに、美しいクリーム色の洋館と、複雑な|勾《こう》|配《ばい》をもった、大きな日本建築の屋根が見える。犬神家の裏庭は、直接湖水に面しており、大きな水門をもって、湖水の水ともつながっているらしい。 「なるほどりっぱなお屋敷だね。ときに、なくなった佐兵衛氏の、お孫さんのひとりがまだ復員していないということだが、その後どうなったかしら。まだ音さたはないのかね」 「いえ、あの、佐清さまならば、先日博多へお着きとやらで、お母さまが大喜びでお迎えにいらっしゃいました。いま、東京の屋敷のほうに御滞在中とやらですが、二、三日うちに、こちらのほうへ帰ってお見えになるということです」 「ほほう、帰ってきたのかね」  なんとなく、おりもおりという感じで、金田一耕助の胸はおどった。  そのときである。犬神家の水門が、スルスルと上へひらいたかと思うと、なかから|一《いっ》|艘《そう》のボートがすべり出してきた。ボートにはただひとり、若い婦人が乗っている。そのボートを見送るように、男がひとり、水門の外の犬走りへ出てきた。  ボートの婦人と犬走りの上の男は、二言三言、なにかいっているようだったが、ボートの婦人が手をふると、男はのっそりと水門のなかへはいっていった。女はなれた手つきでオールを操りながらスイスイと沖へ|漕《こ》ぎ出していく。いかにも楽しそうである。 「あの婦人は犬神のひとかえ」 「|珠《たま》|世《よ》さまですね。いえ犬神さまのお身内のかたではありませんが、なんですか、犬神さまの主筋とかに当たられるかただそうで……それはそれはきれいなかた、たぶんあんなきれいなひとは、日本にふたりとはあるまいという評判でございますわ」 「ほほう、そんな美人かね。どれどれ、それじゃひとつ、お顔拝見といこうか」  女中の誇張したいいかたを、おかしく思いながら、それでも耕助はスーツケースのなかから、双眼鏡を取り出すと、ボートの珠世にピントをあわせたが、レンズにうつるその顔を、凝視しているうちに、なんともいえぬ|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいて走るのを、禁ずることはできなかった。  ああ、女中の言葉は誇張ではなかったのだ。金田一耕助も、いままでそのような、美人にお眼にかかったことは一度もなかった。少し仰向きかげんに、いかにも楽しげにオールを操る珠世の美しさというものは、ほとんどこの世のものとは思えなかった。少し長めにカットして、さきをふっさりカールさせた髪、ふくよかな|頬《ほお》、長いまつげ、格好のいい鼻、ふるいつきたいほど魅力のあるくちびる——スポーツドレスがしなやかな体にぴったり合って、体の線ののびのびした美しさは、ほとんど筆にも言葉にもつくしがたいほどだった。  美人もここまでくるとかえって恐ろしい。戦慄的である。金田一耕助は呼吸をつめて、珠世の姿を見守っていたが、そのときである。珠世の態度が急にかわった。  オールを漕ぐ手をやめて、珠世はボートのなかを見回していたが、どうしたことか、急になにやら大きく叫んだ。叫んだ拍子にオールを手から離したので、ボートがぐらりと傾いて大きくゆれた。珠世はボートのなかに立ちあがると恐怖に満ちた眼を大きく見はって、気が狂ったように両手をふった。その足下からボートがみるみる沈んでいく。金田一耕助ははじかれたように、|籐《とう》|椅《い》|子《す》からとびあがった。      寝室の|蝮《まむし》  金田一耕助はこのときけっして、客の来るのを忘れていたわけではない。しかし、それにはまだ間があると思っていたのと、みすみす眼前におぼれるものを、見のがすわけにはいかなかったのとで、座敷をとび出すと大急ぎで階段を駆けおりていったが、あとから思えばこのことが、犬神家の事件の調査に|蹉《さ》|跌《てつ》をきたす第一歩だったのだ。  もし、あのとき珠世がおぼれなかったら、そして金田一耕助がとび出さなかったら、犬神家に起こった事件は、もっと早く解決していたにちがいない。  それはさておき、金田一耕助が階下へとびおりると、あとからついてきた女中が、 「|旦《だん》|那《な》様、こちらへ……」  と、足袋はだしのまま庭へとびおりると、さきに立って裏木戸のほうへ走っていく。金田一耕助もそのうしろから走っていった。裏木戸をひらくと、外はすぐ湖水で、小さな|桟《さん》|橋《ばし》の下にボートが二、三|艘《そう》つないである。那須ホテル専用のボートで、舟遊びをする客のために、そなえつけてあるのであった。 「旦那様、ボートお|漕《こ》げになりますか」 「うん大丈夫だ」  ボートなら耕助にも、腕に自信があった。耕助がボートにとびうつると、女中がすばやくともづなを解く。 「旦那様、気をおつけになって」 「うん、よし、大丈夫だ」  耕助はオールを握ると、満身の力をこめて漕ぎ出した。  と、見れば湖心のあたりでは、ボートはすでに半ば以上も水に没して、珠世が狂気のごとく救いを求めている。  那須湖はそれほどふかい湖水ではないが、それがかえって危険なのである。湖底から伸びた丈余の|藻《も》|草《ぐさ》が、水のなかで女の髪の毛のようにもつれあい、からみあっているから、うっかりそれに巻きこまれると、相当泳ぎの達者なものでも、おぼれることが珍しくなく、また、おぼれるとなかなか|死《し》|骸《がい》があがらないのである。  珠世の叫びをききつけたのか、耕助より少しおくれて、向こうの貸しボート屋の桟橋からも、二、三艘のボートがバラバラと漕ぎ出した。また女中の知らせに驚いてとび出したのだろう。耕助のうしろからも、那須ホテルの番頭や男衆たちが大声にわめきながらボートを漕いでくる。  それらのボートの先頭をきって、耕助は夢中でオールを操っていたが、そのときだった。  犬神家の水門のなかから、さっきの男が犬走りの上にとび出してきた。男は沖の様子をみると、すばやく上衣をとり、ズボンをぬいで、ざんぶとばかり湖水にとびこむと、沈みいくボートを目ざして泳ぎ出したが、いやその早いこと、早いこと。  両腕が水車のように回転して、猛烈なしぶきがあがる。スルスル、男はまるで|銀《ぎん》|蛇《じゃ》のように、ながくうしろに|水《み》|尾《お》をひいて、一直線にボートのほうへ進んでいった。  結局、この男がいちばん早く、珠世のそばへ泳ぎついたのである。  耕助がようやくそばまで漕ぎ寄せたとき、珠世のボートはすでに|舷《ふなばた》まで水につかって、珠世はぐったり水のなかで男の腕に抱かれていた。 「やあ、どうもたいへんでしたね。さあ、早くおあがりなさい」 「旦那、どうも。それじゃ、お嬢さんを頼みますよ。おらぁボートおさえているだから」 「ああ、そう、それじゃそのひとを……」 「すみません」  珠世は耕助の腕にすがって、やっとボートに|這《は》いあがった。 「きみ、きみ、きみもこのボートにあがりたまえ」 「へえ、ありがとう。それじゃごめんこうむって……ボートがひっくりかえるといけねえから、そっちのほうをおさえていてください」  男は身軽に這いあがったが、そのときはじめてまともから男の顔を正視した金田一耕助は、なんともいえぬ異様な感じに打たれたのである。  その男の顔は猿にそっくりだった。額がせまく、眼がおちくぼんで頬が異様にこけている。醜いといえば、このうえもなく醜い顔だが、その代わり、一挙一動に誠実さが現われていた。  男は珠世をしかりつけるように、 「お嬢さん、だからいわねえことじゃねえんだ。あれほど気をつけなきゃいけねえといっているのに……これで、三度目じゃあねえだか」  三度という言葉が、強く耕助の耳にひびいた。  なんとなくハッとした珠世の顔を見直すと、珠世はいたずらを見つけられた子どものように、泣き笑いをしながら、 「だって、猿蔵、しかたがないわ。ボートに穴があいてるなんてこと、ちっとも知らなかったんですもの」 「ボートに穴があいていたんですって?」  耕助は思わず眼を見はって、珠世の顔を見直した。 「ええ、そうらしいんですの、穴があいてるところを、なにかで詰めてあったらしいんですのよ。その詰めの物がとれたものだから……」  そこへホテルの番頭や、貸しボート屋の客がおおぜい漕ぎ寄せてきた。耕助はしばらくなにか考えていたが、やがて番頭に向かって、 「きみ、きみ、番頭さんすまないがね、そのボートを沈めないように、なんとかくふうをして岸まで持っていってくれませんか。あとで調べてみたいと思うから……」 「へえ」  番頭は妙な顔をしていたが、耕助はそのまま珠世のほうへ向き直ると、 「それじゃあ、お宅までお送りしましょう。家へかえったらすぐ温泉へとびこんで、暖かくしていらっしゃい。でないと、風邪をひきますよ」 「ええ、ありがとうございます」  まだ、がやがやと騒いでいる、宿の番頭や野次馬をあとにのこして、耕助はゆっくりボートを漕ぎ出した。  いまかれの眼のまえには、珠世と猿蔵がすわっている。珠世は猿蔵のひろい胸に頭をよせて、いかにも安心しきった様子である。猿蔵は顔こそ醜かったが、その体のたくましさは、さながら岩のようである。その猿蔵の太い腕に、しっかり抱かれた珠世をみると、まるで松の古木にからみついた、|可《か》|憐《れん》な|蔓《つる》|草《くさ》のようであった。  それにしても、いまこうして眼近に見る珠世の美しさはいよいよ尋常ではなかった。顔かたちの美しさはいうまでもないとして、水にぬれたその肌の、ほんのりと血の気ににおう美しさは、まるで照りかがやくばかり、およそ女色に心を動かしたことのない金田一耕助もこのときばかりは胸が躍った。  耕助はしばらくうっとり、珠世の顔を見つめていたが、珠世がそれに気がついて、ポーッと|頬《ほお》を染めるのを見ると、あわててつばをのみこんだ。それからいくぶん照れ気味に、猿蔵に向かってこんなことをいった。 「さっき、きみは変なことをいったね。これで三度目じゃないかと。……すると、ときどきこんなことがあるんですか」  猿蔵はギロリと眼をひからせると、探るように耕助の顔を読みながら、それでも重い口ぶりで、 「そうだよ。ちかごろちょくちょく変なことがあるで、それでおらぁ心配してるだ」 「変なことというと……」 「あら、なんでもありませんのよ。猿蔵、あんたバカねえ。まだあのこと気にしてるの、あれはみんななにかのまちがいよ」 「まちがいだって、お嬢さん、まかりまちがえばあんたの命にかかわることだ。どうもおらぁ不思議でならねえ」 「へえ、命にかかわることって、どんなことがあったんです」 「一度はお嬢さんの夜具のなかに、|蝮《まむし》がとぐろをまいていただよ。幸い早く気がついたからよかったものの、うっかり|咬《か》まれたら死なねえまでも大けがをするとこだ。それから二度目にゃ、自動車のブレーキがきかねえようにしてあっただ。それでお嬢さん、危なく崖から自動車もろとも落っこちそうになっただあな」 「うそよ、うそよ、そんなことなんでもないのよ、偶然そんなまわり合わせになったんだわ。猿蔵、おまえは少し取り越し苦労をしすぎるのよ」 「だって、こんなことがたび重なると、いつどんなことが起こるかもしれねえ。それを考えるとおらぁ心配で、心配で……」 「バカねえ。もうこのうえ、なにが起こるもんですか。あたしは運がいいのよ。運がいいからいつも助かっているじゃないの。そんな心配されると、あたしかえって気味が悪いわ」  珠世と猿蔵がいい争っているうちに、ボートは、犬神家の水門へついた。  耕助はそこの犬走りの上に、ふたりを残すと、お礼の言葉をあとにして、ホテルのほうへ漕ぎもどったが、そのみちみち、いまの猿蔵から聞いた言葉を思い出してみる。  寝室の蝮に自動車の故障、それに今日のボートの穴と、それらがみんな珠世のいうように、偶然のまわり合わせであったろうか。そこには|何《なん》|人《ぴと》かの意志が働いているのではあるまいか。何人かの意志が働いているとすると、とりも直さずそのひとは、珠世の命をねらっているのだ。そして、ひょっとするとそのことと若林豊一郎のあの無気味な予感とのあいだに、なにか関係があるのではあるまいか。そうだ、若林という男にきいてみよう。若林豊一郎はもうそろそろ宿へやってくる時分である。金田一耕助は、力をこめてボートを漕ぎ出した。  宿へかえると、果たして若林豊一郎がきていた。 「あの……お客様がお見えになりましたので、お座敷のほうへ御案内しておきましたが……」  と、いう女中の言葉に、耕助は急いで二階へあがってみたが、客の姿はどこにも見えない。しかし、客の来ていることはたしかなのである。灰皿には|煙草《た ば こ》の吸いがらがくゆっているし、座敷のすみには、見おぼえのない帽子がぬぎ捨ててある。  おおかた便所へでも行ったのであろう。……そう思って耕助は籐椅子に腰をおろしていたが、いくら待っても客の姿は現われなかった。たまりかねて耕助はベルを押して女中を呼んだ。 「きみ、客はどうしたんだい。見えないじゃないか」 「あら、お見えになりません? まあ、どうなすったんでしょう。手洗いじゃありませんかしら」 「手洗いにしても長過ぎるよ。部屋でもまちがえたんじゃあないか。きみ、ひとつ探してくれたまえ」 「変ですねえ。どこへいらしたんでしょう」  女中は妙な顔をして出ていったが、それから間もなく、キャッというような悲鳴がきこえてきた。たしかに女中の声である。  耕助が驚いて、声のするほうへ駆けつけると、洗面所のまえでさっきの女中が、|真《ま》っ|青《さお》になって立ちすくんでいる。 「き、きみ、ど、どうしたんだ」 「あ、旦那様、……お客様が……お客様が……」  女中の指さすほうをみると、洗面所のドアが少しひらいて、そこから見えるのは横に倒れた男の脚。耕助はドキッと息をのむと、ドアをあけて洗面所のなかへ踏みこんだが、それきり棒をのんだように立ちすくんでしまったのである。  洗面所の白タイルの床の上に、黒眼鏡をかけた男が、うつぶせになって倒れている。倒れるまえによほどもがいたと見えて、オーバーの|襟《えり》やマフラが乱れ、床をつかんだ両手の指は、|爪《つめ》もくいいらんばかりに節くれ立っている。しかも白いタイルのうえには、男の吐いたらしい血が点々としてこぼれているのである。  耕助はしばらく凝結したように立ちすくんでいたが、やがてそっとちかよると、男の腕をとってみた。むろん、脈はもうなかった。  耕助は男のかけた黒眼鏡をはずし、それから女中をふりかえった。 「きみ、きみ、きみはこのひとに見覚えはない?」  女中はこわごわ男の顔をのぞきこんだが、 「あら、若林さんだわ!」  その一言に耕助の心臓はギョクンとおどった。  ふたたびかれは|茫《ぼう》|然《ぜん》として、立ちすくんでしまったのである。      古館弁護士  金田一耕助にとって、これほど大きな侮辱はなかった。  私立探偵と依頼人との関係は、|懺《ざん》|悔《げ》|僧《そう》と懺悔人との関係も同じことである、と金田一耕助は日ごろから考えている。  罪深い懺悔人が、いっさいの秘密を打ち明けて、懺悔僧に取りすがるように、事件の依頼人も、余人にはもらさぬことを打ち明けて、私立探偵の力にすがろうとする。それにはよくよく相手の人格を信頼したうえでのことであろうし、それだけに、依頼された身になってみれば、依頼人の信頼にこたえなければならぬ。  金田一耕助はいままでその方針でやってきたし、そしてまたいままで一度も、依頼人の信頼を裏切ったことはないという自負も持っていた。  ところがどうだろう。こんどの事件の場合は、依頼人は自分の面前へ現われるやいなや殺されてしまったのだ。しかも、自分の部屋で……耕助にとって、これほど大きな屈辱があるだろうか。  さらにまた、これを逆に考えると、若林豊一郎を殺した人物は、若林が秘密の一端を金田一耕助なる探偵に打ち明けることを知っていて、これを防ぐ目的で、こういう残忍な所業をあえてしたのにちがいない。と、いうことはこの事件の犯人は、すでに金田一耕助の存在を知っており、かれに挑戦してきたことになるではないか。  そう考えると耕助は、心中に怒りがもえあがり、また同時に、猛然とファイトがたぎり立つのであった。  まえにもいったとおり耕助は、最初、この事件に対して半信半疑の気持ちであった。若林豊一郎のおそれているようなことが、果たして起こるかどうか疑問だと考えていた。しかし、それらの疑問は、いまや一挙にして解消したのだ。この事件は、若林豊一郎の手紙にあるよりも、もっともっと深い根底を持っているのだ。……  それはさておき、金田一耕助は最初かなり変な立場に立たされた。金田一耕助はシャーロック・ホームズではない。名声それほど天下にとどろいているというわけでもないので、知らせをきいて駆けつけてきた、那須署の署長や係官に対して、自分の立場を説明するのに、かなり困難を感じなければならなかった。  それにまた、若林豊一郎のあの手紙を、いまただちに公表することは、なんとなくはばかられるのである。それだけに、自分が那須市へやってきた目的をハッキリ相手に納得させるのに、|躊躇《ちゅうちょ》が感じられたのだ。  果たして係官たちは、耕助に対してなんとなく釈然としないものを抱いたようだ。耕助は若林豊一郎との関係を根掘り葉掘り尋ねられた。そしてようやくある種の調査を依頼されてやってきたのだが、その調査というのが、どういうものであるか、相手が死んでしまったいまとなってはわからないというようなことでお茶をにごした。  係官はできるだけ遠回しな言いかたであったが、当分当地にとどまっているようにと、耕助にむかって要請したが、耕助もそれについては異議はなかった。かれ自身、この事件の決着がつくまでは、絶対に那須市を去るまいと固く心にきめていたのだ。  それはさておき若林豊一郎の死体はその日のうちに解剖されて、死因もどうやら確認したが、それによるとやっぱりかれは、ある毒物によって殺されたのである。ところで、その毒物だが妙なことには胃の|腑《ふ》からは検出されずに肺臓から発見されたのである。つまり、若林豊一郎は毒をのんだのではなく、吸ったのである。  こうわかると、すぐに注目をひいたのは、若林豊一郎が灰皿のなかに吸いのこした煙草の吸いがらである。この吸いがらは外国煙草だったが、これを分析した結果、果たして毒物は煙草のなかに混ぜられていたことがわかったのである。しかも、妙なことには、毒物の混ざっていた煙草は、その吸いがらの一本きりだった。  若林豊一郎のシガレットケースには、まだ数本の煙草が残っていたが、それらの煙草からは、格別怪しいものは発見されなかった。してみると犯人は、いつ幾日、若林豊一郎を殺そうという、ハッキリとした目算はなかったが、いつでもよい、早晩、若林豊一郎は死にさえすればよかったのだろう。  このやりくちは、非常に|悠長《ゆうちょう》なように見える。だが、それだけにまた、巧妙かつ陰険きわまる手段ともいえるのだ。なぜならば、事件のおこった際、犯人は必ずしも被害者の身辺にいなくともよい。それだけに嫌疑をうけるパーセンテージも、他の毒殺の場合にくらべて、はるかに少ないのである。  金田一耕助は、この陰険極まるやりくちに、舌をまいて驚嘆せずにはいられなかった。いまや金田一耕助にむかって、戦いをいどんできた相手は、容易ならぬ人物なのだ。  それはさておき、若林豊一郎が変死を遂げた翌日、那須ホテルへ金田一耕助を訪ねてきた客がある。  女中が持ってきた名刺を見ると、「古館恭三」  耕助はそれを見ると、思わずドキリと眼をとがらせた。  古館恭三といえば、古館法律事務所の所長にちがいない。そして、そのひとこそ、犬神家の顧問弁護士であり、かつまた、犬神佐兵衛翁の遺言状を預かっている人物なのだ。  金田一耕助は一種の胸騒ぎを感じながら、すぐこちらへ通すようにと女中に命じた。  古館恭三というのは色の浅黒い、一種きびしい表情をもった、初老の紳士であった。  かれは職業的な鋭さを持ったまなざしで、ぬかりなく耕助の様子を観察しながら、それでも、言葉だけはていねいに初対面のあいさつと、突然の来訪について陳謝の意をのべた。  耕助はそれがくせの、がりがり頭をかきまわしながら、 「いやあ、ど、どうも……昨日はぼくも驚きましたが、あなたのほうでも、さぞ、びっくりされたでしょう」 「さよう、事の意外に私はまだ、真実だとは思えぬくらいで……それについて、実は今日お伺いしたのですが……」 「はあ」 「さっき、警察でもきいたのですが、若林君はあなたになにか調査を依頼しようとしていたそうですが……」 「そうなんですよ。ところがそれを聞くまえにあんなことになってしまって……いったいなんの調査をぼくに依頼しようとしていたのか、わからんことになってしまったのですよ」 「しかし、ヒントぐらいはおわかりでしょう。手紙かなんかでお願いしたと思うのですが……」 「ええ、それは……」  金田一耕助は、じっと顔を見すえながら、 「古館さん。あなたは犬神家の顧問弁護士でしたね」 「さよう」 「とすれば、犬神家の名誉はお守りくださるでしょうね」 「それはもちろん。……」 「実はね。古館さん」  金田一耕助は急に声をおとすと、 「ぼくも犬神家の名誉を考えて、つまらんことはしゃべらないほうがよかろうと、警察にも黙ってたんですが、実は若林氏からこんな手紙をちょうだいしたんですよ」  金田一耕助は例の手紙を出してみせた。そして、その手紙を読んでいる、古館弁護士の表情を、注意ぶかく見守っていた。  古館弁護士の顔色には、みるみる深いおどろきの色がひろがってくる。浅黒い額に、深いしわがきざまれて、ビッショリと汗がうかんできた。手紙を持つ手がブルブルふるえた。 「古館さん、あなたはその手紙の内容について、なにかお心当たりはありませんか」  古館弁護士はしばらく放心したような顔をしていたが、耕助にそう声をかけられると、ドキッとしたように肩をふるわせた。 「ああ、いや……」 「ぼくは不思議でならないんですが、犬神家になにか起こりそうな気配があるとしても、若林氏がどうしてそれを知っていたか……この手紙を見ると、若林氏はそのことについてひどく確信があるようですが、どうしてそういう確信を持つにいたったか、古館さん、あなたはそれについて、なにかお心当たりはありませんか」  古館弁護士の顔色には大きな動揺があらわれていた。かれにはなにか心当たりがあるらしいのだ。  耕助は膝を乗り出し、 「古館さん、あなたはこの手紙のことを全然ご存じじゃなかったのですか。若林氏が、なにかぼくに調査を依頼していたことを……」 「知りませんでした。もっとも、今から思えば、若林君の様子にはたしかに変わったところがあった。妙にビクビクとして、なにか恐れているところが……」 「何か恐れていた……?」 「ええ、そう。これは若林君が殺されてから、はじめて思いあたるところなんですが……」 「いったい、何を恐れていたのでしょう。あなたはそれについて、なにかお心当たりはありませんか」 「さあ、それですがね」  古館弁護士は心中なにかとたたかっている|風《ふ》|情《ぜい》だったが、やがて心をきめたように、 「実はそれについて、あなたとも御相談してみようと思ってあがったのですが……実は、犬神佐兵衛翁の遺言状ですがね……」 「はあ、遺言状が……? どうかしましたか」 「その遺言状は、私の事務所の金庫のなかにしまってあるんですが、昨日、若林君のことがあってから、なんとなく胸騒ぎがしたものですから、金庫をしらべてみたところ、その遺言状が、だれかに読まれたらしい気配があるんです」  耕助は思わず、ドキリと膝をすぼめた。 「遺言状が……? だれかに読まれた……?」  古館弁護士は暗い顔をしてうなずいた。耕助はいくらか息をはずませながら、 「そして、その遺言状を読まれては、なにか不都合なことがあるんですか」 「いや、この遺言状は早晩……と、いっても、佐清君がいよいよ復員してきましたから、二、三日うちに発表されることになっていますが、私はかねがね、この遺言状が発表されたら、なにか一騒動起こらねばよいがと、胸をいためていたところなんです」 「なにか変わったところがあるのですか、その遺言状に……?」 「非常に!」  と、古館弁護士は力をこめて、 「いささか非常識ではないかと思われるくらい変わっているんです。これではまるで遺族のひとびとを互いに憎みあうように仕向けることも同様だと、私も極力老人をいさめたんですが、なにしろ佐兵衛というひとががんこなひとで……」 「その遺言状の内容というのを、お漏らし願えませんか」 「いやいや」  と、古館弁護士は手をふって、 「それはいけません。故人の意思によって、佐清君が本邸へかえるまで、絶対に発表できないことになっているのですから……」 「わかりました。それじゃ|強《し》いてお尋ねもいたしませんが、しかし、その遺言状が読まれた気配があるとすると……どうせ、遺言状の内容に興味を持つのは、犬神家の遺族のひとに限っていますが、だれかが金庫を……」 「しかし、それは考えられないことです。犬神家の連中であの金庫をあけるチャンスのあったひとがあるとは思えません。そこで私は考えるのですが、若林君がだれかに買収されたのではないか。……若林君なら、金庫をあけることもできるのです。そこで、犬神家のだれかに頼まれて遺言状のうつしをとったのではないか。ところが、その結果として犬神家に変なことが持ち上がった。若林君はそれを恐れたのじゃないかと思うんです」 「犬神家に変なことが起こったというと?」  古館弁護士は探るように、金田一耕助の顔を見ながら、 「そのことについちゃ、あなたにもだいたいお察しのことと思うが、……昨日も湖水で、変なことがあったそうで……」  耕助ははじかれたようにギクリと体をうしろへ反らした。 「ああ、あのボートの一件……」 「ええ、そう。あなたはあのボートをお調べになったそうだが……」 「そうです、そうです。調べました。ボートの底には、たしかにくり抜いたような|孔《あな》があいていて、そこをパテで詰めてあったんですよ。そうすると、あの珠世という女性が遺言状のなかでなにか……?」 「そうなんです。あのひとこそ、遺言状のなかでの大立て物なんです。犬神家の遺産相続に関して、あのひとが絶対有利な立場にあるんです。あのひとが死にでもしない限り、犬神家の相続者は、あのひとの意思ひとつできまることになっているんですよ」  金田一耕助は卒然として、昨日見たあの美しいひとを思い出した。  ああ、あの後光のさすような、神々しいばかりの美しさ、世にもたぐいまれなあの美女のうえに、犬神佐兵衛翁はいったいどのような運命を用意しておいたのだろうか。  西陽をうけて沈みゆくボート、そのボートの上で狂気のごとく手をふっていた珠世の背後に、大きくせまる真っ黒な手を、耕助はそのとき、幻のように眼前にえがいたのであった。      佐清帰る  昭和二十×年十一月一日——それは金田一耕助がやってきてから、すでに二週間もたった後のことであるが——信州那須湖畔にある那須市では、朝からなんとなくものものしい空気をはらんでいた。  それは南方から復員してきて、どういうわけか、そのまましばらく東京に滞在していた、犬神家の嫡流、犬神佐清が、迎えに行った母の松子とともに、昨夜おそく、とうとう那須市の本邸へ入ったという知らせが、早くも町じゅうにひろがっていたからである。  那須の繁栄は、すべて犬神家の運命にかかっている。  犬神家繁栄即那須市繁栄であった。寒い山国の、実りもゆたかでないかつての湖畔の一寒村が、人口十何万という現在の都会に発展したのは、すべてそこに犬神財閥という巨大な資本の力が種子をおろしたからである。その種子が芽生え、育ち、繁栄していくにしたがって、周辺の土地も栄えていった。そして、そこに現在の、那須市という近代的都市が構成されたのである。  したがって那須市とその周辺に住むひとびとは、犬神財閥の事業に直接関係していると否とにかかわらず、大なり小なり、犬神家の恩恵をこうむっていないものはなかった。かれらはすべて、犬神家の事業のおこぼれをちょうだいして生活しているのであり、犬神家こそは、したがって、事実上の那須市の主権者も同様だった。  それだけに、那須市民全体の、犬神家に対する関心は大きい。わけても佐兵衛翁亡きのちの、犬神家の運命こそは全市民関心の的だったといっても、必ずしも言い過ぎということはできないであろう。  犬神家のその運命を決定するのが、松子のひとり息子佐清である。かれの復員を待って、佐兵衛翁の遺言状が公表されるということは、那須市民のすべてが知っていた。したがってかれらは、犬神家のひとびと同様、いや、あるいはそれ以上の熱心さをもって、佐清の復員を待ちに待っていたのである。  その佐清がいよいよ復員してきた。かれが博多へ上陸したという知らせは、電流が電線をつたわるように、那須市民のあいだにつたわった。かれらはそのひとが——ひょっとすると、自分たちの新しい主人になるかもしれないそのひとが、一刻も早く、那須市へかえってくるのを、一日千秋の思いで待っていたのである。  ところがどうだろう、その佐清は、博多へ出迎えに行った母の松子とともに、東京の別邸へ入ったきり、なかなか動きそうな様子が見えないのである。一日二日のあいだはまだよかった。しかし、松子母子の東京滞在が一週間とのび、十日とたつにしたがって、那須市民のあいだにはおいおい不安の空気がみなぎりはじめた。  佐清はなぜかえってこないのだ。なぜ、一日も早くかえってきて、祖父の遺言状を披見しようとしないのだ。迎えに行った母の松子は、だれよりもこのことを知っているはずではないか。  それについて、ある人はこんなことをいった。佐清さんは病気ではあるまいか。それで東京の別邸で、静養しているのではなかろうか。  しかし、それに反対するひとは、こういってまえの言葉を打ち消している。病気静養ならば、東京よりも那須市のほうが適当のように思われる。博多から東京までかえってこれる体力があるならば、ひとあしのばして、信州までかえってくるのは、なんの|造《ぞう》|作《さ》もないことであろう。汽車がいけなければ、自動車だってなんだって、犬神家の財力をもってすれば、かなわぬということはない。また、医者にしたところで、これまた、犬神家の財力をもってすれば、いくらでも東京から名医が呼びよせられるはずではないか。第一、佐清さんは幼いころから東京の生活をよろこばなかった。あのひとは、自分のうまれた那須湖畔の風物をこよなく愛し、自分のうまれた湖畔の家に、はげしい執着をもっていた。長い戦争と、その後の抑留生活につかれた佐清さんが、もし健康を害しているならば、那須湖畔のあの本邸こそ、いちばん適当な療養所ではないか。だから、佐清さん母子の東京滞在がながびくのは、病気のせいとは思えない……と。  だが、そういうひと自身にも、それではどういう理由がかれら母子を東京に引きとめているのかという点になると、満足な説明はできなかった。いったい、佐清とその母松子はなんだってこうも犬神家の一族、ならびに那須市民をじりじりさせるのだろう。  実際、那須市民も那須市民だが、犬神家の一族の焦燥はたいへんなものだった。  不思議なことには、単身博多まで息子を迎えに行った松子は、そこから妹の竹子と梅子の主人にあてて、ひとあしさきに那須市へ行って、自分たちのかえりを待っているように電報をうっているのである。だから、竹子と梅子の一家はそれぞれ東京と神戸から駆けつけてきて、那須湖畔の本邸で松子母子のかえりを、今日か明日かと首をながくして待っていたのだ。  それにもかかわらず、松子母子はいったん東京の別邸で旅装をとくと、そのまま半月以上もそこに沈没してしまったのである。そして、こちらから帰省を督促すると、今日かえる、明日かえるという電報はやってきたが、その実、いっこう腰をあげる模様はなかった。  しかも、いよいよ不思議なことには、たまりかねた竹子、梅子の姉妹が、ひそかにスパイをはなって、東京における松子母子の動静をさぐらせたにもかかわらず、皆目様子がわからなかった。松子も佐清も東京の別邸の奥ふかく閉じこもったきり、だれにも絶対に顔を見せないというのである。  こうして松子母子の東京滞在は、いよいよ疑惑をふかめるばかりか、おりから起こった若林豊一郎の殺害事件とともに、なんともいえぬ不安な影を、那須市全体に投げかけていたものである。  それはさておき、その朝——すなわち十一月一日の朝のことである。  つい朝寝坊をして、十一時すぎになってやっと、朝昼兼帯の食事をすました金田一耕助が、湖水を見晴らす縁側に椅子を持ち出し、ぼんやりとつまようじをつかっているところへ思いがけない客がやってきた。  客というのはほかでもない。犬神家の顧問弁護士、古館恭三氏であった。 「やあ、これは——今日あなたにお眼にかかるとは、ちと意外でしたね」  金田一耕助が、持ちまえの人なつっこい微笑をうかべてあいさつをおくると、古館弁護士は例によって、ムッツリと|眉《まゆ》をひそめ、 「どうしてですか」 「どうしてって、いよいよ例のが帰ってきたというじゃありませんか。とすればさっそく遺言状公表という段取りになるのだろうから、今日あたりあなたは犬神家にとっつかまって、てんてこ舞いだろうと思ってたんですよ」 「ああ、そのことですか。それじゃもうあれがお耳に入りましたか」 「入りましたとも。なんしろこんな小さい町ですからな、それに犬神家といえば、このへんのひとたちにとっちゃ昔の御領主様みたいなもんだから、そこに起こった出来事といえば、細大もらさず、たちまち町じゅうにひろがってしまいます。今朝も起きぬけに女中のやつが、御注進というわけで——あっはっは、これは失礼いたしました。まあそこへお掛けください」  古館弁護士はかるくうなずいたまま、縁側に立って、向こうに見える犬神家の建物を、湖水越しにながめていたが、やがてゾクリと肩をすくめると、音もなく金田一耕助の向かいに腰をおろした。  みると今日はモーニングの盛装で、大きな折りカバンを小わきにかかえている。古館弁護士はその折りカバンを、そっと籐の茶卓の上におくとそれきりしばらく無言である。  金田一耕助はだまってその顔を見つめていたが、やがてニヤニヤ頭をかきながら、 「どうなすったんです。ひどく思案にくれてるって格好じゃありませんか。盛装して、いったい、どちらへお出かけです」 「ああ、いや」  古館弁護士は思い出したように、のどの奥で|痰《たん》をきると、 「実はこれから犬神家へ出かけるところですがね、そのまえに、急にあなたにお眼にかかっておきたくなって……」 「ははあ、なにか御用でも……」 「いや、別に用事ってわけじゃないのですが……」  古館弁護士はちょっと口ごもったが、やがておこったような口ぶりで、 「私がなぜこれから、犬神家へよばれていくか、それはもういうまでもありますまい。いまあなたもおっしゃったように、佐兵衛翁の遺言状を発表するためです。だから私はまっすぐに犬神家へ出向いていって、親戚一同の集まっているまえで、遺言状を読みあげれば、それで役はすむはずなんです。なにもためらうことはない。……それにもかかわらず、私はなぜこんなにためらっているのか。なにをこのように思いまどうているのか。そしてまた、なんのためにあなたのところへやってきて、こんな愚にもつかぬ話をしているのか。……わからない。私には自分で自分がわからない」  金田一耕助は、あきれたように弁護士の顔を見つめていたが、やがてはーあとため息をつくと、 「古館さん、あなたは疲れていらっしゃるんですね。過労ですよ、きっと。気をおつけにならなければいけませんね。それから……」  と、耕助はそこでいたずらっぽく眼をかがやかせると、 「それから、あなたがなぜここへいらしたか、……それはぼくにもわかってますよ。それはね、あなたが意識していられると否とにかかわらず、だんだんぼくを、信用しはじめた証拠ですよ」  古館弁護士は眉をあげると、ギロリと耕助の顔をにらんだが、やがて渋い微笑をうかべると、 「いやあ、あるいはそうかもしれません。実はね、金田一さん、わたしゃあなたにあやまらねばならんことがある」 「はてな。ぼくにあやまらねばならんことというのは……?」 「ほかでもありませんがね。わたしは実は、東京の同業者にたのんで、あなた、すなわち、金田一耕助なる人物の身元調査をしてもらったんですよ」  これにはさすがの耕助も、びっくりしたように眼玉をひんむいた。しばらくあっけらかんとして、古館弁護士の顔を見つめていたが、やがて爆発するような高笑いをゆすりあげた。 「こ、こ、これあどうも、……いやはや、ど、ど、どうもどうも、……名探偵、逆に探偵されるというわけですな。しかし……いやいや、別にあやまらなくてもいいですよ。いや、ぼくにとっちゃ実にいい教訓になりましたよ。実はね、これで相当うぬぼれがあって、金田一耕助といやあ、名声天下にかくれなし……てえくらいの自信は持っていたんですからね。あっはっは、いやいや、冗談はさておいて、調査の結果はどう出ました」 「さあ、それがね」  古館弁護士はいくらか座り心地が悪そうに、|尻《しり》をもがもがさせながら、 「大々的に太鼓判をおしてきましてね、手腕においても、人物においても、絶対に信用してまちがいなし……とこんなふうにいってきたものですから……」  とはいうものの、古館弁護士の顔色からは、半信半疑の色がぬぐい切れなかった。 「いやあ、そういわれると恐縮ですが……」  と、うれしいときのこれがくせで、金田一耕助は五本の指で、雀の巣のようなもじゃもじゃの頭をかきまわしながら、 「なるほど、なるほど、それで思案にあまる親族会議をまえにして、ぼくのところへやってこられたというわけですね」 「つまり……ええ、まあそうです。いつかもいったとおり、わたしはこの遺言状を虫が好かんのです。依頼人の意志について、とやかくいうことははばからねばならんところですが、この遺言状はあまり突飛すぎる。これではまるで犬神家の遺族のひとたちを、血で血を洗ういさかいの|渦《うず》のなかへ投げこむようなものなんです。これが公表されたあかつきにはどんな騒動が起こるか。……この遺言状の作成を依頼された当時から、わたしは漠然として、そんな不安を抱いていたんですが、そこへもってきて、せんだって若林君の事件でしょう。それがまだ片づかんうちに、いよいよ佐清君がかえってきたことはよろしい。犬神家にとって、これがめでたいことかどうかは二の次ぎとして、長らく外地で苦労してきたひとがかえってきたのだから、なんといっても、これはめでたいことですよ。しかし、佐清君はなぜあのように、人眼を避けてかえってこなければならんのか。なぜ、あのように、人に顔を見られるのを極端にきらうのか。どうもそこのところが虫が好かない」  しだいに熱してくる古館弁護士の言葉に、注意ぶかく耳をかたむけていた耕助は、ここにいたって、はっと不審そうに眉をあげた。 「佐清君が人眼を避けているんですって?」 「そうです」 「ひとに顔を見られるのをきらうんですって?」 「そうですよ、金田一さん、そのことについちゃ、あなたはまだ聞いてはいなさらんかな」  耕助がぼんやり頭を左右にふると、古館弁護士は急に茶卓の上に身を乗り出し、 「実はね、金田一さん、これは犬神家の奉公人から聞いたことなんですが、松子夫人と佐清君は、昨夜、なんのまえぶれもなしに、本邸へかえってきたんですよ。たぶん終列車でかえってきたんでしょう、ずいぶん遅くなって表の|呼《よ》び|鈴《りん》が鳴るものだから玄関番の書生がだれだろうと思いながら表門をあけると、そこに立っていたのが松子夫人なんだそうです。書生がびっくりしていると、松子夫人のうしろからひとりの男が|外《がい》|套《とう》の|襟《えり》を立てて入ってきたが、なんとその男は、まっくろな|頭《ず》|巾《きん》のようなものを、スッポリ頭からかぶっているんだそうです」  金田一耕助は急に大きく眼をみはった。弁護士の話をきいただけでもなにかしら、ただならぬ無気味さが感じられるのである。 「頭巾を……」 「そうなんだそうです。それで書生がびっくりして立ちすくんでいると、松子夫人はただ一言、佐清ですよ、とそういって、そのままさっさと玄関から奥の自分の居間へ、その人物をつれこんだそうです。さて、そのあとで書生から注進をきいた犬神家は大騒ぎになった。なんしろ、次女の竹子、三女の梅子の一家は二週間もまえから、詰めかけていて、ふたりのかえりを待ちわびていたところですから、書生の注進をきくと、さっそく奥の一間に伺候したが、それに対して松子夫人はただ一言、佐清もわたしも疲れていますから、いずれ明日と、なんといっても佐清君に会わせようとしなかったそうです。それが昨夜のことですが、今朝になってもまだだれも、佐清君の顔を見たものはないそうです。ただ一人、佐清君らしい人物が、手洗所から出てくるところを見た女中がいるそうですが、そのときもそのひとは黒い頭巾をスッポリ頭からかぶっていたというのです。なんでも、その頭巾には眼のところにふたつ孔があいているそうですが、その孔の奥からジロリとこちらを見られたときにはあまりの無気味さに腰がぬけそうだったと、その女中もいっているそうです」  金田一耕助は腹の底からこみあげてくるよろこびを、おさえることができなかった。なにかある。松子母子の不可解な東京滞在といい、顔を見せぬ佐清といい、なにかしら、そこに異常なにおいがある。そして事件が異常なにおいをおびていればいるほど、金田一耕助の食欲はそそられるのだ。  耕助はうれしそうに、がりがり、頭をかきまわしながら、 「しかしねえ、古館さん、佐清君もいつまでも顔をかくしているわけにはいきますまいよ。自分がたしかに犬神佐清であるということを示すためには、いつか頭巾をとらずにはいられないでしょう」 「むろん、そうです。現に今日の遺言状発表ですが、これだって、かえってきたのが佐清君であるということが、確かめられなければ公表するわけにはいきませんからね。だから私は断然、頭巾をとってもらうことを主張するつもりですが、頭巾の下からなにが現われるかと思うと、あんまりいい気持ちじゃないんですよ」  耕助はしばらく考え深そうに渋面をつくっていたが、 「いや、案外、なんでもないかもしれません。戦争に行っておられたのだから、顔のどっかに傷があるとか……そんなところかもしれませんよ。それよりねえ、若林君のことですがねえ」  耕助はそこで急に茶卓の上から身を乗り出すと、 「その後、若林君が遺言状の内容を漏らした相手はわかりませんか」 「わかりません。若林君の日記なんかも、警察で厳重に調べたらしいんですが、まだなんのいとぐちも見つからないようです」 「しかし、若林君にいちばん親しく接触していた人物は……つまり、若林君を買収するのに、いちばん好都合な立場にいたひとは……?」 「さあ……」  古館弁護士は眉根にしわを寄せて、 「そういわれても見当がつきませんねえ。佐兵衛翁が亡くなられた当時、犬神家の一族は、しばらく全部こちらにいたのですし、その後も法要ごとに集まったのだから、若林君を買収しようと思えばだれでも買収するチャンスはあったでしょうよ」 「しかし、相手によりけりでしょう。若林君だって、そうむやみにだれにでも買収されるわけはないでしょうからねえ。このひとのためなら……と、若林君がそう思いこむようなひとはありませんか」  何気なく放った耕助のこの質問は、しかし、いたく相手の心をえぐったらしい。古館弁護士は突然ギョッとしたように息をのみ、しばらく虚空を見つめていたが、やがてハンケチを出して、ソワソワと首のあたりをふきながら、 「そ、そ、そんなはずはありませんよ。だ、だ、だって、そのひとこそ、ちかごろしばしば危ない眼にあっている当人なんですから」  こんどは耕助が、ギョッと息をのむ番だった。かれは大きく眼を見はり、しばらく、孔のあくほど古館弁護士を見つめていたが、やがてしゃがれた声で、ささやくように、 「古館さん、あ、あなたのおっしゃるのは、珠世というひとのことですか」 「ええ? あ、そ、そうです。若林君がひそかにあのひとを|想《おも》っていたらしいことは、日記やなんかでも明らかなんです。あのひとの頼みとあらば、若林君はどんなことでもしたでしょうねえ」 「古館さん、若林君はこのあいだ、ぼくを訪ねてくる直前、犬神家へ立ち寄ったそうですが、そのとき、珠世さんに|逢《あ》ったでしょうか」 「さあ、そ、そこまでは聞いていませんが……し、しかし、たとえ逢ったとしても、まさか珠世さんが毒煙草を……あんな、美しいひとが……」  古館弁護士はしどろもどろになって、額の汗をふきながら、 「そ、それよりも、あの当時、犬神家には一族全部集まってましたからね。もっとも、松子夫人だけは東京へ行ってたが……」 「古館さん、あの猿蔵というのは何者なんです。珠世さんにひどく心服しているようだが……」 「ああ、いや」  古館弁護士はそそくさと腕時計を見て、 「ああ、もうこんな時刻か。金田一さん、わたしはもうこれで失礼します。犬神家でも待っているでしょうから」 「古館さん」  折りカバンをかかえて、そそくさと座敷を出ていく古館弁護士のあとを追っかけるようにして、 「犬神家で発表したあとなら構わんのでしょう。ぼくにその内容を打ちあけてくだすっても……」  古館弁護士はギョッとしたように立ち止まって、耕助の顔を見つめていたが、 「ああ、いや、そ、それは構いません。そうですね。それじゃかえりにもう一度立ち寄って、改めてそのことについてお話ししましょう」  古館弁護士はそういいすてると、折りカバンをかかえて、逃げるようにスタスタと那須ホテルの階段をくだっていった。  しかし、事実は耕助は、それよりももっと早く、遺言状の内容を、知る機会に恵まれたのだが、それはこういうしだいであった。     第二章 斧・琴・菊  古館弁護士がかえっていったあと、金田一耕助はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼つきをして、縁側の籐椅子によりかかっていた。  山国の秋はようやくふけて、|碧《へき》|瑠《る》|璃《り》の湖水のおもてを、さわやかな風が光るように流れていく。日はまさに|午《ひる》。向こうに見える犬神家の洋館のステンドグラスに、キラキラと秋の陽が反射している。  すべてが平静な、風景画のなかの一瞬だった。だが、これにもかかわらず、湖水越しに、犬神家の大きな建物を望見するとき、金田一耕助はなにかしら、背筋をつらぬいて走る戦慄を禁じえなかった。  佐兵衛翁の遺言状は、いままさに発表されようとしている。古館弁護士の話によると、その遺言状は、なにかしら爆弾的な内容を持っているらしい。その遺言状が発表されたとき、あの美しい建物のなかでいったいなにが起こるのだろう。  金田一耕助はまた「犬神佐兵衛伝」を取りあげた。そして、一時間あまりもそのページを、あちらこちらと繰っていたが、だしぬけに湖水のほうから、オーイと呼ぶ声におどろかされて、ふと顔をあげた。  見るとホテルの桟橋にボートが|一《いっ》|艘《そう》。そのボートのなかに立って手をふっているのは、たしかに猿蔵という男である。金田一耕助は眉をひそめて、思わず縁側から身を乗り出した。猿蔵が手をふって招いているのは、どうやら自分らしく思えたからである。 「きみが呼んでいるのはぼくのことかぁ!」  猿蔵はそうだというように大きく首を縦にふった。金田一耕助はなにやら異様な胸騒ぎをおぼえながら、大急ぎで階段をおり、裏の桟橋へ出ていった。 「ぼくになにか用か」 「古館さんが、旦那をおつれしてこいとおっしゃるので……」  猿蔵は相変わらずぶっきら棒な口調でいった。 「古館弁護士が……? 犬神家になにかかわったことでもあったのかい」 「いえ、別に……これから遺言状を読みあげるから、よかったら来てもらいたいとおっしゃるんで」 「ああ、そう、それじゃ支度をしてくるから、ちょっと待ってくれたまえ」  部屋へかえって宿のどてらを、セルの|袴《はかま》に着かえて来ると、ボートはすぐに|漕《こ》ぎ出した。 「きみ、きみ、猿蔵君、ぼくの行くことを、犬神家のひとたちも承知しているの?」 「へえ、奥さまのおいいつけなんで」 「奥さまというのは、昨夜かえってこられた松子夫人のことかい」 「へえ」  おそらく古館弁護士は、松子夫人の留守中に起こった若林豊一郎の変死事件、ならびに、おのれの抱いている不吉な予感について、松子夫人に訴えるところがあったのだろう。そして、遺言状発表の結果、起こることのあるべき凶事を未然にふせぐために、金田一耕助を招待するように、夫人に進言したのであろう。  耕助の胸はおどった。どちらにしても、犬神家の一族に接触する機会の、意外に早くやってきたことをよろこんだ。 「きみ、きみ、猿蔵君、お嬢さんにはその後かわりはないかい」 「へえ、おかげさんで……」 「このあいだのボートね、ありゃあ犬神家のひとがだれでも乗りまわすの」 「いいえ、ありゃあお嬢さん専用のボートなんで……」  金田一耕助の胸はあやしく乱れた。あれが珠世専用のボートとすれば、あのボートに孔をあけたやつは、とりもなおさず、珠世ひとりのいのちを|覘《うかが》っていたことになる。 「猿蔵君、きみはこのあいだ妙なことをいったね。ちかごろ珠世さんにはたびたびわけのわからぬ災難がふりかかってくるというようなことを」 「へえ」 「いったい、それはいつごろからのことだね」 「いつごろからって……そうですね。春の終わりごろからでしょうか」 「そうすると、佐兵衛さんが亡くなられてから、間もなくのことだね」 「へえ」 「いったいだれが、そんないたずらをするのか、猿蔵君にもわからないの」 「そいつがわかっているくらいなら」  猿蔵はギロリと凶暴な眼をひからせた。 「おらぁただじゃおきません」 「珠世さんはいったいきみのなにに当たるのだい」 「珠世さまは、おらの大事な大事なお嬢さんだ。おらぁ亡くなった佐兵衛の旦那から、いのちにかえても、お嬢さんを守るように頼まれたんだ」  猿蔵は歯をむき出して|昂《こう》|然《ぜん》といった。金田一耕助はこの醜い巨人の、|巌《いわお》のようにたくましい胸や、大木のような太い腕を見守りながら、また、なんとやらあやしい胸騒ぎをおぼえた。この巨人ににらまれたものこそ災難である。こいつはきっと、犬のように忠実に、珠世の身辺を護衛し、珠世に指一本でもさすものがあったら、たちどころに躍りかかって首根っ子を折ってしまうにちがいない。 「ときに猿蔵君、昨夜、佐清君がかえってきたってね」 「へえ」  猿蔵の口はまた重くなる。 「きみ、佐清君を見たかい」 「うんにゃ、まだだれもあのひとを見たものはねえ」 「佐清君は……」  耕助がなにかいいかけたとき、ボートはしかし犬神家の水門をくぐって、邸内のボートハウスへ入っていった。  このボートハウスを出て、金田一耕助がまず驚かされたのはひろい庭内のあちこちにおかれたおびただしい大輪の菊の鉢である。金田一耕助は、|花《か》|卉《き》について特別の趣味をもっているわけではない。しかし、いまを盛りと咲きほこる、このみごとな菊の一群を見たとき、思わず眼を見はらずにはいられなかった。庭内の一隅には、|碁《ご》|盤《ばん》|縞《じま》の障子を霜よけにした菊畑さえあった。 「ほほう、こいつはみごとだ。いったいこれはだれの丹精だね」 「あっしがやるんでさ。菊はこの家のおたからだからね」 「おたから?」  耕助は思わずそう聞きかえしたが、猿蔵はそれにこたえず、さきに立ってズンズン歩くと、やがて内玄関へ案内した。 「お客さんだよ」  猿蔵が声をかけると、すぐに奥から女中が出てきて、 「さあ、どうぞ、皆さまお待ちかねです」  と、さきに立って案内した。長い長い廊下であった。どこまでつづくかと思われる。廊下また廊下の迷路であった。廊下に沿うて無数の座敷があった。しかし、その座敷のどれにも人影はなくて、屋敷全体が墓場のようにしいんと静まりかえっているのが、いかにも大事の起こるまえの緊張を思わせた。  やっと金田一耕助は一同の集まっている座敷へ案内された。 「お客様を御案内しました」  廊下に手をついて、女中が障子をあけると、そのとたん、犬神家の一族の視線が、いっせいに、金田一耕助の上に注がれた。古館弁護士は上座のほうから目礼しながら、 「御苦労さま、どうぞそちらのお席へ……下席ではなはだ失礼ですが……」  耕助がかるく頭をさげて席につくと、 「皆さん、このかたが、いまお話し申し上げた金田一耕助氏で……」  犬神家の一族は、それぞれ耕助に向かってかるく目礼する。  金田一耕助はそれらのひとびとの視線が、自分をはなれて、古館弁護士のほうへ向けなおされるのを待って、ゆっくりと座敷のなかを見回したが、そのとたん、なんともいえぬ戦慄が、背筋をむずがゆく走り去るのをおぼえたのである。  そこは十二畳二間をぶちぬいた座敷で、正面の白木の壇には大輪の菊花におおわれた故犬神佐兵衛翁の写真がかざってある。そして、その壇のまえには、黒紋付きの羽織|袴《はかま》で、三人の青年が座っていたが、そのいちばん上座にいる人物を見たとき、耕助の胸はあやしく躍るのだった。その青年は真っ黒な頭巾をスッポリと頭からかぶっている。その頭巾には眼のところにふたつの孔があいていたが、伏し眼がちにうなだれているので、孔の奥は見通せなかった。いうまでもなく、昨夜かえってきた佐清にちがいない。  さて佐清にならんで座っている二人の青年の顔には、金田一耕助も「犬神佐兵衛伝」に|挿入《そうにゅう》された写真で見覚えがあった。次女竹子の息子佐武と、三女梅子のひとり息子佐智である。佐武は小太りに太って、|衝《つい》|立《たて》のように四角な体つきだが、佐智はほっそりとして、|華《きゃ》|奢《しゃ》な体質である。佐武のムッツリとして、人を人とも思わぬ尊大な面構えに比して、佐智のいっときとしてひとつところにとどまっておらぬ眼つきの、どことなく軽薄で|狡《こう》|猾《かつ》そうな表情が、いちじるしい対照を示している。  さて、三人から少しはなれたところに、珠世がただ一人、美しく、端然と座っている。こうして、静かに取りすまして座っている珠世の美しさは、いよいよ尋常のものではなかった。いつかと違って白襟の黒紋付きを着ているので、いくらか老けては見えるものの、その神々しいばかりの美しさは、実に、歯ぎしりが出るようだった。  珠世から少しはなれたところに、古館弁護士が座っている。  さて、珠世の反対側には、松子、竹子、竹子の夫|寅《とら》|之《の》|助《すけ》、佐武の妹小夜子、それから三女梅子とその夫幸吉という順に居並んでいる。  小夜子もかなり美しい。もし、そこに珠世というものがいなかったら、彼女もまた、十分美人でとおったであろう。しかし、珠世のたぐいまれな美しさのまえには、彼女の|美《び》|貌《ぼう》もいちじるしくかすんでみえる。小夜子はそれを意識しているのであろう。おりおり珠世を見る眼つきになんとやら、ただならぬ敵意がうかがわれる。どこか険のある美しさである。 「さて……」  やがて、軽いしわぶきとともに、古館弁護士は|膝《ひざ》においた、分厚な封筒を取りなおした。 「それではいよいよ遺言状を読みあげますが、そのまえに、松子奥さまにお願いがあるのですが……」  松子は無言で弁護士を見る。利かぬ気らしい五十|婆《ばあ》さんである。 「この遺言状は、佐清さんが復員されて、皆さん御一同がお集まりになったとき、はじめて開封を許されることになっております……」 「わかっております。佐清はそこに帰ってきております……」 「しかし……」  と、弁護士はいくらか口ごもって、 「そこにいられるのが、果たして、ほんとに佐清君かどうか……いや、けっしてお疑いするわけではありませんが、ちょっとお顔を拝見できれば……」  松子夫人の眼がチカリとものすごく光った。 「なんですって? それでは古館さんは、この佐清をにせものだとおっしゃるのですか」  しゃがれて低いながらも、どこかねつい、底意地の悪そうな声だった。 「いやいや、そういうわけではありませんが、……皆さんいかがでしょうか。このままでよろしゅうございましょうか」 「それは困りますね」  言下に竹子が口をはさんだ。姉の松子の細いながらも竹のように|強靭《きょうじん》な体質に比して、竹子は小太りに太って小山のような体をしている。あごも二重あごで、いかにも精力的な感じである。それでいて、こういう太った婦人にありがちな人のよさは|微《み》|塵《じん》もなくて、姉に負けず劣らず底意地の悪そうな女だった。 「梅子さん、あなた、どうお思いですか。一度頭巾をとって、佐清さんのお顔を拝ませていただかなくちゃあね」 「それはもちろんですわ」  三女の梅子も言下に答えた。三人の異母姉妹のなかで、梅子がいちばん美しい。しかし、底意地の悪そうな点でも三人のなかで一番だった。  竹子の夫の寅之助と、梅子の夫幸吉も、竹子の言葉に同意を示した。  寅之助という男は五十がらみの、あから顔の大男で、眼つきのギロリとした、横柄な男である。佐武の衝立のような体と尊大な面構えは、この父と母竹子からうけついだものである。寅之助にくらべると、幸吉はずっと小柄で、色の白い、一見柔和そうな顔つきをした男である。しかし、息子の佐智にそっくりな、よく動く眼は、腹の黒さをそのまま表現しているように思われる。薄いくちびる、いつも薄ら笑いをうかべたような男である。  一瞬、一座はシーンと静まりかえっていたが、だしぬけに松子が金切り声をはりあげた。 「佐清、頭巾をとっておやり」  佐清の頭巾をかぶった頭がビクリと動いた。それからよほどたってから、佐清の右手がおどおどとあがったかと思うと、頭巾を下からしだいにまくりあげていった。  頭巾をとった佐清の顔——金田一耕助は「犬神佐兵衛伝」に挿入された写真で、その顔にも見覚えがあった。しかし、おお、その顔! それはなんという奇妙な顔であったろうか。顔全体の表情が、凍りついたように動かない。不吉なたとえだが、その顔は死んでいた。生気というものがまったくなかった。全然血の気の通わぬ顔だった。  きゃっ!……と、小夜子が叫んだ。と、同時に一座にはげしい動揺が起こった。そのざわめきのなかを、怒りにみちた松子のヒステリックな声が甲走った。 「佐清は顔にひどいけがをしたのです。それでああいう仮面をつくってかぶらせてあるのです、わたしたちの東京滞在が長びいたのはそのためです。わたしは昔の佐清の顔とそっくりな仮面を東京で作らせたのです。佐清、その仮面を半分めくってみせておやり」  佐清の震える指があごへかかった。するとどうだろう。まるで顔の皮をひんむくように、ペロリとあごから仮面がまくれあがっていくではないか。  きゃっ!……また、小夜子が悲鳴をあげた。  金田一耕助も、あまりの無気味さに膝頭がガクガク震えてやまなかった。鉛でものみこんだように腹の底がズーンと重くなった。  精巧なゴム製の仮面の下からは、仮面とそっくりなあごからくちびるが現われた。そこには別に異常はなかった。しかし、仮面が鼻のあたりまでめくられたとき、小夜子が、三度きゃっと悲鳴をあげた。  そこには鼻がなかったのである。鼻のかわりになにやらドロドロとした赤黒い肉塊が、|膿《う》みくずれたようにはじけているのである。 「佐清! もうよい! もう仮面をおおろし」  佐清がもとどおり仮面をおろしたとき、だれしもそれでよかったと思わずにはいられなかった。あのいやらしい、ドロドロとした肉塊を、もっと上まで見せつけられたら、だれしも当分飯がのどを通らなかったであろう。 「さあ古館さん。これで疑いは晴れましたか。これは佐清にちがいありません。顔こそ少し変わっていますが、母のわたしが保証するのです。これはわたしの息子の佐清です。さあ、早く遺言状を読んでください」  古館弁護士は気をのまれて、茫然と眼を見はっていたが、松子の最後の一言に、ハッとわれにかえって一座を見渡した。だれももう、それに抗議を申し込むものはない。  はげしいショックに、竹子も梅子も、その夫たちも度を失って、日ごろの底意地の悪さを忘れてしまったのである。 「では……」  古館弁護士は震える指で、あの貴重な封筒を切った。  それから、低いながらもよくとおる声で、遺言状を読みはじめた。 「ひとつ……犬神家の全財産、ならびに全事業の相続権を意味する、犬神家の三種の家宝、|斧《よき》、琴、菊はつぎの条件のもとに野々宮珠世に譲られるものとす」  珠世の美しい顔がさっと青ざめた。ほかのひとびとの顔色も、珠世に劣らず青ざめた。憎しみにみちたかれらの視線が、|火《ひ》|箭《や》のように烈々と、珠世のうえに注がれる。  古館弁護士はしかしそれには委細かまわず、次の条項を読みつづける。 「ひとつ……ただし野々宮珠世はその配偶者を、犬神佐兵衛の三人の孫、佐清、佐武、佐智の中より選ばざるべからず。その選択は野々宮珠世の自由なるも、もし、珠世にして三人のうちの|何《なん》|人《ぴと》とも結婚することを|肯《がえん》ぜず、他に配偶者を選ぶ場合は、珠世は斧、琴、菊の相続権を喪失するものとす。……」  すなわち、犬神家の全財産ならびに全事業は、佐清、佐武、佐智の三人のうち、珠世の愛をかちえたものの手に落ちることになるのである。  金田一耕助はなんともいえぬ異様な興奮に、全身の戦慄を禁じえなかったが、しかもそこにはまだ奇妙な条項がつづいているのであった。      血を吹く遺言状  古館弁護士は震える声で、遺言状を読みつづける。 「ひとつ。……野々宮珠世はこの遺言状が公表されたる日より数えて、三か月以内に、佐清、佐武、佐智の三人のうちより、配偶者を選ばざるべからず。もし、その際、珠世の選びし相手にして、その結婚を拒否する場合には、そのものは犬神家の相続に関する、あらゆる権利を放棄せしものと認む。したがって、三人が三人とも、珠世との結婚を希望せざる場合、あるいは三人が三人とも、死亡せる場合においては、珠世は第二項の義務より解放され、何人と結婚するも自由とす」  一座の空気はいよいよきびしく緊迫してくる。珠世はすっかり色を失って、ふかく頭をたれているが、いかに彼女が興奮しているかということは、わなわな震える肩でもあきらかである。彼女に注がれる犬神家の一族の、憎しみにみちたまなざしは、いよいよ露骨に、毒々しさを加えていく。もし、視線がひとを殺すものなら、珠世はその瞬間において|悶《もん》|死《し》していたことだろう。  そういう緊迫した、殺気のみちた空気のなかに、古館弁護士の震えをおびた、よくとおる声が、|呪《じゅ》|文《もん》のようにつづくのである。まるで地獄の底から、|復讐《ふくしゅう》の悪鬼でも呼び出すように。…… 「ひとつ。……もし、野々宮珠世にして、|斧《よき》、琴、菊の相続権を失うか、あるいはまたこの遺言状公表以前、もしくは、この遺言状が公表されてより、三か月以内に死亡せる場合には、犬神家の全事業は、佐清によって相続され、佐武、佐智のふたりは、現在かれらの父があるポストによって、佐清の事業経営を補佐するものとす。しかして、犬神家の全財産は、犬神奉公会によって、公平に五等分され、その五分の一ずつを、佐清、佐武、佐智にあたえ、残りの五分の二を|青《あお》|沼《ぬま》|菊《きく》|乃《の》の一子青沼|静《しず》|馬《ま》にあたえるものとす。ただし、その際分与をうけたるものは、各自の分与額の二十パーセントずつを、犬神奉公会に寄付せざるべからず」  青沼菊乃の一子、青沼静馬という耳新しい名前がとび出したときには、金田一耕助も驚いて、おやと眉をひそめたが、一座の驚きはそれどころではなかった。犬神家の一族にとってその名はあたかも、爆弾も同様の効果をもっているらしい。古館弁護士のくちびるからひとたびその名がとび出した瞬間、犬神家のひとびとはことごとく、|愕《がく》|然《ぜん》として色を失ったが、わけても、松子、竹子、梅子三人の驚きは大きく、かつ深刻だった。文字どおり彼女たちは、うしろへひっくりかえりそうなほどの、はげしいショックを感じたらしかったが、やがてたがいに顔を見合わせるとその眼のなかには一様に、烈々たる憎悪の炎がもえあがってきた。それは最初の一項が、はじめて古館弁護士のくちびるからもれたとき、すなわち、犬神家の全財産、ならびに全事業が、野々宮珠世に譲られるときいたときにも、まさるとも劣らぬほどの、深刻な憎しみの色だった。  ああ、青沼静馬とは何者なのか。金田一耕助は、くりかえしくりかえし「犬神佐兵衛伝」を精読したが、そのような名前には一度もぶつからなかったのである。  青沼菊乃の一子静馬——かれはいったい佐兵衛翁と、どのような縁があって、かくも|莫《ばく》|大《だい》な恩恵にあずかることができるのであろうか。そしてまた、松子、竹子、梅子の三人はいったいどうしてこの名前に対して、あのようにはげしい憎悪の色を示すのであろうか。それは単に、自分たちの息子の分け前を、横取りするものに対する、憎悪の念であったであろうか。  否! 否!  そこにはもっと深い、根強い理由がありそうに思えるではないか。  金田一耕助は深い興味と好奇心のまじった眼で、犬神家のひとびとの顔色を読んでいたが、そのとき古館弁護士が軽いしわぶきをして、また、遺言状を読みはじめた。 「ひとつ。……犬神奉公会は、この遺言状が公表されてより、三か月以内に全力をあげて、青沼静馬の行方の捜索発見せざるべからず。しかして、その期間内にその消息がつかみえざる場合か、あるいはかれの死亡が確認された場合には、かれの受くべき全額を犬神奉公会に寄付するものとす。ただし、青沼静馬が、内地において発見されざる場合においても、かれが外地のいずれかにおいて、生存せる可能性ある場合には、この遺言状の公表されたる日より数えて向こう三か年は、その額を犬神奉公会において保管し、その期間内に静馬が帰還せる際は、かれの受くべき分をかれに与え、帰還せざる場合においては、それを犬神奉公会におさむることとす」  一座はシーンとしずまりかえっている。それはなんともいえぬほど、恐ろしい静けさであった。氷のように冷えきったその静けさのなかに、なにやらえたいの知れぬ邪気と|妖《よう》|気《き》のみなぎりわたるのを感じて、金田一耕助は、背筋の寒くなるのを覚えずにはいられなかった。  古館弁護士は、ひと息いれたのち、また遺言状を読みはじめる。 「ひとつ。……野々宮珠世が斧琴菊の相続権を失うか、あるいはこの遺言状の公表以前、もしくは公表されてより三か月以内に死亡せる場合において、佐清、佐武、佐智の三人のうちに不幸ある場合はつぎのごとくなす。その一、佐清の死亡せる場合。犬神家の全事業は協同者としての佐武、佐智に譲らる。佐武、佐智は同等の権力をもち、一致協力して犬神家の事業を守り育てざるべからず。ただし、佐清の受くべき遺産の分与額は、青沼静馬にいくものとする。その二、佐武、佐智のうち一人死亡せる場合。その分与額同じく青沼静馬にいくものとす。以下、すべてそれに準じ、三人のうち何人が死亡せる場合においても、その分与額は必ず青沼静馬にいくものとなし、それらの額のすべては、静馬の生存如何により前項のごとく処理す。しかして佐清、佐武、佐智の三人とも死亡せる場合に於ては、犬神家の全事業、全財産はすべて青沼静馬の享受することとなり、斧、琴、菊の三種の家宝は、かれにおくられるものとなす」  犬神佐兵衛翁の遺言状は、実際はもっと長いのである。そこには野々宮珠世をはじめとして、遺言状中の名前をあげられている、佐清、佐武、佐智の三人のいとこ、ならびに青沼静馬なる人物と、この五人の人間の生と死との組み合わせが、あらゆる場合の可能性を追究していく、一種のパズルのようなものであった。  しかし、それはあまりに微に入り、細をうがちすぎ、これ以上は枝葉にわたるきらいがあるので、ここでは省略することにするが、さて、いままで読みあげられたところを通読して、だれでもが、すぐに感じずにはいられぬことは、野々宮珠世の絶対ともいうべき有利な立場である。  野々宮珠世がいまから三か月以内に、死亡するなどとは絶対に考えられない。と、すれば犬神家の全事業全財産のまことの相続者は、彼女の決意ひとつできまるわけである。すなわち、佐清、佐武、佐智の運命は、彼女の|一顰一笑《いっぴんいっしょう》によって左右されるのだ。  それにつづいて、だれでも奇異な想いをいだかずにはいられぬことは、青沼静馬なる人物のことである。この遺言状を子細に吟味してみるならば、青沼静馬なる人物こそ、野々宮珠世についで、有利な立場をしめていることに気づかずにはいられないだろう。  佐清、佐武、佐智の三人が、野々宮珠世の意志に左右されることなしに、祖父の遺産のわけまえにあずかれるのは、珠世が権利を放棄するか、あるいは、珠世が死亡した場合にかぎっているが、その場合における青沼静馬なる人物の、有利な立場はどうだろう。  なるほど、かれは犬神家の事業には参画できない。しかし全財産のわけまえにおいては、他の三人に倍するのである。しかも、青沼静馬が死んだところで、佐清ら三人は、なんの恩典にもあずかれないが、その反対に佐清ら三人のうち、だれが死亡しても、そのわけまえは、青沼静馬のふところに、ころげこむことになっているのである。もし、それ、野々宮珠世をはじめとして、三人のいとこたちのすべてが死んだ暁には、犬神家の全事業ならびに全財産は、ことごとく、青沼静馬なる、不可解な人物の、手中に帰することになっているのである。  すなわち、この遺言状によると、犬神家の全事業ならびに全財産は、最初において、野々宮珠世の掌中ににぎられることになっており、最後においては、青沼静馬の肩におちてくることになっているのである。  しかも、その間、佐清ら三人といえども、自分ひとりで、犬神家の全事業全財産を独占しうるチャンスはどこにも見いだしえないのである。たとえ、三人のいとこのうち、ひとりだけ生きのこり、野々宮珠世や青沼静馬もひっくるめて、他の全部、死にたえたとしたところで、かれは犬神家の全事業、全財産を掌握することはできないのだ。  なぜならば、青沼静馬に行く分は、そのまま犬神奉公会へ寄付させられるのだから。  ああ、なんという奇妙な遺言状!  ああ、なんという|呪《のろ》いと悪意にみちた遺言状であったろうか。なるほど、これでは古館弁護士の、まるで犬神家の一族に、血で血を洗う|葛《かっ》|藤《とう》を起こさせるのも同然だといった言葉も、うなずけるのである。  いったい、これを書いたとき、犬神佐兵衛翁は正気であったろうか。もし、かれが正気であったとしたならば、いかなればこそ、現在のおのれの孫にかくもつらく、たとえ恩人のすえとはいえ、野々宮珠世や、また、青沼静馬なるえたいの知れぬ人物に、かくも温かなのであろうか。  いやいや、佐兵衛翁の遺言状によって、恵まれることのうすいのは、佐清ら三人のいとこだけではない。それよりも、もっと冷遇されているのは、三人のいとこの母たちと、その夫たちである。かれらは遺言状のなかで、全然、無視され黙殺されているのではないか。  松子、竹子、梅子の三人は、佐兵衛翁の真実の娘でありながら、ここでは完全にのけものにされているのだ。  佐兵衛翁は生前、その娘たちに冷たかったといわれているが、それがこうも極端であったとは。……  金田一耕助は、身内をはしる、一種すさまじい戦慄におののきながら、犬神家の一族のひとびとの顔色をうかがっている。  あの奇妙な、無気味な、そしてまた、なんともいえぬ妖気をさそう仮面をかぶった佐清は、その仮面ゆえに、顔の表情はわからなかったが、はげしいショックを感じていることは、小刻みに、ワナワナと震える肩でも指摘できるであろう。袴の膝へおいた両手がブルブルとおこりのように震え、やがて仮面の下から、滝のような汗が、あごからのどへと流れつたわっていく。  あの衝立のような|恰《かっ》|幅《ぷく》をした佐武は、|茫《ぼう》|然《ぜん》と眼を見はって、眼のまえの畳のある一点を凝視している。さすが|傲《ごう》|岸《がん》|不《ふ》|遜《そん》の佐武も、祖父のこの奇妙な遺言状の一撃には、うちのめされてしまったらしい。かれの額にも、汗がビッショリうかんでいる。  あの軽薄才子の佐智は、いっときもじっとしていなかった。せわしなく、それこそ見ているものの気が変になるほど、せわしなく、貧乏ゆすりをやりながら、稲妻のようにすばしっこい視線で、一座のひとびとの顔をぬすみ見る。そして、ともすれば、その視線は、珠世のほうにすいよせられ、すると、一種の希望と懸念のまざった薄ら笑いが、うすいくちびるのはしに動くのである。  佐智のこういう動きから、かたときも眼をはなさないのが、佐武の妹の小夜子だった。彼女は手に汗握り、全身を石のように硬直させながら、いとこのこういう軽薄なそぶりを見守っている。彼女の全身からは、声のない祈りと訴えが佐智にむかって、電波のように送られる。そして、それらの祈りも訴えも、なんの効果もないことを知り、かつまた、あのいやしい秋波が、珠世におくられるのを見るごとに、小夜子はきっとくちびるをかみ、悲しげに顔を伏せるのだった。  松子と竹子と梅子の三人は、三人ながら怒りの化身のようであった。ドス黒い憎しみ——それはおそらく亡くなった佐兵衛翁に対する憎しみであったろう——のために、松子も竹子も梅子も、全身がいまにもハチ切れそうであった。そして、憎しみの対象が、すでに故人になっていることに気づくと、彼女たちの憎悪は、あらためて珠世の上にそそがれるのである。ああ、三人の女の、あの毒々しいまなざしはどうだろう。  竹子の夫の寅之助は、表面、冷然とかまえている。しかし、かれもまた、内心いかに怒りにもえているかということは、あのあから顔がいよいよあかく、いまにも脳出血でも起こすのではないかと思われるほど、ギダギタと脂ぎって、充血しているのでもわかるのである、あのギロリとした眼はさながら毒針でも含んでいるようだ。そして、その毒針は、自分の妻子以外の、すべての人間にむかって吹っかけられているのである。  梅子の夫の幸吉の眼つきは、さんざんひとにぶたれ、いじめぬかれた野良犬の眼つきに似ていた。おびえたようにおどおどと、一座のひとびとの顔色をうかがい、すっかりしょげきった様子ながら、しかし、一皮むけばそこに油断のならぬ陰険さをいだいている。これもまた、自分の息子の佐智以外の、すべての人物に対してドスぐろい毒気をふきかけている。現在の妻、梅子に対してすら、かれの眼つきはおだやかではなかったのだ。  さて、最後に珠世だが、遺言状がすっかりおしまいまで読みあげられたときの、彼女の態度こそ見ものであった。  古館弁護士が、遺言状の一項一項を、読みすすんでいくにしたがって、彼女はしだいに落ち着きをとりもどしてきたらしい。そして古館弁護士が最後まで読んでしまったときには、顔色こそ青ざめていたが、けっして彼女は鼻白んだり、動揺したりしてはいなかった。  珠世は端然と座っている。美しい塑像のように、静かに——それこそひっそりと座っている。犬神家の一族の憎しみにみちた眼が、炎々と、|火《ひ》|箭《や》のように自分にそそがれているのを彼女は気がつかないのであろうか。彼女はただ端然と、静かに座っている。ただ、その|瞳《ひとみ》には、一種異様なかがやきがあった。それはまるで夢を追うような、まぼろしを慕うような、一種|恍《こう》|惚《こつ》たるかがやきであった。  突然、だれかが叫んだ。 「うそです! うそです! その遺言状はにせものです」  金田一耕助はハッとしてそのほうを見る。それは佐兵衛の長女松子であった。 「うそです! うそです! それは、亡父のほんとうの遺言状ではありません。だれかが……だれかが……」  松子はそこで大きく肩で息をすると、 「犬神家の財産を、横領するために書いたお芝居の筋書きです。それはまっかなにせものです!」  松子の金切り声は火を吐いた。  古館弁護士はビクリと眉を動かして、なにかせきこんだ口調でいおうとしたが、すぐ気がついたようにハンケチを出して口のまわりをぬぐうと、つとめて、おだやかな声が、さとすようにこういった。 「松子奥さま、わたしもこの遺言状が、にせものであってくれたらどんなによいかと思わずにはいられません。また、この遺言状がたとえ佐兵衛翁のほんとうの意志であったとしても、遺言状としての形式に、どこかに欠陥があって、法的に無効であったならばどんなによいかとも思っているのです。しかし、松子奥さま、いや、松子奥さまのみならず、皆さまにもよく申し上げておきますが、この遺言状は、けっしてにせものでもなければ、また、法的にもすべての条件を具備しているのです。もし、あなたがたが、この遺言状に異議があって、法廷で争おうとなさるならば、それも御勝手ですが、それはおそらくあなたがたの敗訴となっておわるでしょう。この遺言状は生きています。あなたがたが、なんとおっしゃろうとも、この遺言状の精神は、一字一句のまちがいもなく、守られなければならないし、また逐一、実行されなければならないのです」  古館弁護士はかんでふくめるようにそういうと、仮面の佐清からはじめて、犬神家の一族のひとびとを順次見まわしていったが、最後にその視線が金田一耕助の番にくると、そこでピタリと動かなくなった。その瞳のなかには、不安と懸念と恐怖とそしてある訴えが、洪水のようにあふれているのである。  金田一耕助はかすかにうなずいた。そして、その眼を、弁護士の握っている、遺言状にうつしたとき、まるでそこから血が吹き出してでもいるような、一種のすさまじさを感じずにはいられなかったのである。      犬神系図 「で……?」  と、金田一耕助がポトリといった。まるで軒をつたって落ちる雨垂れのように陰気な|声《こわ》|音《ね》であった。 「で……?」  と、しばらく間をおいてから、古館弁護士が、おうむ返しにこたえた。耕助に負けず、劣らず、救いがたい陰気さにかげらう声であった。  それきり、ふたりとも無言で、湖水ごしに犬神家の|宏《こう》|壮《そう》な建物に眼をやっている。秋の山国の暮れるに早く、犬神家はいま|蒼《そう》|茫《ぼう》と、雀色にたそがれていく。古館弁護士の眼には、あたかもそれが、まがまがしい黒衣につつまれていくようにでも見えたのか、チリチリと細かい戦慄が膝から|這《は》いあがっていくのを金田一耕助は見のがさなかった。  風が出たのか、湖水の表面には、ちりめんじわが吹いては流れる。  古館弁護士は、大事をおわったあとのだれでもがそうであるように、いまにも放心しそうな、ものうい|倦《けん》|怠《たい》に身をまかせながら、もう一度、 「で……?」  と、陰気な、機械的な声でたずねた。  遺言状の発表をおわったのち、犬神家を辞したふたりだった。  遺言状のかもし出した、あの救いがたい、あさましい|葛《かっ》|藤《とう》に、やりきれない重っくるしさを胸にいだいたふたりは、それからのち、ほとんどひとくちも口をきかず、どちらからともなく、那須ホテルへ足をむけた。そしてふたりそろって耕助の座敷へかえってくると、縁側の|籐《とう》|椅《い》|子《す》に腰をおろしたまま、ずいぶん長いあいだ、黙りこくっていたのである。  耕助はすうでもなく、すわぬでもなく、口にくわえたまま立ち消えになっていたたばこを、勢いよく灰皿のなかに投げ出すと、籐椅子をギイときしらせて、急にからだを乗り出した。 「さあ、古館さん、話してください。ああして遺言状が発表されてしまえば、あなたの任務も一応はおわったわけでしょう。もう秘密も秘密でなくなった。その遺言状について、あなたの胸に抱いていることを、残らずここで吐き出してください」  古館弁護士は、おびえたように暗い顔をして、金田一耕助の顔を見守っていたが、やがて力のない声で、 「金田一さん、あんたのおっしゃるとおりです。もう秘密も秘密ではなくなった。しかし、なにから話してよいか……」 「古館さん」  耕助はひくいながらも力のこもった声で、 「さっきの話のつづきをしましょう。ほら、さっきあなたが、犬神家へ行かれるまで、この座敷で話していた話のつづきを。……古館さん、あなたは若林君を買収して、ひそかに遺言状を読んだ人物を、珠世さんだと疑っているのではないのですか」  古館弁護士はそれをきくと、痛いところを逆なでにされたように、ギクリと体をふるわせたが、やがて息をはずませながら、 「ど、どうしてあなたはそんなことをおっしゃるのです。いいえ、だれが若林君を買収したのか、だれが遺言状を読んだのか、わたしには見当もつきませんよ。いやいや、それより遺言状が読まれたかどうか、それさえ、わたしにはハッキリわからないのですよ」 「は、は、は、古館さん、いまさら、そんなことをおっしゃってもダメですよ。珠世さんのたびたびの災難が偶然だとしたら、あまり話がうまくいきすぎてるとは思いませんか。あなただってまさか……」 「そうそう、それそれ」  古館弁護士もいくらか生気をとりもどした格好で、 「それがあるじゃありませんか。それがあるからこそ、珠世さんが、若林君を買収した当人じゃないことがわかるじゃありませんか。もしかりに、だれか若林君を買収して、ほんとに遺言状を読んだものがあるとしても……」  金田一耕助は、意味深長な微笑をうかべて、 「しかし、それじゃ、珠世さんは、どうしてああもたびたび危ない目に遇っているのです。まかりまちがえば、命にかかわりそうな災難に……」 「だから、それは、遺言状を読んだやつが、珠世さんを殺そうとしたのじゃ……なんといっても、犬神家の一族にとっちゃ、珠世さんこそ、眼のうえのこぶですものね。あのひとが生きている限り、犬神家の相続者は、あのひとの意志ひとつできまることになっているのだから……」 「しかし、それじゃそいつは、なぜ、失敗ばかりしているのです。寝室の|蝮《まむし》に自動車の事故、三度目はこのあいだのボートの事件、……いつも失敗ばかりやっている。どうして、もっとうまくやれないのでしょう」  古館弁護士は恐ろしい眼をして、耕助の顔を見守っている。小鼻がふくらみ、額からはじりじりと汗がにじみ出る。やがて古館弁護士は、のどをふさがれたような声でささやいた。 「金田一さん、あなたのいうことはよくわからない。あなたはいったい、なにを考えて……」  耕助はゆっくり首を左右にふると、 「いいや、知っているのだ。あなたは知っていながら、わざとそれを打ち消していらっしゃるのだ。あなたはこうお考えになったにちがいない。寝室に蝮を放りこんだのも、自動車のブレーキにいたずらしたのも、ボートの底をくりぬいてパテを埋めておいたのも、みんなみんな、余人ではなく、珠世さん自身ではなかったかと……」 「なんのために! なんのために、珠世さんがそんなことをするんです」 「来るべき事件の準備行動として……」 「来るべき事件とは?」 「佐清、佐武、佐智の三重殺人事件……」  古館弁護士の額の汗は、いよいよひどくなってくる。滝のような汗が、額から|頬《ほお》へと、幾筋にもながれおちる。古館弁護士はそれをぬぐおうともせずに、籐椅子の|両肘《りょうひじ》を、しっかりつかんで、いまにも跳躍しそうな勢いを示した。 「佐清、佐武、佐智の三重殺人事件ですって? だ、だれがあの三人を殺すというのです。そして、そのことと珠世さんの一件と、どんな関係があるというんです」 「まあ、お聞きなさい、古館さん。珠世さんは莫大な財産を譲られた。すばらしい権力の相続者に擬せられている。しかし、それには、ひょっとすると、彼女にとって、致命的かもしれない条件がついているんですよ。すなわち、彼女は佐清、佐武、佐智の三人のうちのだれかと結婚しなければならない。もし、かれらが三人とも死んでしまうか、それとも三人が三人とも、珠世さんとの結婚を拒否しないかぎり。……ところであとのほうの条件は、絶対にありえないことでしょうからね。珠世さんはあんなに美しいのだし、しかも彼女と結婚することによって、犬神家の莫大な財力と権力を握ることができるのですから、よほどのバカでもないかぎり、この結婚を拒むものはありますまいからね。現にぼくは今日あの席で、早くも佐智君が、珠世さんにモーションをかけはじめたのを、ハッキリこの眼で見ましたよ。ところで……」 「ところで……?」  と、古館弁護士はおうむ返しにたずねる。その声には、どこか挑戦するようなおもむきがあった。 「ところで、珠世さんがもし、あの三人が三人ともきらいだったら……? それともほかに愛人があったとしたら……? 珠世さんはあの三人のだれとも結婚したくない。といって、犬神家の財産を失うのもいやだ。……と、そうなったら、珠世さんは、あの三人に死んでもらうより、救われるみちはないじゃありませんか。そこで珠世さんはあの三人を、順次殺していこうと決心する。そして、その準備行動として演じてみせたのが、たびかさなる危難です。つまりのちに事件が起こった場合、自分も犠牲者のひとりであったとよそおうために……」 「金田一さん」  古館弁護士は、あついかたまりでも吐き出すように、切なく、はげしく息をはずませた。それからのど仏をぐりぐりさせながら、 「あなたは恐ろしいひとだ。どうしてそんな恐ろしい考えがあなたの頭脳にやどるのだろう。あなたのような仕事をしているひとは、みんなそんなに疑いぶかいのですか」  金田一耕助は悲しそうにほほえむと、首を左右にふりながら、 「いいや、ぼくは疑っているのじゃないのです。ただ、可能性を追究しているんです。こんな場合もありうると。……だから逆に、つぎのような場合も考えられます。珠世さんのあの奇禍は、けっして彼女自身の見せかけでも|欺《ぎ》|瞞《まん》でもなく、だれかがほんとに、彼女を殺そうとしているのだとして、ではその場合、だれが犯人で、なにをたくらんでいるのか……」 「そして、そして、その場合は、だれが犯人で、なにをたくらんでいるのです」 「その場合には、佐清、佐武、佐智の三君の全部に、犯人でありうる可能性があるわけです。すなわち、三人のうちのだれかが、とても珠世さんをかちうる自信がない場合、その人物はみすみす指をくわえて、他のだれかが、珠世さんと結婚するのを見送っているでしょうか。もし、三人のうちのだれかが珠世さんと結婚したが最後、他のふたりは、犬神家遺産相続より完全にしめ出されてしまうわけですからね。それより、いっそ珠世さんを殺してしまえば、いくらかでも、わけまえにあずかることができる……」 「恐ろしい、恐ろしい、恐ろしいひとだ、金田一さん、あなたは……しかし、あなたのおっしゃることは、みんな空想にすぎんのだ。小説ででもないかぎり、人間がそんな冷血になりうるには……」 「いや、もうすでに冷血になっていますよ、だれかが……現に、若林君を、あんな方法で殺しているじゃありませんか。ところで、古館さん、いまいった可能性を追究していく場合、犯人のわくのなかに入りうるのは、佐清、佐武、佐智の三人にかぎったことはないのですよ。三人の両親、あるいは妹たちも、そのわくに入れることができますね。自分の息子なり、兄なりに遺産のわけまえを与えることによって、自分も余恵にあずかるために。……そこで問題は、珠世さんの寝室に、蝮を放りこんだり、自動車にいたずらしたり、あるいはボートに孔をあけたりするチャンスは、いったいだれがいちばん確実に持っていたかということです。古館さん、お心当たりはありませんか」  古館弁護士はギョッとしたように、金田一耕助の顔を見直したが、その顔には、みるみる、はげしい混乱の色がうかんでくる。 「ああ、古館さん、なにか心当たりがあると見えますね。いったい、それはだれですか」 「いいや、いいや、わたしにはわからない。あるとすればみんなだ」 「みんな……?」 「そう、ちかごろ復員してきた佐清君をのぞいてはみんなです。金田一さん、まあ、お聞きなさい。犬神家の一族は、毎月一度、佐兵衛翁の命日に、この那須へ集まるのですよ。なに、かれらはけっして、佐兵衛翁を追慕するのじゃない、たがいに、腹をさぐりあうために、出しぬかれたくないために、毎月ここへ集まるのです。ところが、珠世さんの奇禍はいつもかれらが集まっているときにかぎって起こるのですよ。こんどだってそうだったし……」  金田一耕助は、思わず鋭い口笛のひとこえをあげて、がりがり、がりがりと、五本の指で、めったやたらと頭のうえの雀の巣をかきまわしはじめた。 「古館さん、こ、こ、これは実に興味のある事件ですな。犯人がだれにしろ、そいつはけっして自分だけが、焦点のなかにうきあがってくるようなヘマはやらないのですね」  金田一耕助は、がりがり、がりがり、しばらく夢中で|蓬《ほう》|髪《はつ》をかきまわしつづけていたが、やがてしだいに落ち着きをとりもどしてくると、ぬれたような眼をして自分を見ている、古館弁護士をかえりみて、いくらかきまり悪げにほほえんだ。 「は、は、は、いや、失礼しました。これはぼくの興奮したときのくせなんでしてね。悪く思わんでくださいよ。ところで……と、ぼくはいま、二つの場合の可能性を考えてみたわけですね。珠世さんの奇禍が見せかけの欺瞞である場合と、そうでない場合と……、ところで、後者の場合だとすると、もうひとり、有力な容疑者がうかびあがってくるわけですがね。そいつに遺言状を読むチャンスが、あったかなかったかは別問題として……」 「だれです、それは……?」 「青沼静馬!」  あっというかすかな叫びが、くいしばった古館弁護士のくちびるからほとばしった。 「古館さん、そいつにチャンスがあったかなかったかは別として、そいつこそ、何人にもまして、珠世さんの死をねがう、強い動機があるわけですよ。なぜならばそいつは珠世さんが死なないかぎり絶対に遺産相続にわりこめないわけですからね。珠世さんが、佐兵衛翁の三人の孫を、ことごとく|袖《そで》にするかしないか、そいつの自由にはならないのだから、もしこの遺産相続にわりこもうと思うならば、まず第一に、珠世さんを殺さなければならない。しかも、そのあとで佐兵衛翁の三人の孫が死んでしまえば、犬神家の全事業、全財産のことごとくを、そいつは掌握することができるのです。古館さん!」  金田一耕助は語気をつよめた。 「青沼静馬とは何者です、佐兵衛翁といったいどんな関係があるのです。どうしてかくも大きな恩恵をこうむることになっているのです」  古館弁護士はふかいため息をついた。それからハンケチで、ねばつく汗をぬぐうと、くらい顔をしてうなずいた。 「青沼静馬という人物こそ、佐兵衛翁の晩年を苦しめた、苦悩と悲痛の種だったのです。佐兵衛翁がその人物に、遺言状のなかで、大きな役割を与えたのも、けっして無理ではありません。青沼静馬というのは……」  古館弁護士は少しつかえた。それからのどにからまる|痰《たん》を切ると、どもるようにつぶやいた。 「佐兵衛翁のおとしだねなんです」  金田一耕助は、突然、大きく眉をつりあげた。 「おとしだね……?」 「そうです。佐兵衛翁にとっては、たったひとりの男の子だったのです」 「しかし、……しかし……それじゃなぜ……いや、そのことは『犬神佐兵衛伝』にも書いてありませんでしたよ」 「そうですとも、そのことを書こうとすれば、いきおい、松子、竹子、梅子の三夫人の残忍な非行をあばかねばなりませんからね。佐兵衛翁は……」  と、古館弁護士は、まるで|暗誦《あんしょう》でもするように、抑揚のない声で語りはじめる。 「五十を越えた初老の年輩にいたって、はじめて恋をしたのです。佐兵衛翁はそれまでに、三人の側室があり、それぞれの腹に、松子、竹子、梅子の三人を生ませたが、翁はそれらの側室のだれをも、とくべつ|寵愛《ちょうあい》していたわけではなかった。ただ、生理的要求をみたすために、彼女たちに用を弁じさせていたのです。ところが五十を越えてはじめて、ほんとうに女を愛した。それが青沼|菊《きく》|乃《の》という女性で、もとは犬神製糸工場の女工だったということです。年齢は娘の松子夫人より、若かったといわれています。ところが、そうこうしているうちに、菊乃という女性がみごもった。そこで大恐慌をきたしたのが、松、竹、梅の三人娘です。いったい、あの三人は生母がちがっているだけに、幼いころから、けっして仲のよい姉妹ではなかった。いや、仲がよいどころか、終始|仇敵《きゅうてき》のようにいがみあいつづけてきた仲なのです。それが、菊乃の件に関するかぎり、スクラム組んで、しっかり一致結束したのです。つまりそれほど、菊乃の妊娠は、かれらにとって大きな恐慌だったのですね」 「なぜでしょう。菊乃が妊娠すると、なぜいけないのです」  古館弁護士はくたびれたような微笑をうかべて、 「きまってるじゃありませんか。もし、菊乃の腹に生まれるのが男子だったら……佐兵衛翁は菊乃におぼれきっているのだし、それがいままで望んで得られなかった男子を生むとすれば、佐兵衛翁ははじめて正室をもつことになるかもしれない。そして犬神家の全財産はその子にとられるかもしれぬ……」 「なるほど」  金田一耕助は内心の戦慄を押しつつみながら、大きくゆったりとうなずいた。 「そこで三人は一致結束して、菊乃をいじめたのです。いびったのです。それは実に言語道断の方法で、はげしい攻撃の手を加えたということです。菊乃はとうとうたまらなくなった。このままでいけば、やがて三人の娘にいびり殺されるだろうと思った。そこで、佐兵衛翁のもとを、逃げ出してしまったのです。松、竹、梅の三人は、それでほっとしましたが、菊乃が逃げたあとでわかったところによると、佐兵衛翁はそのまえに、|斧《よき》、琴、菊の三種の家宝を、菊乃に与えていたというのです」 「ああ、それそれ……その斧、琴、菊というのはいったいなんですか」 「いや、そのことはもっとあとで話しますが、遺言状にもあったとおり、それこそ犬神家の相続権を意味する家宝なのですが、これを佐兵衛翁が菊乃に与え、もし、男子出生したら、これをもって名乗って出てこいといいふくめておいたというのだから、三人がいよいよ大恐慌をきたしたのも無理はありません。しかも、そのやさきに菊乃が無事に男子を|分《ぶん》|娩《べん》したといううわさをきいたものだからたまらない。三人は悪鬼のごとく菊乃のもとへ乗りこんでいったのです。そしてまだ|産褥《さんじょく》にある菊乃を脅迫して、自分の産んだ子は、佐兵衛翁のタネではないという一札を無理矢理に入れさせ、それとともに、斧、琴、菊の三種の家宝をとりかえし、意気揚々とひきあげたというのです。佐兵衛翁が晩年にいたって、松、竹、梅の三人に、氷のように冷たかったのは、実にこのことがあったからなのですよ」  金田一耕助はいまあらためて、松子、竹子、梅子の底意地の悪そうな|風《ふう》|貌《ぼう》を思い出してみる。あの女たちのいまだ若く|悍《かん》|馬《ば》のごとき時代を思うと、なにかしら、ゾッと肌に、|粟《あわ》|粒《つぶ》が立つような思いであった。 「なるほど……それで菊乃親子はどうしました」 「さあ、それです。そのときの松、竹、梅の恐ろしさが、よほど心魂に徹したのでしょうねえ。あのような一札は入れたものの、まだこのうえ、どんな危害を加えられるかもしれないと、赤ん坊——それが静馬なのですが——を抱いたまま行方をくらましてしまったのです。そして、いまにいたるもこの親子の消息は、|杳《よう》としてわからないのですよ。生きていれば静馬は、佐清と同い年の二十九歳になるはずですがねえ」  古館弁護士はそこまで語ると、ほっと暗いため息をつくのである。  金田一耕助の胸には、暗雲のように|妖《あや》しい思いが、ふっとドス黒い影を落とす。  ああ、犬神佐兵衛翁の遺言状は、はじめから、ある種の恐ろしい目的をもって書かれたのではあるまいか。翁はおのれ百年ののち、松子、竹子、梅子の三人のあいだに血で血を洗うような葛藤の、起こることをのぞんでわざとあのような奇怪な遺言状をつくったのではなかろうか。  金田一耕助は、胸もふさがりそうな暗い思いに、しばらくおしつぶされそうに考えこんでいたが、やがて紙と万年筆をとり出すと、次のようなメモを書きしるした。  金田一耕助はこの系図のなかから、なにかを探り出そうとするかのように、長い長い間じっと紙面を見つめている。  読者諸君よ、いままで述べてきたところが、このもの恐ろしい、なんともえたいの知れぬ犬神家の一族に起こった、連続殺人事件の発端なのである。  そして、いままさに血なまぐさい惨劇の第一幕は、切って落とされようとしている。 ※ここに系図の画像?      疑問の猿蔵  犬神佐兵衛翁のあの奇妙な遺言状は、|貪《どん》|婪《らん》なジャーナリズムにとって、|俄《が》|然《ぜん》、好個の話題となったようだ。  遺言状の内容と、それを|囲繞《いじょう》する犬神家の一族の、冷たい葛藤に関する|顛《てん》|末《まつ》は、某通信社を通して、全国の新聞にバラまかれた。  さすがに一流新聞は、そういう個人の私事に関する記事を扱うことは好まなかったが、二流三流の新聞は、こぞってこの記事を大々的に取り扱った。しかも、かなり猟奇的な曲筆をもって……。  だから、犬神家の相続問題は、いまや、地方的な関心事ではなくて、全国的な話題となって拡大していた。ちょっとでも、好奇心に富んだひとなら、野々宮珠世が、果たしてなにびとを、配偶者にえらぶかということについて、野次馬的な興味をよせていた。なかにはそれについて、|賭《か》けをやっている者さえあるという。  こうして、全国的な注視をあつめながら、しかし、那須湖畔にある犬神家の本邸は、まるで窒息したように鳴りをしずめていた。竹子や梅子の一家は、まだ、本邸に滞在していたが、かれらと松子親子とのあいだにはほとんどなんの交渉もなく、めいめい、それぞれの部屋にこもったまま、たがいに顔色を読み、腹の底をさぐりあっていたのだ。  いまや、犬神家の本邸には、たがいに利害の|錯《さく》|綜《そう》する、四つの台風がたむろしているわけである。松子の一家と、竹子の一家と、梅子の一家、それに野々宮珠世と。……  この場合、珠世の立場こそあわれであった。松子、竹子、梅子の三姉妹とその一家は、たがいに仇敵のごとく憎みあいながら、しかも、野々宮珠世を憎み、呪うことにかけては、かれらも一致しているのである。それでいて、かれらのうちのだれひとりとして、その憎悪をあらわに表現するものはない。松子、竹子、梅子も、心中に毒針のような|嫉《ねた》|刃《ば》を蔵しながら、しかも、珠世に向かっては、お世辞とお愛想の百万遍であった。そして、こうして心にもないお世辞を、この年若い孤児にならべねばならぬことについて、かれらははげしい憤りを感じており、そのために、珠世に対して、二重の憎しみを覚えるのであった。  佐武と佐智とは、たぶん、両親の|使《し》|嗾《そう》によるものだろう、ちかごろ珠世のもとに日参だった。さすがに|傲《ごう》|岸《がん》|不《ふ》|遜《そん》の佐武は、はじめから自信満々たる面持ちで、見えすいたお世辞はならべなかったけれど、軽薄才子の佐智の、しっぽのふりようといったらなかった。かれは珠世の周囲を走りまわって、チンチンをし、おあずけをし、クンクン|啼《な》いてみせ、|媚《び》|態《たい》の限りをつくした。  思えば珠世という女性はあっぱれである。彼女はしめった肌が電流に感じやすいように、全身をもって、自分にむけられた犬神家の一族の、憎悪と|呪《じゅ》|詛《そ》を感じながら、少しも悪びれたふうはなかった。彼女はいつも美しく、気高く、自信にみちた佐武に対しても、|軽《けい》|躁《そう》な佐智に向かっても、ほとんど、なんの変わりもない態度で接していた。もっともかれらを自分の部屋に迎えるときには、いつも隣室に、猿蔵を|侍《はべ》らせておくことは忘れなかったが。……  珠世はまた、あの奇妙な仮面をかぶった佐清に対しても、けっして|尻《しり》ごみはしなかった。もっとも、佐清のほうから彼女を訪ねてくることは、絶対になかったので、ときどき、彼女のほうから佐清の部屋へ訪ねていくのだが、伝うるところによると、この対面はよっぽど奇妙なものであったらしい。珠世は佐清を訪ねていくときも、猿蔵をつれていくことをけっして忘れなかったが、佐清のほうでも、彼女に会うときは、いつも母の松子夫人がいっしょだった。こうして松子夫人と猿蔵の陪席のうちに、佐清と珠世の会見は行なわれるのだったが、この会見はとかく言葉もとぎれがちであったらしい。  あの奇妙な仮面をかぶった佐清は、おのれの醜悪な容貌を意識しているのか、ほとんど口をきくことはなかった。勢い、発言するのは、おもに珠世のほうだったが、彼女の言葉が質問めいたり、また、佐清の過去の問題にふれたりすると、いつもそれをひきとって、代わって返事をするのは松子夫人だった。夫人はそれにさりげなく答えながら、巧みに話題をほかへそらせていく。そういうとき珠世の顔色は眼に見えて悪くなり、どうかすると、かすかにふるえていることさえあったという。  それはさておき、彼女の愛を得ようとして、しだいにあせりの見えてくる、佐武や佐智のなかに身をおきながら、彼女の体にまちがいの起こらなかったのは、ひとえに猿蔵のおかげだったろう。  珠世を自分のものにする、いちばん、手っ取り早い方法……それは暴力でもなんでもいいから、彼女を征服してしまうことだ。と、いうようなことを佐武や佐智が知らぬはずはなかったのである。事実、かれらがそういう露骨な態度を、示しかけたことは一度や二度ではなかった。それにもかかわらずかれらが珠世に指一本ふれることができなかったのは、そこに猿蔵という人物がいたからであった。もし佐武や佐智が、理不尽にも珠世に暴行を加えようとしたら、たちまち醜い巨人のために、首根っ子を折られねばならなかっただろう。 「ああ、猿蔵という男ですか」  古館弁護士はあるとき、つぎのように猿蔵なる人物について、金田一耕助に説明した。 「あれは、ほんとうの名前は猿蔵というんじゃないんです。本名はほかにあるのですが、ほら、あのとおり猿とそっくりの顔をしているでしょう。それで幼いころから、猿、猿といわれていたのがいまでは本名みたいになってしまって、私などほんとうの名前は忘れてしまったくらいですよ。小さいときから孤児でしてね。それを|不《ふ》|憫《びん》がって、珠世さんの、おっ母さんの、祝子がひきとって養育したんです。ええ、そう、小さいときから、珠世さんとずうっといっしょに育てられたわけですが、珠世さんの両親がなくなって、珠世さんが犬神家へひきとられるとき、いっしょについてきたんですよ。少し足りないところもあるんですが、それだけに、珠世さんに対する忠誠、と、いうか、献身的な奉仕には盲目的なところがあるんです。珠世さんのいうことならなんでもききます。珠世さんが殺しをしろといえば、平気で人も殺す男ですよ」  最後の一句は、おそらく猿蔵の珠世に対する、盲目的な忠誠を形容するために、何気なく吐いた言葉にちがいないが、その瞬間、言った古館弁護士も、聞いた金田一耕助も、ハッとして、探りあうように、たがいに顔を見合わせた。  古館弁護士は、後悔の色をうかべて、ギゴチなく|空《から》|咳《せき》をしたが、金田一耕助はわざと話題をそらすように、 「そうそう、猿蔵といえば、犬神家で菊作りをしているとか……」 「ええ、そう、あの菊、ごらんになりましたか。少し足りないところもあるが、猿蔵という男は、菊作りの名人ですよ。あれはね、亡くなった珠世さんのお父さん、那須神社の神官でしたがね、そのひとに教わったのです。菊は那須神社にとっても、犬神家にとっても、由緒のふかいものですからね。ほら、|斧《よき》、琴、菊……」 「そうそう、その斧、琴、菊ですがね。あれにはどういういわれがあるんです。那須神社にも、なにか関係があるんですか」 「ええ、そう、斧琴菊は最初、那須神社の、なんといいますか、一種の神器だったんですね。つまり、三種の神器ですね。東京の役者の、尾上菊五郎の家にも、斧琴菊という|嘉《か》|言《げん》があるそうですね。那須神社の斧琴菊は、それとは別になんの関係もないのでしょうが、ほら、佐兵衛翁の恩人野々宮|大《だい》|弐《に》……珠世さんの祖父にあたるひとですね、そのひとが、こういう言葉を考え出して、那須神社の守り言葉にしたんですね。そして、黄金製の斧と琴と菊を作って、これを神器にしたんです。それを後年、佐兵衛翁が事業を|創《はじ》めたとき、まあ、前途を祝福するという意味でしょうね。守り言葉とともに、その神器を贈ったわけです。それがいま、犬神家の家宝になっているわけですよ」 「その家宝はいま、どこにあるんですか」 「犬神奉公会で保管してあります。いずれ、珠世さんが、佐清、佐武、佐智の三人のなかから、配偶者をえらんだとき、そのひとに譲られるわけですがね。なに、斧も琴も菊も、一尺ぐらいの、小さな黄金製の、一種のミニエチャーですがね」  古館弁護士はそこで眉をひそめて、 「もともと、その斧琴菊は野々宮大弐から譲られたものですから、佐兵衛翁が自分の死後、これを大弐さんの子孫に返還しようというのは、まあ人情として、うなずけないこともないのですが、これに、犬神家のあの巨大な財産や事業が付随しているから、話がはなはだめんどうになってくるんです。佐兵衛翁は、なんであんなことを考え出したもんですかねえ」  古館弁護士は、嘆息するようにつぶやいた。金田一耕助は考えぶかい眼つきをして、 「なるほど、それじゃ斧琴菊という言葉、ならびにそのミニエチャーに関しては、格別の子細はないわけですね、もしそれが犬神家の相続権を意味していなかったら……」 「そうです。そうです。黄金製といっても、金メッキですからね。それ自身、むやみに高価なものというわけじゃない。問題は犬神家の相続権にあるわけですね」  古館弁護士は、さりげなくそう言いきったが、しかし、あとから思えば、古館弁護士はまちがっていたのだ。  斧、琴、菊——という、この言葉そのもののなかにこそ、なんともいえぬ、恐ろしい意味が秘められていたのだ。  よきこと聞く——このめでたい言葉は、なるほど佐兵衛翁の生きているあいだは、その言葉どおりの意味をもって、犬神家を守りつづけてきた。しかし、佐兵衛翁の死後も、やはりそうであったろうか。いや、いや、いや、あとから思えばその言葉は、まったく逆の意味をもって、犬神家を呪いつづけていたのである。  しかし、さすがに金田一耕助も、そこまでは気がつかなかった。あの恐ろしい事件が、つぎつぎと起こって、かれの眼をひらいてくれるまでは。…… 「ときに、青沼静馬という人物ですがね。消息がわかりそうですか」 「さあ、それです。遺言状を公開する以前から、全国に手配して行方を求めているんですがね。いまのところまだ全然、手がかりがありません。青沼菊乃という女が、無事にその子を育てあげたとしても、こんどのこの戦争ですからね。どういうことになっているやら……」  金田一耕助の頭には、そのとき、さっと悪魔のいたずらのような考えがひらめいた。かれはその考えの、あまりの突飛さに、われながら面くらいながら、しかもなおそれを振りきることができなかった。 「ねえ、古館さん、猿蔵という男は、孤児だといいましたね。そして、年輩もちょうどそれくらいですが、あの男の素姓はよくわかっているのですか」  古館弁護士はそれを聞くと、|愕《がく》|然《ぜん》として眼を見はった。あっけにとられたように、しばらく金田一耕助を見つめていた。それから、あえぐように、 「な、なにをいうんです。金田一さん。あなたはあの男を青沼静馬だというんですか。そ、そんな馬鹿な……」 「でしょうね。いや、いまふとそんな考えがうかんだものですからね。いや、いまの疑問はいさぎよく撤回します。ぼくの頭は、今日どうかしているんです。ひょっとすると、佐兵衛翁が、自分のかくし子を、珠世さんのお母さんに託したのではないか……と、そんなふうに考えてみたんですよ。しかし、それだと、いままでにだれかが気がついていなければならぬはずですね」 「そうですとも。それに佐兵衛翁というひとは、何度もいうとおり、それはそれは秀麗な男ぶりでしたよ。菊乃というひとだって、これは私自身、会ったことはありませんが、佐兵衛翁の|寵愛《ちょうあい》をほしいままにしたくらいだから、美人だったにちがいない。そういう二人のあいだに猿蔵のような醜い子どもが生まれるはずがありませんからね。猿蔵——あいつは、少し足りない、菊作りの名人にすぎませんよ。あいつはいま、菊人形を作るのに夢中になっています」 「菊人形……?」金田一耕助は眉をひそめた。 「そう、まえにもあの男、佐兵衛翁の命令で、翁の一代記を、菊人形に作ったことがあるんですよ。それを思い出したのか今年も菊人形をつくるんだと力んでいます。むろんまえのように大げさなものじゃありませんがね。あいつは、まあ、怒らせさえしなければ、毒にも薬にもならん男です。しかし……そういえば、私もあいつがどういう素姓のものか、いままで一度もきいたことがありませんね。よろしい、かりそめにもそういう疑問があるとすれば、一度あいつの生まれを調査してみましょう」  古館弁護士も、なんとなく、しだいに心のさわぐ顔色になっていったのであった。      奉納手型  十一月十五日——佐清が帰ってきてからちょうど半月、金田一耕助がやってきてから、そろそろ、ひと月になろうという十一月なかばの日。  この日こそは犬神家の一族のあいだに、最初の血が流された日であり、悪魔がいよいよ、行動開始をした日であったが、ここではこの殺人事件に言及するまえに、あるいはこれが、最初の殺人の前奏曲になったのではないかと思われる、ひとつのエピソードを書きとめておくことにしよう。 「金田一耕助様、お客様ですよ」  それは十一月十五日の、午後三時ごろのことだった。例によって旅館の縁側に籐椅子を持ち出し、うつらうつらと物思いにふけっていた金田一耕助は、女中の声にふと|瞑《めい》|想《そう》をやぶられた。 「お客様? だれ?」 「古館さんでございます」 「古館さん? 古館さんなら、どうぞこちらへといってください」 「いえ、古館さん、自動車のなかでお待ちでございます。どこかへお出かけになるんだそうで、もし、おさしつかえがなかったら、ごいっしょにお願いしたいとおっしゃってでございます」 「ああ、そう」  金田一耕助は椅子からとびあがった。そして宿のどてらをよれよれの羽織袴に着かえると、くちゃくちゃに型のくずれたお|釜《かま》|帽《ぼう》を、|蓬《ほう》|髪《はつ》の上にたたきつけ、大急ぎで宿の玄関からとび出した。  見ると宿の表に、一台の自動車がとまっており、古館弁護士が窓から首を出している。 「やあ、お待たせしました。いったい、どこへ出かけるのですか」  耕助は小走りに自動車のそばへ走りより、何気なくステップに片脚かけたが、そこでハッとしたように呼吸をのんだ。自動車に乗っているのは、古館弁護士だけではなかった。あの衝立のような恰幅をした佐武と、狐のような|狡《こう》|猾《かつ》な眼つきをした佐智が、いっしょに乗っているのである。 「やあ、あなたがたもごいっしょで……」 「まあ、お乗りなさい」  古館弁護士がスペヤー・シートに席をかえたので、金田一耕助は佐智の横へ乗りこんだ。自動車はすぐに走り出した。 「おそろいで、いったいどちらへお出かけですか」 「那須神社ですよ」 「那須神社? なにか用があるんですか」 「ええ、まあ……そのことについちゃ向こうへ着いてからお話ししましょう」  運転手をはばかってか、古館弁護士はギゴチなく|空《から》|咳《せき》をしながら言葉をにごした。佐武は腕組みをしたままムッツリとくちびるをへの字なりに結んでいる。佐智は窓へ向いて口笛を吹きながら、しきりに貧乏ゆすりをしている。自動車の震動とは別な、佐智の貧乏ゆすりが伝わって、耕助は|股《また》のあたりがむずがゆくなるような感じだった。  那須神社は市の中央部から、一里ほど離れた向こうにある。自動車はすでに町をぬけ出して、葉の落ちた桑畑のあいだを走っていった。桑畑の向こうには、ひろびろとした田んぼがひろがっているが、稲はすでに刈りとられ、水の落ちた泥の上に、黒い切り株がのこっているのが、いかにも|蕭条《しょうじょう》たるながめであった。田んぼの向こうには、湖水のおもてが、かみそりのように光っており、そこから吹いてくる風は、もう肌にしみるほどの冷たさであった。信州では冬の来るのが早いのである。桑畑のはるかかなたに望まれる富士の|嶺《みね》も、もう真っ白であった。  自動車は間もなく、大きな白木の鳥居のまえにとまった。  那須神社は由緒の古いお社である。広い境内には、亭々として杉の大木がそびえており、ずらりとならんだ|春日《かすが》|燈《どう》|籠《ろう》に、いい色の|苔《こけ》がついている。敷きつめた|玉《たま》|砂《じゃ》|利《り》を、さくさくと踏んでいくとき、耕助は一種の緊張から、身内がひきしまるようであった。佐武はあいかわらず、ムッツリとくちびるを結んでおり、佐智は依然として狐のようにキョトキョトしているが、だれも口をきくものはない。間もなく一同は社務所のまえへ出た。 「ああ、いらっしゃい。自動車の響きがしたから、たぶんあなただろうと思いましたよ」  社務所から出てきたのは、白い小袖に浅黄色の袴をはいた中年の男である。髪を短く刈って、鉄ぶちの眼鏡をかけている。別にどこといって特徴のない男であった。この男が那須神社の神主で、名前を大山|泰《たい》|輔《すけ》ということを、金田一耕助はのちに知った。  やがて大山神主に案内されて、一同が通されたのは、冷たいまでに掃除のゆきとどいた、奥の八畳だった。座敷のまえの庭には、ここにも菊がみごとに咲いていて、|縹渺《ひょうびょう》たるにおいがあたりに立ちこめている。座敷のなかの|火《ひ》|鉢《ばち》には、炭火がほどよくおこっていた。  やがて席がきまってあいさつがおわると、佐智が待ちかねたように膝をすすめて、 「それでは大山さん、さっそくですが、例のものを見せてもらいましょうか」  大山神主は片づかぬ面持ちで、耕助のほうをうかがいながら、 「ときに、こちらのかたは……」 「いや、このかたならば」  と、横から古館弁護士がひきとって、 「御心配なさるには及びません、金田一さんといってこんどの件について、いろいろ御助力を願っているかたなのです。それでは佐武さんや佐智さんがお待ちかねですから、どうぞ……」 「はあ、では、少々お待ちくださいまし」  大山神主は部屋を出ていったが、間もなくうやうやしくささげてきたのは、白木の三宝である。三宝の上には、|金《きん》|襴《らん》の表装をした、三巻の巻き物がのっている。大山神主は三宝を一同のまえにおくと、一本、一本、巻き物をとりあげて、 「これが佐武さんの巻き物、これが佐智さん、あなたの巻き物でございます」 「いや、われわれのはどうでもよいのです。佐清君のを見せてください」  狐の佐智が、いらいらしたような声でうながした。 「はあ、これが佐清さんの巻き物でございます。どうぞ、ごらんください」  佐武はあいかわらず、ムッツリとしたまま、大山神主から巻き物を受けとると、さらさらとそれをひらいて見ていたが、すぐにそれを佐智にわたした。それは幅一尺二寸、長さ二尺ばかりの表装した巻き物だったが、佐智はそれを受けとるとき、ひどく興奮しているらしく、わなわなと手がふるえているのがうかがわれた。 「佐武君、これはたしかに佐清君の巻き物にちがいないね」 「ちがいない。上に書いてあるのは、お|祖《じ》|父《い》さんの字だし、佐清君の署名にもまちがいないようだ」 「よし、これさえあれば……古館さん、ごらんください」  巻き物が古館弁護士の手にうつったとき、ならんで座っている金田一耕助にも、はじめて中身が眼に写った。と、同時に耕助は、頭のてっぺんから|楔《くさび》を打ちこまれるような激しい、ショックを感じたのである。  それは白地の絹にペッタリおされた右の手型であった。そして、その上には達筆で、「武運長久」と書いてあり、左の端には別の筆跡で、「昭和十八年七月六日、犬神佐清、二十三歳、酉年の男」と書いてあった。  すなわち、その手型こそは、あのくちゃくちゃに顔のくずれた犬神佐清のものだ!  金田一耕助ははじめて一同が、ここへ来た理由を知ると同時に、なんともいえぬ興奮に、胸がガンガン鳴るのをおぼえたのである。 「金田一さん、あなたもこれをよく見ておいてください」  古館弁護士は巻き物を、耕助のほうへ押しやった。 「はあ、拝見しましたよ。しかし、これをいったい、どうしようというんです」 「わかっているじゃありませんか。これでこのあいだ帰ってきたあの奇妙な仮面をつけた男が、ほんとうに佐清君かどうか、たしかめてみようというんです。人間の指紋に、同じものはふたつとない。そして、その指紋は生涯変わらない。……金田一君、きみだってそれくらいのことは知っているでしょう」  佐智の|口《こう》|吻《ふん》には、獲物をまえにおいて、舌なめずりをするような動物的な残酷さがあった。金田一耕助は、ねっとりと吹きだす冷汗をおぼえながら、 「なるほど、しかし、どうしてこんなものがここにあったのですか」 「それはこうです。金田一さん」  と、古館弁護士が引きとって説明を加えた。 「この地方ではみんな戦争に出るまえに、こういう手型をおした絵馬を、このお社に奉納して行ったものです。つまり、武運長久を祈る意味ですね。ここにいる佐武さんや佐智さん、それから佐清さんもそのひとりですが、この三人はこのお社と、とくに縁のふかいひとびとですから、絵馬の代わりに、こういう巻き物を奉納して、それを神殿の奥に安置してあったのですがね、われわれはそのことを、すっかり忘れていたのですが、この大山さんがおぼえていて、なにか役に立ちはしないかと、昨日、わざわざ佐武さんや佐智さんのところへ知らせてきてくだすったのです」 「こちらの神主さんが……?」  金田一耕助にジロリと見られて、大山神主は|狼《ろう》|狽《ばい》したように、 「ああ、いや、実は……こんど帰ってきた佐清さんについては、なにかと取りざたがあるものですから、ハッキリできるものなら、しておいたほうがよいと思って……」 「それじゃあなたがたは、あれが佐清さんではないかもしれないという、疑念がおありなんですね」 「むろんです。あんなにクチャクチャに顔のくずれた男を信用なんかできるもんですか」  佐智がいった。 「しかし、お母さんの松子夫人が、あんなにハッキリと……」 「金田一さん、あなたは伯母というひとを知らないんですよ。あのひとは、佐清君が死んでいたら、身代わりでもなんでもこさえるひとなんです。あのひとは、ぼくたちに犬神家の財産をわたしたくないんだ。だから、それを妨げるためならば、にせものでもなんでもかまわない。自分の子として主張するひとなんですよ」  金田一耕助は、また背筋をむずがゆく這いのぼる戦慄をおぼえた。 「さあ、古館さん、この手型の横へ署名してください。金田一さん、あなたもどうぞ。ぼくたちはこれを持って帰ってあの仮面の男に手型をおさせ、それとくらべて見るつもりなんだが、インチキをしたと思われたくないんだ。証人として、この手型のわきへ署名してください」 「しかし、……しかしもし、佐清さんが手型をおすことをこばんだら」 「なあに、こばみはしないさ」  佐武が小山のような膝をゆるがせて、はじめて口をひらいた。 「いやだといったら、力ずくでもおさせてやる」  それはまるで、歯のあいだから、血でも滴りそうな残忍な声であった。     第三章 凶報至る  十一月十六日。——その朝、金田一耕助は、いつになく朝寝坊をして、十時だというのに、まだ寝床のなかでモゾモゾしていた。  耕助がそんなに朝寝坊をしたというのは、昨夜、おそくまで起きていたからである。  昨日、那須神社で、佐清の手型を手にいれた佐武と佐智は、これから帰って、あの奇妙な仮面をかぶった男に、改めて手型をおさせて、事の実否をたしかめるのだと意気込んでいた。そして、金田一耕助にも証人として、その場に立ち会ってくれるようにと懇請したが、さすがに耕助も、そればかりは断わったのである。  なにか事件が起こったあとならばとにかく、そうでもないのに、あまり他人の家庭の私事に首をつっこんで、だれからにしろ、変な眼で見られるのは、好ましいことではないと思ったからである。 「そうですか。いや、それならばよござんす。古館さんもいらっしゃることでするから……」  衝立の佐武はすぐあきらめたが、 「でも、この巻き物が問題になるようなことがあった場合、あなたも証人になってくださるでしょうね。たしかに那須神社から、受け取ったものだということについて……」  と、狐の佐智が念を押した。 「それはもちろんです。そこに私の署名がある限りは、ぼくもあとへは引きませんよ。ときに古館さん」 「はあ」 「いまもいったように、その場に立ち会うことは、ぼくも困るのですが、結果についてはできるだけ早く知りたい。どうでしょう。あの奇妙な仮面をかぶった男が、佐清さんであるにしろないにしろ、できるだけ早く、その結果を知らせていただくわけにはいきませんか」 「いいですとも、それじゃ帰りに、宿のほうへ立ち寄りましょう」  こうして金田一耕助を、宿のまえにおろした自動車は、そのまま犬神家へ帰っていったのである。  古館弁護士が約束を守って、金田一耕助の宿を訪れたのは、その晩十時ごろのことだった。 「どうでした。結果は……?」  古館弁護士の顔を見た|刹《せつ》|那《な》、耕助はなにかしら、ハッとするものを胸に感じて、思わずせきこんで、そうきかずにはいられなかった。それほど古館弁護士の顔色は、暗く、きびしく、かつ、|猜《さい》|疑《ぎ》に|充《み》ち満ちていたのである。  弁護士はかるく首を左右にふると、 「だめでしたよ」  と、吐き出すようにいった。 「だめ……? だめとは?」 「松子夫人がどうしても、佐清君の手型をおさせようとしないのです」 「こばむのですか」 「ええ、頑強に……絶対に佐武君や佐智君の言葉をきこうとしないのです。あれじゃ当分、絶対にだめでしょうね。佐清君の手型をとるためには、佐武君もいったとおり、力ずく、腕ずくよりほかにしようがないでしょうが、まさかそこまではね。結局、今夜の結果はうやむやでしたよ」  金田一耕助はなにかしら、腹の底がズシーンと重くなる感じだった。 「しかし……しかし……」  と、耕助は乾いたくちびるをなめながら、 「それじゃますます、佐武君や佐智君の疑いをあおるようなもんじゃありませんか」 「そうですとも。だからわたしも口が酸っぱくなるほど、松子夫人を説いたんです。しかし、なんといっても聞きいれるひとじゃありません。反対に、カンカンにいきり立って、さんざんわたしは毒づかれましたよ。あのひとは気の強い、いったんこうといい出したが最後、なかなかひとの言葉をききいれるようなひとじゃありませんからね」  古館弁護士はほうっと、深い、暗いため息を吐き出した。それからまるで、まずいものでも吐き出すように、その夜のいきさつについて語って聞かせた。金田一耕助は、古館弁護士の話を聞きながら、その場の情景を、まざまざとあたまのなかに描き出してみる。  そこはいつか、遺言状が読みあげられた、十二畳の座敷であった。  正面の白木の壇にかざった佐兵衛翁の写真のまえに、犬神家の一族が集まっている。あの奇妙な、薄気味悪いゴムの仮面をかぶった佐清と松子夫人を中心として、佐武と佐智、それからかれらの両親や妹が、ずらりと円を描いている。その円のなかには、珠世と古館弁護士の顔も見られる。  仮面をかぶった佐清のまえには、さっき那須神社から持ってきた、例の巻き物と、それから別に、一枚の白紙と朱墨の|硯《すずり》と筆がおいてある。  仮面をかぶっているので、佐清の顔色はわからなかったけれど、その肩が小刻みにふるえているところを見ると、よほどかれも動揺しているらしい。その仮面のおもてにそそがれる、犬神家のひとびとの眼には、猜疑と憎しみが充ち満ちている。 「それじゃ、伯母さん、あなたは絶対に、佐清君に、手型をおさせないとおっしゃるのですか」  長い、殺気に満ちた沈黙のあとで、衝立の佐武が、なじるように言った。まるで歯のあいだから、生血がたらたら、滴るような声であった。 「ええ、絶対に!」  松子夫人が、しんねり強い、おさえつけるような声で答える。それから、ギラギラ光る眼で、一同の顔を見わたしながら、 「いったい、これはなにごとです。顔こそ変わっておれ、この子は佐清にちがいありません。現在腹をいためた母のわたしが保証するのですよ。これほど確かなことがありましょうか。それをなんぞや、つまらない世間のうわさをまにうけて……いいえ、いやです、いやです、そんな、そんな……」 「しかし、姉さん」  そのときそばから、佐武の母の竹子が言葉をはさんだ。静かな、落ち着いた声だったけれど、そこには多分に底意地悪いひびきがこもっている。 「それなら、よけいに佐清さんに、手型をおしてもらったらいいじゃありませんか。いいえ、わたしは何も、佐清さんの正体について、疑いを持ってるってわけじゃありませんのよ。でも、世間の口には戸が立てられないから。……つまらないうわさを打ち消すためにも、ちょっと佐清さんに、手型をおしてもらうといいと思うんですがね。梅子さん。あなた、どう思う?」 「ええええ、わたしも竹子姉さんに賛成ですわ。ここでなまじ、松子姉さんや佐清さんがこばんだら、世間のひとの疑いは、いっそう濃くなるばかりだと思うんだけど……ねえ、皆さん、どうお思いになって?」 「そりゃ大きにそうですとも」  梅子のあとについて、竹子の夫の寅之助も口をひらいた。 「いや、世間のひとばかりじゃない。ここで姉さんや佐清君が、こばみとおすとしたら、われわれだって疑いたくなってきます。幸吉君、きみはどうだね」 「そ、それはそうです」  梅子の夫の幸吉が、おびえたように口ごもった。 「親戚のものを疑うなんて、本意ないことにちがいないけれど、姉さんや佐清さんがあくまでいやだとおっしゃれば、やっぱり……」 「うしろぐらいところがあるとしか思えないわね」  グサリと釘を打つように、竹子が毒々しくあざわらった。 「お黙り! お黙り、お黙り、お黙り!」  松子夫人が怒りに声をふるわせたのはそのときだった。 「おまえさんたちは、なんということをいうの。この佐清は、かりにも犬神家の総本家ですよ。総本家の跡取り息子ですよ。お父さんがあんなつまらない遺言状をかいておかなかったら、犬神家の名跡も、財産もすっかりこの子のものになっていたはずなんだ。この子は本家だよ、総本家ですよ、昔ならば殿様だ、御主人ですよ。佐武も、佐智も、家来も同然、それだのに……それだのに……この子をつかまえて、手型をおせの、指紋をとらせろのと、まるで罪人でも扱うように。……いいえ、いいえ、わたしはけっして、この子にそんな汚らしいまねはさせません。ええ、ええ、けっして、けっして、……佐清、おいで、こんなところにいることはない」  松子夫人は席を|蹴《け》って立ちあがった。  佐武の血相がさっと変わった。 「伯母さん、それじゃあなたはあくまでも……」 「いやです、いやです。さあ、佐清……」  よろよろと、仮面の佐清が立ちあがる。松子夫人がその手をとった。 「伯母さん、それじゃわれわれは……」  佐武がギリギリ歯ぎしりしながら、座敷を出ていく松子夫人と、仮面の佐清の背後から、毒々しい声をあびせかけた。 「今後その男を、佐清君と認めることはできませんよ」 「なんとでもお言い!」  仮面の男の手をひいて、松子夫人は足音あらく、障子の外へ出ていった。…… 「ふうむ」  古館弁護士の話を聞きおわった耕助は、ガリガリ、ガリガリ、めったやたらにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「事態がなかなか急迫してきましたな」 「そうなんですよ」  古館弁護士は暗い眼をして、 「松子夫人はなんだって、あんながんこにこばむのですかねえ。そりゃあ、佐武君の切り出しかたもたしかにまずかった。のっけから相手を罪人扱いですからね。気位の高い松子夫人がカッとして……一度つむじをまげると、手のつけられないほど、片意地になるひとですから、無理もないと思われるのですが……しかし、問題が問題ですからね。あれがほんとうの佐清君だとしたら……むろん、わたしはそう信じていますが、|潔《いさぎよ》く手型をとらせたほうが、よかったと思うんですがねえ」 「つまり、今夜の松子夫人の態度には、二様の解釈が下せるわけですね。佐武君や佐智君の態度が|癇《かん》にさわって|依《い》|怙《こ》|地《じ》になったか、あるいは、佐武君や佐智君の疑っているように、あの仮面の男が、ほんとうは佐清君ではなく、しかも、それを松子夫人が承知しているか……」  古館弁護士は、暗い眼をしてうなずいた。 「わたしはむろん、第一の解釈をとりますが、しかし、松子夫人がかぶとをぬいで、佐清君の手型をとらせてくれないかぎり、第二の解釈、恐ろしい疑いをぬぐい去ることができません。いやな、ありうべからざることだとは思いますがねえ」  古館弁護士は十二時ごろまで話しこんでかえっていった。金田一耕助はそれから間もなく、寝床のなかへもぐりこんだが、かれの|瞼《まぶた》は電気を消したあとも、ながいことひとつにならなかった。  あの奇妙な、薄気味悪いゴム製の仮面をかぶった男の姿と、絹地におされた右の手型が、|暗《くら》|闇《やみ》のなかにうかびあがって、おそくまでかれを苦しめた。……  突然、枕元においた卓上電話のベルが、ジリジリ鳴り出したので、金田一耕助はハッと眼をさました。  寝床のなかで|腹《はら》|這《ば》いになったまま、電話をひきよせ受話器をはずすと、電話の相手は帳場の番頭さんだった。 「ああ、十七番のお客様ですか。金田一耕助さんですね。古館さんからお電話ですが」 「ああ、そう、つないでください」  すぐ電話の向こうに、古館弁護士の声が聞こえてきた。 「ああ、金田一さんですか。お休みのところを起こしてすみませんが、すぐ来ていただきたいのですが……至急に……大至急に……」  古館弁護士の声はうわずっている。うわずってふるえている。耕助はハッと胸をとどろかせた。 「来いって、どこへですか」 「犬神家……犬神家です。迎えの車をさしあげますから、すぐに来てください」 「承知しました。すぐ行きます。しかし、古館さん、犬神家になにか起こったのですか」 「ええ、起こったのです。たいへんなことが起こったのです。若林君の予言があたったのです。それも……それも、とても奇妙なやりかたで……とにかく、すぐ来てください。来てくだされば、万事わかります。じゃのちほど……」  ガチャンと受話器をかける音。……金田一耕助ははじかれたように寝床のなかからとび起きると、なんということなく、雨戸を一枚繰ってみたが、外は薄墨をなすったように暗くくもって、湖水のおもてを、しぐれがわびしくたたいている。……      菊 畑  金田一耕助は、いままでずいぶんいろんな事件を手がけてきたし、恐ろしい、悪夢のような変てこな、|死《し》|骸《がい》にぶつかったことも珍しくない。 「本陣殺人事件」では、血みどろになって|斃《たお》れている、新婚初夜の男女を見たし、「獄門島」の事件では、梅の古木に逆さづりされた娘の死体や、またその姉が、|吊《つ》り鐘のなかに封じこまれて死んでいるのを見た。また「夜歩く」の事件では、首をチョン|斬《ぎ》られた、男女ふたりの死骸を見たし、「八つ墓村」では、幾人もの男や女が毒殺されたり、絞め殺されているのを目撃した。  だから、かれにとっては、どのような変わった恐ろしい死体でも、もう免疫になっているはずだったが、それでもやっぱり犬神家の事件で、はじめて、あの変てこな殺人にぶつかったときには、呼吸をのんで立ちすくまずにはいられなかったのである。  犬神家から、迎えの自動車がやってきたのは、それから間もなくのことだった。金田一耕助は大急ぎで飯をかきこむと、その自動車にとびのった。  みちみち耕助は、運転手の口から、なにかきき出そうと骨を折ったが、口止めされているのか、それとも実際に知らないのか、運転手の答えははかばかしくなかった。 「わたしもまだよく知らないんですよ。だれかが殺されたとか聞きましたが、だれが殺されたのか知りません。しかし、なにしろたいへんな騒ぎで……」  自動車は間もなく、犬神家の正門のまえにとまった。  すでに警察からひとが来ているとみえて、ものものしい表情をしたお巡りさんや私服が、門を出たり入ったりしている。  自動車がとまると、すぐ門のなかから、古館弁護士が駆け出してきた。 「金田一さん、よく来てくれました。とうとう、とうとう……」  古館弁護士は逆上しているのか、耕助の腕をつかんだまま、あとの言葉がつづかなかった。あの沈着な弁護士を、こうも逆上させるとは、いったいどのようなことが起こったのであろうかと、耕助ははや、とむねをつかれる思いであった。 「古館さん、いったい、なにが……」 「来てください、こっちへ来てください。見ればわかります。恐ろしい……実に恐ろしい。……正気のさたじゃありません。悪魔の仕業なんだ。……いったい、なんのためにあんな恐ろしいいたずらを……」  古館弁護士はしどろもどろであった。まるでなにかにとりつかれたように、眼がうわずって血走っている。口から泡をふかんばかりであった。耕助の手首をつかんだ|掌《てのひら》が、もえるように熱かった。  耕助は無言のまま、ひきずられるように、古館弁護士についていく。  門のなかにはかなり長い車道があって、向こうに車寄せが見える。しかし、古館弁護士はそのほうへは行かずに、かたわらの木戸から庭のほうへ踏みこんだ。  この犬神家の本邸というのは、佐兵衛翁の事業の基礎がかたまったとき、はじめてここに建てられたものだが、当時はたいして大きなものではなかった。それがその後、犬神家の事業が大きくなり、産をなしていくにしたがって、しだいに周囲の土地を買いつぶし、つぎからつぎへと建てましていったのである。だから、建物全体は、迷路のように複雑な構造をもっており、また|幾《いく》|棟《むね》にもわかれていた。もし金田一耕助が、ひとりでここへ踏みこんだとしたら、迷い子にならずにはいられなかったろう。  古館弁護士は、しかしこの屋敷の地理に通暁していると見えて、なんのためらいもなく、ぐんぐん奥へ、金田一耕助をひきずっていく。  やがて西洋風の外庭をぬけると、日本風の内庭へ踏みこんだ。そのあたり、お巡りさんがおおぜい、しぐれにぬれながらなにやらうろうろさがしている。  この内庭をつっきって、気のきいた|枝《し》|折《お》り戸をくぐると|俄《が》|然《ぜん》、金田一耕助の眼前には、広い、みごとな菊畑が現われた。その菊畑のみごとさには、さしも無風流な金田一耕助も思わず眼をみはらずにいられなかったくらいである。  掃き清められた白砂の向こうに、茶室風な、凝った建物が見える。そして、その茶室をとりまくようにして、市松格子の覆いをした、菊畑が整然としてならんでいる。市松格子の覆いの下には、厚物、太管、菊一文字、さまざまな大輪咲きが、折りからのしぐれそぼ降るわびしい庭に、ふくいくたる香りを放っている。 「あそこなんです。あそこに恐ろしいものが……」  耕助の腕をつかんだ弁護士が、うわずった声でささやいた。  見ると茶室の正面にあたる、菊畑のまえに、数名の警察が、凍りついたように立ちすくんでいる。古館弁護士はひきずるように金田一耕助をそのほうへつれていった。 「見てください、金田一さん、あれを、……あの顔を……」  金田一耕助は、警官たちを押しわけて、菊畑のまえへ出たが、すぐにいつか古館弁護士にきいた言葉を思い出した。 「猿蔵ですか。あいつは菊作りの名人なんです。いま、菊人形をつくっていますよ」  そうだ、その菊人形なのだ。しかもそれは、歌舞伎の「菊畑」の一場面。  中央に総髪の|鬼《き》|一《いち》|法《ほう》|眼《げん》が立っている。鬼一のそばには|皆《みな》|鶴《づる》|姫《ひめ》が、|大《おお》|振《ふり》|袖《そで》をひるがえしている。鬼一のまえには、|前髪奴《まえがみやっこ》の|虎《とら》|蔵《ぞう》と、奴の|智《ち》|恵《え》|内《ない》が左右にわかれてうずくまっている。そして、|敵役《かたきやく》の|笠《かさ》|原《はら》|淡《たん》|海《かい》が、舞台の奥の、ほのぐらいところに、物の|怪《け》のように立っている。  金田一耕助は、ひと眼でこの舞台面を見わたしたが、すぐにあることに気がついた。これらの菊人形の顔はみなそれぞれ、犬神家のひとびとの似顔になっているのである。  鬼一はなくなった佐兵衛翁であった。皆鶴姫は珠世である。前髪奴の虎蔵、実は牛若丸は、あの奇妙な仮面をかぶった佐清にそっくりであり、奴の智恵内、実は喜三太は狐の佐智である。そして、敵役の笠原淡海は……  金田一耕助は瞳を転じて、ほのぐらい舞台の奥に眼をやったが、そのとたん、強い電流を通されたように、全身が|痙《けい》|攣《れん》し、そしてしびれていくのを感じたのだ。  笠原淡海。——むろん、それはあの衝立の佐武だった。  だが……だが……笠原淡海ならば、総髪の|四《し》|方《ほう》|髪《がみ》でなければならぬはずである。それだのに……それだのに……その笠原淡海は、まるで現代人のような左分けの頭である。そしてまた、あの真に迫った、青黒い顔!  金田一耕助は、また、強い電流を通されたように、ピクリとはげしく痙攣し、思わず一歩乗り出した。 「あれは……あれは……」  舌が上あごにくっついて、思うように言葉が出ない。  金田一耕助は体をまえに乗り出して、仕切りの青竹も砕けよとばかりに握りしめたが、そのときだった、淡海の首がうなずくように、二、三度ふらふらと動いたと思うと、やがて、胴をはなれてころころと……  耕助は、|蛙《かえる》を踏みつぶしたような声をあげて、思わずうしろにとびのいた。  笠原淡海——いや、佐武の首の斬りくちは、赤黒い血がいっぱいこびりついて、なにやらもやもやとしたものがのぞいている。それは無残絵さながらの、|嘔《おう》|吐《と》を催すような、いやらしい、おぞましい、ぞっとするような佐武の生首だったのだ。 「こ、こ、これは……」  凍りついたような数瞬の沈黙ののちに、金田一耕助があえぐようにつぶやいた。 「こ、殺されたのは、す、佐武君だったんですね」  古館弁護士と警官たちが、無言のまま、こっくりとうなずいた。 「そ、そして、犯人は首を斬り落として、菊人形の首とすげかえておいたのですね」  古館弁護士と警官たちが、また、こっくりとうなずいた。 「し、しかし……犯人は、な、なんだって、そ、そんな手数のかかることをやったんです」  だれも答えるものはない。 「首を斬り落とすということは、いままでにだってないことではない。首無し事件……そんな例はままあります。しかし、それは死体の身元をくらますためで、そんな場合、生首は、いつもどこかへかくしてしまう。それだのに……それだのに、この首は、どうして、こんなところへ麗々しくかざり立ててあるんです」 「金田一さん、問題はそこなんですよ。犯人は……それがだれだかわからないが……とにかく、だれかが佐武君を殺した。しかも、そいつは、どういうつもりか、死体をそのままにしておかないで、首を斬り落としてわざわざここまで持ってきて、菊人形の首とすげかえた、なぜでしょう」 「なぜなんです。ええ、どういうわけなんです」 「それは、……私にもまだわからない」  それは那須署の署長であった。名前を|橘《たちばな》という。|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》の頭を短くつんで、ずんぐりと、背は高くないが、腹のつん出た、恰幅のいい人物である。狸というアダ名がある。  署長も金田一耕助を知っていたが、金田一耕助もそのひとを知っていた。  若林豊一郎の事件が起こった際、金田一耕助も取り調べをうけたことはまえにもいった。橘署長はその後、金田一耕助の身元について、東京の警視庁へ照会したが、それに対する返事というのが、耕助にとって、ひどく有利なものであったらしい。それ以来、橘署長は半信半疑ながらも、この小柄で|風《ふう》|采《さい》のあがらない、もじゃもじゃ頭のどもり男を好奇心とともに、一種の|畏《い》|敬《けい》の念をもって見ているのである。  耕助はもう一度、あの恐ろしい菊人形のほうへ眼をやった。ほの暗い舞台の奥に、物の怪のように立っている首のない笠原淡海。その足下にころがっている、おぞましい佐武の生首、しかもすぐそのそばには、佐兵衛翁や野々宮珠世、さては佐清や佐智の似顔人形が、紅白とりどりの菊の衣装を身にまとい、つめたい顔をしてとりすましているのである。  市松格子の油障子を打つ、わびしいしぐれの音——鬼気肌にせまるとは、おそらく、こういう場合につかう言葉なのであろう。  金田一耕助は、額ににじむ汗をぬぐった。 「で……」 「で……?」 「体のほうはどこにあるのですか。首から下の胴はどうしたのですか」 「いや、それはいま捜索中なのですがね。いずれ、そうたいして遠いところじゃないと思う。ごらんのとおりこの『菊畑』はそう荒らされていないから、犯行の現場はどこかほかにあるんですね。それがわかれば……」  橘署長はそこまでいって、ハタと口をつぐんでしまった。そのとき二、三人の私服が、バタバタと駆けつけてくるのが見えたからである。私服のひとりが駆け寄って、なにか耳打ちをすると、署長はぐいと眉をあげたが、すぐに耕助のほうをふりかえって、 「犯行の現場がわかったそうです。あんたもいっしょにいらっしゃい」  先頭を行く、署長たちの一団のあとにつづいて、金田一耕助は古館弁護士と肩をならべてあるいた。 「古館さん」 「はあ。……」 「あれ……佐武君の生首ですがね、あれはいったい、だれがいちばんはじめに見つけたんですか……」 「猿蔵ですよ」 「猿蔵……?」  金田一耕助は、おびえたように眉をひそめた。 「ええ、そう、猿蔵は毎朝一度、菊の手入れをして回るのですが、今朝もあの菊畑へ来てみると……あのとおりの始末でしょう。そこでさっそく、わたしのところへ知らせて来たのですが……そう、九時ちょっと過ぎのことでしたかね。わたしも知らせをきいて、びっくりして駆けつけてきたんですが、いや、そのときの騒ぎったら、たいへんでしたよ。犬神家の一族は、みんなあの菊畑のまえに集まっていたのですが、竹子夫人が泣くやらわめくやら……まるで、気がちがったようなていたらくでしてね。それもまあ、無理のないことでしょうが……」 「松子夫人や佐清君は……」 「ええ、やっぱり来てましたよ。しかし、佐武君の首を見ると、黙ってすぐに、居間のほうへとってかえしました。どうもわたしには、あのひとたちは苦手ですね。佐清君はあのとおり、仮面で顔をかくしてますし、松子夫人は松子夫人で、御承知のとおりの男まさり、めったに感情をおもてに出しませんからねえ。佐武君の首を見て、ふたりがどのような感慨をもったか、わたしにはさっぱりわかりませんねえ」  金田一耕助は黙々として考えこんでいたが、やがて思い出したように、 「ときに、例の巻き物ですがね、佐清君の手型をおした……ひょっとすると佐武君が、あの巻き物を持っていたのじゃありませんか」 「いや、あの巻き物なら、わたしが預かってかえりました。このカバンに入っているんですがね」  古館弁護士は小わきにかかえた折りカバンをたたいてみせると急にしゃがれた声になって、 「しかし、金田一さん、あなたのお考えじゃ、佐武君はあの巻き物のために殺された……と、いうんですか」  金田一耕助はそれには答えず、 「あなたがその巻き物を預かっているということを、犬神家のひとびとはみんな知っていましたか」 「ええ、松子夫人と佐清君をのぞいてはね。あのふたりが立ち去ったあとで、みんなで相談の結果、わたしが預かることになったんですから」 「すると松子夫人と佐清君のふたりは知らなかったわけですね」 「そうですね。だれかが話さないかぎりは……」 「だれかが話した……なんてことは、ちょっと考えられないのではないでしょうか。佐清君親子とほかの連中は感情的にするどく対立しているんでしょう」 「そういえばそうです。しかし、まさかあのふたりが……」  このとき署長の一団は、湖水に面したボートハウスのそばまで来ていた。このボートハウスというのは遺言状が発表された日、猿蔵の迎えによって、耕助がボートでやってきたところである。  全体が鉄筋コンクリートの、長方形の箱のような建物で、屋上が屋根つきの展望台になっている。  署長の一行はこの展望台へ通じている、せまい階段をのぼっていく。金田一耕助と古館弁護士も、そのあとからついていったが、一歩展望台へ足をふみいれた|刹《せつ》|那《な》、耕助は思わず大きく眼を見はった。  展望台には、円い|籐《とう》の茶卓をとりまいて、五、六脚の籐椅子がおいてあったが、その籐椅子のひとつが倒れ、床の上におびただしい血が流れている。  ああ、ちがいない。犯行はたしかにここで行なわれたのだ。しかし、死体は……? その死体は展望台のどこにもなかった。      菊花のブローチ 「署長さん、犯行はここで行なわれたんですよ。犯人は佐武さんを殺したあげく、首を斬り落として、死体のほうはここから投げこんだんでしょう。ほら、これ……」  なるほど、血だまりの中心から、ひとすじの血のあとが、展望台のはしまでつづいている。その血をつたって展望台のはしまで来てみると、下はすぐに湖水の水で、ゆるやかに打ち寄せる波の上に、しぐれがわびしい波紋をつくっている。 「チッ」  署長は水のなかをのぞきこみながら、いまいましそうに舌打ちをした。 「こりゃ、一度湖水をさらえてみなきゃ……」 「このへんは深いんですか」 「いや、それほど深いってわけじゃありませんが、ほら」  と、署長は半丁ばかり沖を指さしながら、 「あそこに、大きな波紋をえがいているところがあるでしょう。あれは七つ|釜《がま》といって、湖水の底から温泉が吹き出しているんです。そのために、このへんいったいの水は、絶えずゆるい渦をえがいて流動している。だから、ここから死体を投げこんだとしても、いまごろは、どこか遠くのほうへ持っていかれてるにちがいないんです」  そのとき、私服のひとりが、署長のそばへちかづいてきた。 「署長さん、こんなものが落ちていたんですが……」  それは直径一寸ばかりの、菊花の形をしたブローチだった。黄金の菊の台座の中心に、大きなルビーがはめてある。 「向こうの、倒れている籐椅子のそばに落ちていたんですが……」  古館弁護士が、奇妙な叫び声をあげたのはそのときである。  署長と金田一耕助が、驚いてふりかえると、古館弁護士は大きく眼をみはって、食いいるようにブローチをながめている。 「古館さん、このブローチをご存じですか」  署長にきかれて、古館弁護士は、ハンケチを取り出すと、あわてて額の汗をぬぐった。 「はあ、あの、それは……」 「どなたのブローチですか」  署長がたたみかけるように尋ねた。 「はあ、それはたしかに珠世さんの……」 「珠世さん?」  金田一耕助も一歩まえへ出ると、 「しかし、これが珠世さんのものだとしても、あのひとが、この事件に関係があるとはいいきれないでしょう。昨夜より、もっとまえに落としたのかもしれないし……」 「いや、ところが……」 「ところが……?」 「それがそうじゃないんです。わたしは昨夜、珠世さんがこのブローチを、胸にかざっていたのを、ハッキリとおぼえていますよ。ええ、そうなんです。昨夜、かえりについうっかりと、珠世さんにぶつかったんです。そのとき、このブローチが、わたしのチョッキにひっかかって……それでよくおぼえているんですが……」  古館弁護士はソワソワと、首筋の汗をぬぐっている。署長と金田一耕助は、意味ふかい眼を見交わした。 「それは何時ごろのことでしたか」 「そう、十時ちょっとまえ。……かえりぎわのことでしたから……」  すると珠世はそれからのちに、この展望台へやってきたことになる。そんな時刻になんだって、珠世はこんなところへやってきたのだろう。  そのとき、階段のほうに足音がして、展望台のあがりぐちから、猿蔵の醜い顔がヒョッコリと現われた。 「あの古館の旦那、ちょっと……」 「ええ、なに、わたしになにか御用……?」  古館弁護士は猿蔵のそばへより、なにか話をしていたが、すぐもどってくると、 「松子夫人がわたしになにか話があるそうですから、ちょっと行ってきます」 「ああ、そう、それじゃすみませんが古館さん、珠世さんにここへ来るようにいってくれませんか」 「承知しました」  古館弁護士がおりていったあとも、猿蔵は立ち去ろうともせず、階段の途中に立ったまま、オズオズと展望台を見回している。 「猿蔵さん、なにかまだ用があるのかい」 「へえ、あの、ちょっと……妙なことがあるもんだで……」 「妙なことっていうのは……?」  と、署長が尋ねた。 「へえ、あのボートが|一《いっ》|艘《そう》なくなっているだあね」 「ボートが一艘……?」 「へえ、そうなんで。おらいつも朝起きると、家のなかを見回るだが、今朝起きぬけにこの下へ来てみると、水門がひらいていただ。あの水門は昨日、日暮れまえに、たしかにおろしておいたはずだから、変に思ってボート小屋をのぞいてみると、三艘あるボートのうち一艘が、見えなくなっているだ」  署長と金田一耕助は、驚いたように眼を見交わした。 「すると、昨夜のうちにだれかがボートを|漕《こ》ぎ出したというのかね」 「さあ。……それはおらにもわからねえが、とにかくボートが一艘……」 「そして、水門がひらいていたというんだね」  猿蔵はムッツリとした顔でうなずいた。  金田一耕助は本能的に、湖水のほうをふりかえったが、雨に降りこめられた湖水の上には、ボートらしいものは一艘も見られなかった。 「こちらのボートには、なにか目印がついていないのかい」 「へえ、こちらのボートにゃ、みんな犬神家という字が黒いペンキで書いてあるだ」  署長がなにかささやくと、すぐに私服の三人が、展望台からおりていった。おそらく、紛失したボートをさがしにいくのだろう。 「いや、猿蔵君、ありがとう。なにかまた変わったことに気がついたら知らせてくれたまえ」  猿蔵はぶきっちょにお辞儀をすると、そのままコトコトと階段をおりていった。  署長は金田一耕助をふりかえって、 「金田一さん、あんたこれをどうお考えかな。犯人は佐武の首無し死体を、ボートにつんで運んでいったものでしょうか……」 「さあ。……」  と、金田一耕助は、雨にけむった湖水のおもてを見渡しながら、 「そうなると、犯人は外部のものということになりますね。だってボートを漕ぎ出したまま、こっちへかえっていないんですから」 「いや、途中で死体を湖水へしずめ、自分はどこかの岸へボートを漕ぎよせ、岡をまわってかえってくるという方法もある」 「しかし、そりゃずいぶん危険な仕事ですぜ。生首をああして、麗々しくかざっておく以上は、なにもそんな危険をおかしてまで、死体をかくす必要はないと思いますがねえ」 「ふうむ。そういえばそうだが……」  署長はぼんやり、あの恐ろしい血だまりに眼をやっていたが、急に強く首を左右にふると、 「金田一さん、わしはどうもこの事件は気に食わんよ。犯人はなんだって首を斬り落としよったんじゃ。なんだってまたその首を菊人形の首とすりかえよったんじゃ。いやだね、どうも。……わしゃなんだか、寒気がするよ」  そこへ珠世があがってきた。さすがに珠世も顔青ざめて、瞳もかたくとがっている。しかし、それにもかかわらず、彼女の美しさにはかわりはなかった。いやいや、ものにおびえて、どことなく頼りなげな風情が、いっそうしおらしく、美しく、古くさいたとえながら雨になやめる|海《かい》|棠《どう》の、そこはかとないはかなさが、彼女の美しさをいっそうひき立てているようにさえ見えるのだ。署長はかるく|空《から》|咳《せき》をすると、 「ああ、どうも、お呼びたてしてすみません。どうぞそこへお掛けになって……」  珠世はあの恐ろしい血だまりに眼をやると、一瞬おびえたように大きく眼を見はったが、すぐ顔をそむけるようにして、ギゴチなく籐椅子のひとつに腰をおろした。 「お呼びたてしたのはほかでもありませんがね、このブローチ、ご存じですか」  珠世は署長の|掌《てのひら》にある、菊花のブローチに眼をやると、籐椅子のなかで、一瞬体をかたくした。 「はあ……あの……存じております。それ、あたしのブローチでございます」 「なるほど、それで、いつ失われたのか、お心当たりはありませんか」 「はあ……たぶん、昨夜……」 「どこで……」 「ここで落としたのじゃないかと思ってますけれど……」  署長はチラと、金田一耕助と顔を見合わせた。 「すると、あなたは昨夜、ここへ来られたのですか」 「はあ……」 「何時ごろ?」 「十一時ごろだったと思います」 「そんな時刻に、どういう御用があって、こんなところへ来られたのですか」  珠世は両手でハンケチをもんでいる。もんでもんで、ハンケチをひきちぎらんばかりである。 「ねえ、こうなったらなにもかも正直にいっていただきたいのですがね。いったい、どういう御用でこんなところへ?」  珠世は突然決心したように、スックとばかりに顔をあげると、 「実は昨夜、ここで佐武さんに会ったのでございます。内密に話をしたいことがあったものですから」  珠世の|頬《ほお》からは、スッカリ血の気がひいている。  橘署長は、また、チラと金田一耕助のほうへ眼をやった。      指紋のある時計 「昨夜、あなたは佐武君と、ここで会ったんですって?」  橘署長の眼に、ふと、かすかな疑惑の色がうかんでくる。金田一耕助も、|怪《け》|訝《げん》そうに眉をひそめて、血の気のひいた、珠世の白い横顔を見つめている。  珠世の美しい頬は、スフィンクスのように、なぞを秘めて|強《こわ》|張《ば》っていた。 「どういう御用件があったんですか。ああ……いや、たぶん、佐武君のほうから、誘いかけたんでしょうな」 「いいえ、そうではございません」  珠世はキッパリとした口調で、 「あたしのほうから佐武さんに、十一時ごろ、ここへ来てくださいとお願いしたのでございます」  と、そういいきると、たゆとうような視線を湖水のおもてへ持っていく。すこし風が出たのか、水のおもてを打つ雨脚が、しだいに乱れて、はげしさを増していく。|時《し》|化《け》になるかもしれない。  署長と金田一耕助は、また顔を見合わせた。 「ああ、なるほど……」  署長は息苦しそうに、のどにからまる|痰《たん》を切りながら、 「で……? どういう御用件がおありだったんですか。なにか、内密に、話をしたいことがあったとか、さっきおっしゃったようでしたが……」 「そうなんでございます。だれにも知られずこっそりと、佐武さんのお耳にだけ、入れておきたいことがございまして。……」 「その、内密なお話というのは……?」  珠世はそこで湖水のほうから、急に視線を、署長の面にひきもどすと、 「ええ、こうなったら、なにもかも正直に申し上げますわ」  と、ハッキリと心をきめたように、瞳をさだめて妙なことを話しはじめた。 「あたし、お祖父さま……犬神のお祖父さまには、とてもかわいがっていただきました。子どものころからほんとうの孫のようにかわいがっていただきました。そのことは、あなたがたもご存じでしょう」  そのことなら、金田一耕助も橘署長も、知っていた。佐兵衛翁の遺言状を見ても、亡くなった翁が、いかに珠世を愛していたかわかるのである。  珠世はふたりが無言のまま、うなずくのを見ると、また、遠いところを見るような眼つきになって、そこはかとなく語りつづけるのである。 「そのお祖父さまに、あたし、時計をいただいたことがございますの。いいえ、ちかごろのことではございません。まだお下げにしていた、子どものころでした。タバンの金側で、両ぶたの懐中時計でございました。いいえ女持ちではございません、女持ちではございませんけれど、どういうものか子どものあたしにはひどく気にいりまして、お祖父さまのそばにいると、いつもその時計を出してもらって、いじっていたのでございます。そうすると、ある日、お祖父さまがお笑いになって、そんなにこの時計が気にいったのなら、おまえにあげることにしよう。しかし、これは男持ちの時計だから、大きくなったら持つことはできないよ。しかし……そうだ、そのときにはおまえのお婿さんになるひとに、贈り物としてあげればいい。それまで、大事に持っているんだよ。とむろん、それは冗談でしたが、そうおっしゃって、その時計をあたしにくだすったのでした」  署長と金田一耕助は、とまどいしたような顔をして、珠世の横顔を見つめている。昨夜の話とその時計のあいだに、いったいどのような関係があるというのか。——  しかし、署長も金田一耕助も、話の腰を折るのをおそれて、無言のままひかえている。それというのが、こういう血なまぐさい場合にもかかわらず、亡くなった佐兵衛翁の話をするときの珠世の眉に、瞳に、くちびるに、なんともいえぬ、やさしい愛情が、洪水のようにみなぎりわたるのを見たからである。  珠世はあいかわらず、遠いところを見るような眼つきで妙な話をつづけるのである。 「あたし、もううれしくて、うれしくて、その時分、かたときもその時計を、そばからはなさなかったものでございます。寝るときも、枕元におきまして……チックタック、チックタック……きれいにすんだ響きをきくのが子ども心にもうれしくて……それは、それは、大事にしていたものでございます。しかし、なにぶんにも子どものことですから、どうかすると、大事な時計を狂わせることがございました。ネジをまきすぎたり、うっかり、水をつけたりして……そんなとき、いつも修繕してくださるのが、佐清さんでございました」  佐清——という名が出たので、珠世の遠い、昔の夢物語も、いくらか現実味をおびてくる。橘署長と金田一耕助はちょっと緊張した顔色になった。 「佐清さんとあたしとは、たった三つしかちがわないのですけれど、あのひとは小さいときからとても器用で機械をいじるのが大好きでした。ラジオを組み立てたり、電気機関車をこさえたり、そういうことが、とてもお上手でした。それですから、あたしの時計の修繕など、佐清さんにとってはお茶の子の仕事でした。珠世ちゃん、また時計をこわしたのかい、いけないねえ。……と、そう、たしなめながら、でもあたしの悲しそうな顔を見ると、ああ、いいよ、直してあげるよ、あしたまで待っててね、今晩じゅうに直しておいてあげるから、……そして、そのつぎの日になって、ちゃんと直った時計を、あたしの手にかえしてくださるとき、いつもにこにこ、からかうように笑いながら、珠世ちゃん、この時計、もっと大事にしなきゃいけないねえ。だって、これきみが大きくなってお嫁にいくとき、お婿さんにあげる時計だろ、それだったら、もっと大切に、かわいがってやらなきゃだめじゃないかと、人差指のさきであたしの|頬《ほ》っぺをつついて……」  こういう話をするとき、珠世の頬にほんのりと赤味がさし、美しい瞳がぬれぬれと、ぬれたように輝きをましてくるのである。  金田一耕助は、あの無気味なゴムの仮面をかぶった佐清のことを、ふと、頭のなかにえがいてみる。その佐清は、いまはもう見るかげもなく顔がくずれて、気味の悪い仮面をかぶっているけれど、かつての佐清の顔をそのままにうつしたといわれるあの仮面はたとえようもなく美しい。 「犬神佐兵衛伝」に出ている写真を見てもかつての佐清がたぐいまれな|美《び》|貌《ぼう》の持ち主だったことがわかるのである。おそらくそれは、若かりしころ、珠世の祖父、野々宮大弐によって、美色を|賞《め》でられたという、佐兵衛翁の血をひくものであったろう。  いま、珠世の話したようなエピソードのあったのは、おそらく珠世がセーラー服の小学生、佐清が金ボタンの中学生の時分のことであろう。その時分、|雛《ひな》のように美しい、この|一《いっ》|対《つい》のあいだに、どういう感情が交流していたことだろうか。そしてまた、このふたりを見る佐兵衛翁の胸中には、いったいどのような構想がやどったことか。  金田一耕助はそのとき、卒然として、さっき見た「菊畑」の場面を思い出した。 「菊畑」の鬼一法眼は、下郎に化けて入りこんだ、虎蔵実は牛若丸に兵法の秘書、|六韜三略虎《りくとうさんりゃくとら》の巻を与えるとともに、娘、皆鶴姫と|女《め》|夫《おと》にするのである。  ところで、さっき見た菊人形では鬼一は佐兵衛翁の似顔になっており、牛若丸と皆鶴姫は、それぞれ、佐清と珠世になっていた。してみると、佐兵衛翁はかねてから、佐清と珠世を夫婦にして、それに虎の巻ならぬ、斧、琴、菊の犬神家の相続権を与えるつもりではなかったか。  むろん、菊人形は、猿蔵の作ったものであるから、それがそのまま、佐兵衛翁の遺志を表現しているとは断言できぬ。しかも、あれを作った猿蔵は知能も人並みでない、|迂《う》|愚《ぐ》なるものである。しかし、迂愚なるものの直感は、しばしば常人をしのぐことがある。猿蔵は猿蔵なりに、佐兵衛翁の気持ちを|忖《そん》|度《たく》していたのではあるまいか。あるいは猿蔵の愚直を愛して、佐兵衛翁がひそかに、胸中の計画をもらしたことがあったのかもしれぬ。そこで猿蔵は、ちかごろのもやもやとした、犬神家の空気に抗議するために「菊畑」の狂言に仮託して、あのような人形をつくりあげたのではあるまいか。してみると、これが佐兵衛翁の遺志であったかどうかはしばらく|措《お》くとしても、少なくとも、猿蔵の眼から見れば、珠世の結婚すべき相手は、佐清をおいてほかになく、したがって、虎の巻ならぬ、斧、琴、菊の三種の家宝は、このふたりに与えられるべきなのだろう。  しかし、その佐清は……  その佐清が問題なのだ。その佐清はいまや昔日の佐清ではない。あのたぐいまれな美貌は、いまは、見るかげもなく|毀《き》|損《そん》されて。……  金田一耕助はいつか見た、くちゃくちゃにくずれた、あのいやらしい肉塊を思い出すと、ゾッとするような恐ろしさとともに、なんともいいようのない、|暗《あん》|澹《たん》たる思いにとざされたのである。  しかし、金田一耕助の|瞑《めい》|想《そう》は、いつまでも袋小路をさまよっていることを許されなかった。しばらく言葉をきっていた、珠世がまた、|縷《る》|々《る》として語りはじめたからである。 「その時計は戦争中に、狂ってしまったのでございますが、もうそのころには、それを直してくださる佐清さんは、このお屋敷においでではございませんでした。兵隊にとられて、遠く南方の戦線へ。……」  珠世はそこで、ちょっと声をくもらせたが、すぐ、のどにからまる痰をきると、 「あたしにはその時計をどうしても、時計屋へ出す気にはなれませんでした。それというのがひとつには、その時計、うっかり時計屋へ修繕に出すと、なかの機械をとりかえられてしまうというようなことを、ちょいちょい聞いておりましたので、それをおそれたからでございますが、もうひとつには、その時計を直すのは、佐清さんをおいてほかにないと、いつか、そんなふうに思いこんでおりましたので、たとえわずかのあいだでも、佐清さん以外のひとに、それを渡すのがいやだったのでございます。それですから、時計はずっと狂ったままだったのでございますが、そこへちかごろ佐清さんが復員してこられたので……」  珠世はそこで、ちょっと言いよどんだが、すぐにみずからはげますように、 「これ幸い……と、いってはおかしゅうございますけれど、佐清さんもだいぶ落ち着かれた御様子なので、四、五日まえ、お話にうかがったとき、時計を出して、修繕をお願いしたのでございます」  金田一耕助は急に興味を催した。興味をおぼえたときのかれのくせで、にわかにバリバリ、もじゃもじゃ頭をかき出した。  耕助にはまだ、珠世がいおうとするところが、よくのみこめていない。珠世の胸中に、いったいどのような考えが宿っているのか、それもわかっていないのである。しかし、なにかしら、痛切にかれの心を刺激するものがあって、耕助は夢中でバリバリ、もじゃもじゃ頭をかきつづけた。 「そ、そ、それで、す、す、佐清君は、そ、そ、その時計を直してくれましたか」  珠世はゆっくり首を左右にふると、 「いいえ、佐清さんはその時計を手にとって、しばらくごらんになっていましたが、いまは気が向かないからそのうちにとおっしゃって、時計はあたしにかえしてくださいました」  そこまでいうと、珠世はピタリと口をつぐんでしまった。まだあとがあるかと思って、署長と金田一耕助は息をのんで、珠世の顔を見つめていたが、珠世は湖水のほうを向いたきり、そのくちびるは容易にひらきそうに見えなかった。  署長は困惑したように、小指で|小《こ》|鬢《びん》をかきながら、 「なるほど。……ところでそのお話と、昨夜の話と、いったい、どんな関係があるんですか」  珠世はしかし、それには答えず、突然、別のことを話しはじめた。 「昨夜、このお屋敷でどんなことがあったか、おふたりともご存じでしょう。佐武さんと、佐智さんが、那須神社から持ってかえった、佐清さんの……奉納手型を証拠にして佐清さんの……なんといいましょうか、正体……」  珠世はそこで、ちょっと肩をふるわせると、 「いやな言葉ですけれど、そうですわね。その正体をたしかめようというので、ひと騒動ございました。松子|小《お》|母《ば》さまはどういうわけか、佐清さんに手型をおさせることを頑強におこばみになりました。そこで、せっかくの佐武さんや佐智さんの試みも、うやむやになってしまいましたが、そのとき、あたしふと思いついたのでございます。このあいだ、佐清さんのところへ、時計の修繕をお願いにあがって、断わられたことはいまもお話ししましたけれど、そのとき、自分の部屋へかえって何気なく時計のふたをひらいてみると、その裏側にくっきりと佐清さんの右の|母《ぼ》|指《し》|紋《もん》がついていたことを」  金田一耕助は、突然、雷にうたれたように、ピリリと体をふるわせた。  ああ、これなのだ、さっきから痛切に、かれの心を刺激していたもの。——すなわち、それがこれなのだ。  金田一耕助は、またもやバリバリ、ガリガリと、めったやたらに、頭の上の雀の巣を、五本の指でかきまわしはじめる。  橘署長はあきれたように、しばらくその様子を見守っていたが、やがて珠世のほうへ向き直ると、 「しかし、それが佐清君の指紋だと、どうしてわかりましたか」  ああ、愚問愚問! そんなことはわかりきったことではないか。珠世は偶然、そこに佐清の指紋がおされ、偶然、彼女がそれを発見したごとく語っているが、おそらくそれは事実ではあるまい。彼女はきっとはじめからそのつもりで、佐清を|罠《わな》におとしたにちがいない。彼女ははじめから時計のどこかに、佐清の指紋をとるつもりだったにちがいないのだ。  耕助の心を痛切に刺激するのはすなわちそれ——珠世がいかに賢であり、かつまた同時に、いかに|狡《こう》|猾《かつ》な女性であるかということである。 「それは……たぶんまちがいないと思います。佐清さんのところへ持っていくまえに、あたしは時計に、すっかり|拭《ぬぐ》いをかけておきましたし、それに、その時計に手をふれたのは、あたしと佐清さん以外になかったのに、その指紋はあたしのではありませんでしたから……」  そうら、やっぱりそのとおりではないか。珠世ははじめからそのつもりで、時計に拭いをかけておいたのだ。それにしても、時計のふたの裏側とは、なんといううまい思いつきだろう。指紋を保存するためには、これほど格好な場所はない。  署長もやっと納得したらしく、 「なるほど、それで……?」 「はあ、それで……」  と、珠世はさかんに口ごもりながら、 「昨夜の、権幕では、当分佐清さんの手型をとろうなどということは、とても望めそうにございません。と、いってこのまま捨てておいては、佐武さんや佐智さん、それからあのひとたちの御両親の疑いは、いよいよ、深くなるばかりです。そこで、ふと思いついたのが時計についた佐清さんの母指紋、少し差し出がましいようには思いましたけれど、こんなこと、一刻も早くハッキリさせておいたほうがよいと思ったものですから、佐武さんに時計の指紋と、巻き物の手型とを、くらべてもらったらと思いまして……」 「なるほど、それで、その話をするために、佐武君をここへ呼び出したわけですね」 「はあ」 「それが昨夜の十一時……?」 「あたしが部屋を出たのが、かっきり十一時でした。こんなこと、猿蔵に知れますと、また、ついてくるというのにきまってます。それでは困りますので、いったん寝室へ入って、十一時になるのを待って、こっそり抜け出してきたのでございます」 「ああ、ちょっと……」  そのとき横から、金田一耕助がはじめて言葉をはさんだ。 「そのときのことを、もう少し詳しく話していただけませんか。あなたがお部屋を出られたのが、かっきり十一時とすると、ここへ来られたのは、十一時二、三分過ぎということになりますね。そのとき、佐武君は来ていましたか」 「はあ、来ていました。そこのはしに立って、湖水を見ながら、たばこをすっていたようです」 「そのとき……あなたがここへあがってくるとき、あたりにだれかいませんでしたか」 「さあ。……気がつきませんでした。なにしろ昨夜はすっかりくもって、真っ暗でしたから、だれかいたとしても気がつかなかったろうと思います」 「なるほど、それであなたは佐武君に時計の話をしたんですね」 「はあ」 「そしてその時計は?」 「佐武さんにお渡ししました。佐武さんはたいそう喜んで、さっそくあした、古館さんに巻き物を持ってきてもらって、くらべてみるといっていました」 「佐武君はその時計をどうしましたか」 「チョッキのポケットに入れたようです」  佐武の死体の、首から下が見つからない現在、時計がまだ、チョッキのポケットにあるかどうかは不明である。 「それで……その話をするのに、だいたいどのくらい時間がかかりましたか」 「五分とはかからなかったと思います。あたし、こんなところでいつまでも、佐武さんとふたりきりでいるのいやだったものですから、できるだけ早く、話を切り上げるようにしたのです」 「なるほど、十一時七、八分過ぎには別れたわけですね。ここを出たのは、どちらがさきでしたか」 「あたしがさきに出ました」 「すると、佐武君ひとりここに残っていたわけですね。そのとき、佐武君はどうしていましたか」  さあそれが……珠世の頬には、急に血の気がのぼってきた。しばらく彼女は、ハンケチをもみくちゃにしながら、きっと前方を見すえていたが、急におこったように、首を強く左右にふると、 「佐武さんは、あたしに非常に失礼なふるまいをしました。あたしが別れようとすると、にわかにおどりかかって……そのブローチがとんだのは、そのときのことだろうと思います。あのとき、猿蔵が来てくれなかったらあたし、どんな恥ずかしい目にあわされたか知れません」  署長と金田一耕助は、思わず顔を見合わせた。 「すると、猿蔵君もここへ来たのですか」 「そうです。あたしはあれにかくれて抜け出したつもりでしたが、やっぱり|嗅《か》ぎつけて、あとをつけてきたのです。でも、あれが来てくれてよかったと思います。でなかったら……」 「猿蔵君は佐武君をどうしたのですか」 「どうしたのか、あたしも詳しいことは存じません。なにぶんにも、そのとき、あたし佐武さんに抱きすくめられて夢中になってもがいていたものですから、……それが、だしぬけに佐武さんがあっと叫んで、そこへ倒れたので……そうです、その椅子が倒れたのもそのときのことでした。佐武さんは椅子もろとも、床の上にひっくりかえったのです。そこでひょいと見ると、そこに猿蔵が立っていたのです。それで、あたし無我夢中で、猿蔵にたすけられて、ここを出ていったのです。そのとき、佐武さんはまだ、床の上に膝をついたままなにやら口ぎたなくののしっていたようでした」 「なるほど、するとそのあとへ、犯人がやってきて、佐武君を殺し、首を斬り落としたというわけですね。あなたはここを出ていくとき、だれかあたりにいるのに気がつきませんでしたか」 「いいえ、気がつきませんでした。さっきもいったとおり、あたりは真っ暗でしたし、それにあたし、すっかり気持ちが動転していたものですから……」  珠世の話はだいたいこれで終わりだった。 「いや、ありがとうございました。わざわざお呼びたてして……」  署長の言葉に、 「いいえ」  と、答えて珠世は立ち上がったが、そのとき金田一耕助が横から、 「ああ、ちょっと。……」  と、呼びとめると、 「もうひとつ、……もうひとつだけ、お尋ねしたいことがあるのですが、あなたはどういうふうにお考えですか。あの、仮面をかぶった人物について……あれを、真実の佐清さんだと思いますか、それとも……」  そのとたん、珠世の頬からは、さっと血の気がひいていった。彼女はしばらく耕助の顔を、穴のあくほど見つめていたが、やがて、抑揚のない声でこういった。 「むろん、あたしはあのかたを、佐清さんだと信じています。そうですとも、佐武さんや佐智さんの疑いは、あまり突飛でバカげています」  だが、それにもかかわらず、珠世はあの男の指紋をとるようなまねをしているのだ。 「いや、ありがとうございました。それでは……」  珠世はかるく目礼すると、展望台からおりていったが、それとほとんど入れちがいにあがってきたのは古館弁護士であった。 「ああ、まだ、こちらにおいででしたか。実は、松子夫人が皆さんに来ていただきたいといっているのですが」 「なにか特別に用事でも……?」 「はあ」  古館弁護士はちょっととまどいしたような表情で、 「例の一件のことなんですがね。ほら、あの手型……それについて、皆さんの眼のまえで佐清君に手型をおさせたいといっているんです」     第四章 捨て小舟  さっきから吹きはじめた風は、いよいよ嵐の|相《そう》|貌《ぼう》をあらわして、湖水の上を、真っ黒な風と雨とがものに狂ったようにたたきつけている。  山国の嵐には、一種特有な無気味さがある。雲がひくく垂れさがって、それだけでも、ひとを威圧する感じだのに、湖水のざわめきが、また尋常ではなかった。どすぐろく濁った水が、波立ち、泡立ち、もみあうところは海とはまたちがったものすごさである。もしひとが、嵐の湖水をのぞいたら、そこに女の黒髪のようにもつれあい、からみあい、ひしめきあっている|藻《も》|草《ぐさ》の巨大な群落を発見してその異様な無気味さに|慄《りつ》|然《ぜん》とせずにはいられないだろう。何鳥か一羽、嵐に吹かれて矢のように、くらい湖水の上を、斜めにつっきっていく。まるでなにかの魂のように。——  さて、こういう嵐に取りかこまれた、犬神家の奥座敷には、いま息づまるような緊張の気がみなぎっている。例の十二畳の座敷である。  佐兵衛翁の写真のまえに集まった、犬神家の一族のあいだには、そのとき、外の嵐にもおとらない、はげしい内心の|葛《かっ》|藤《とう》が無気味な静けさを保ちつつ、しのぎを削っているのである。  正面には仮面の佐清と松子夫人、そのまえには例の巻き物と、それから別に、一枚の白紙と朱墨の硯と一本の筆。  殺された佐武のおふくろの竹子夫人は、眼を真っ赤に泣きはらし、気落ちしたように元気がなかったが、それでもときおり、松子夫人に投げる視線には、ただならぬ殺気がこもっていた。佐智はおびえたような眼の色をして、しきりに|爪《つめ》をかんでいる。  金田一耕助は、順繰りに一族のひとびとの顔を見ていたが、かれがいちばん興味をもって見守ったのは、珠世の顔色である。しかし、さすがの耕助にも、そのときの珠世の気持ちだけはわからなかった。  彼女は、ただ青ざめて、冷たく美しい。珠世はみずから佐清の指紋をとったくらいだから、この仮面の人物に対してふかい疑いを抱いているはずである。その佐清が、みずから進んで手型をおそうといい出したのだから内心動揺しているにちがいない。それにもかかわらず、珠世はただ冷然と、美しいばかりである。  そこへ、ひと眼で警察のものと知れる人物が入ってきて、一同に目礼すると、署長のとなりへ来て座った。橘署長がよびよせた鑑識課のもので、名前を藤崎という。 「では……」  署長がうながすようにつぶやくと、松子夫人はうなずいて、 「それでは、これから、佐清に手型をおさせることにいたしましょう。しかし、そのまえに、ちょっと皆さんに聞いていただきたいことがございまして……」  松子夫人はかるく空咳をすると、 「署長さんも、たぶんお聞きおよびでございましょうが、実は昨夜もこの座敷で、これと同じような場面がございました。佐武さんと佐智さんが詰めよって、無理無体に、佐清に手型をおさせようとしたのでございます。わたくし、そのとき、キッパリとそれをお断わりしました。なぜ、お断わりしたかといいますと、それはおふたりの態度が、あまり無礼だったからでございます。はじめから、この佐清を罪人扱いにして……、それがくやしかったものですから、こんりんざい佐清に手型をおさせるような、不見識なまねはいたすまいと思っていたのでございます。しかし、いまはもう、事態がすっかり変わってまいりました。佐武さんが、あのような恐ろしいことになって、しかも……」  と、松子夫人はそこで毒々しい視線を、妹の竹子のほうに投げると、 「それがまるで、わたしと佐清の仕業のように、このひとたちは思いこんでいるのでございます。いいえ、口に出していわなくとも、顔色を見ればよくわかります。しかしよくよく考えてみれば、それも無理ではないかもしれません。わたしどものほうにもたしかに落ち度がございました。昨夜、あんなに頑強に手型をおすのをこばんだこと——そのために、なにかしら、佐清にうしろぐらいところがありはしないか。そして、そのために、佐武さんを殺したのではないか。……そんなふうに疑われたとしたら、これはたしかにわたくしどもの落ち度でございました。そのことをわたくし、今朝から反省しはじめました。これは、いつまでも、意地を張っている場合ではない。……と、そんなふうに考えたものですから、署長さんにもお立ち会いを願って、皆さんの眼のまえで、佐清に手型をおさせようと思い立ったのでございます。皆さん、これでわたくしの気持ちは、よくおわかりくだすったでしょうね」  松子夫人の長広舌はそこで終わった。夫人はそこで一同の顔を見回したが、だれも声に出して、それに返事をするものはなかった。橘署長がうなずいたきりである。 「では、佐清……」  仮面の佐清が右手を出した。さすがに興奮しているのか、出した|掌《て》がふるえている。松子夫人はどっぷり筆に、朱墨をふくませると、それを掌に塗ってやる。掌が真っ赤に塗りあげられると、 「さあ、その紙へ……」  佐清は五本の指を、八つ手の葉のようにひろげると、それでべったり白紙の上に押しつけた。松子夫人はしっかりその手をおさえながら、毒々しい眼で一同を見回し、 「さあ、皆さん、よくごらんくださいまし、佐清は手型をおしましたよ。なんのペテンも、いかさまもありませんよ。署長さん、あなた証人になってくださいますわね」 「大丈夫ですよ。奥さん、さあ、もういいでしょう」  佐清が手をはなすと、署長が立っていって、その手型を取りあげた。 「ところで、巻き物というのは……?」 「ああ、それはここに……」  古館弁護士が巻き物を出してわたすと、 「藤崎君、それじゃこれをきみにわたしておこう。どのくらいあれば、ハッキリしたことがわかるね」 「そうですね。科学的に正確な報告書を作るのには、相当ひまがかかりますが、このふたつの手型が同じものか、ちがっているかというだけなら、一時間もあればお知らせすることができると思います」 「そう、それじゃやってくれたまえ。ここで皆さんにいっておきますが、この藤崎君というのは、指紋については権威なんです。こういう田舎におりますが、その点、信用してもらってよろしい。では、藤崎君。頼む」 「承知しました」  藤崎がふたつの手型を持って立ちあがると、 「ああ、ちょっと」  と、松子夫人が呼びとめて、 「一時間ですね」 「ええ、一時間したら、ここへ御報告にあがります」 「そうですか。それでは皆さん、一時間たったらもう一度、この座敷へお集まりを願いましょう。署長さん、古館さん、それから金田一さん。向こうに食事の用意をさせておきましたから。では、佐清……」  松子夫人は、仮面の佐清の手をとって立ちあがった。  そのあとから一同、思い思いの顔色で、それぞれ座敷を出ていった。署長はほっとしたような顔色で、 「さあ、これでこのほうはすんだと。緊張したせいか、少し腹がへったよ。古館さん、金田一君、遠慮なしにごちそうになろうじゃないか」  女中の案内で、別室へさがって、食事をすませたところへ、ズブぬれになった刑事がふたり、あわただしい足どりでかえってきた。さっきボートをさがしにいったふたりである。 「署長さん、ちょっと……」 「やあ御苦労御苦労、腹がへったろう。用意ができているから、きみたちもごちそうになりたまえ」 「はあ、いただきますが、そのまえにちょっと見ていただきたいものがありまして。……」  刑事の顔色からすると、なにごとかを発見したらしい。 「ああ、そうか、よしよし。金田一さん、あんたもどうぞ」  嵐はいよいよ勢いをまして、ものすごい雨が横なぐりに降っている。そのなかを、傘をかしげてついていくと、刑事が案内していったのは、例の水門口である。見るとそこに綱でつないだボートが二|艘《そう》、木の葉のように波にもまれてうかんでいる。あとのボートには大きな帆布がかけてあった。 「ああ、ボートを見つけたんだね」 「はあ、下那須の|観音岬《かんのんみさき》のそばに、乗りすててあったのを見つけてひいてきたんです。ちょうどいいあんばいでした。もう少し発見がおくれたら、この雨で、大切な証拠が流れてしまうところでした」  刑事のひとりがまえのボートに乗りうつり、綱をひいてあとのボートをたぐり寄せると、かけてあった帆布をとりのけたが、そのとたん、署長と金田一耕助は、思わず大きく眼を見はったのである。  ボートのなかは、恐ろしい血だまりなのである。そこら一面べたべたとどすぐろい血がこびりついて、底のほうには無気味に光る液体が、一種の重量感をもって、ずっしりとたまっている。  署長と金田一耕助は、しばらく息をのんで、この恐ろしい液体を見つめていたが、やがて署長が、ギゴチない空咳をしながら、耕助のほうをふりかえった。 「金田一さん、これはあなたの負けでしたな。犯人はやっぱりこのボートで、首無し死体を運び出したのですよ」  耕助はまだ、夢を追うような眼つきで、ぼんやりと雨に打たれる|血《ち》|糊《のり》を見つめながら、 「そうですね。こんなたしかな証拠があっちゃ、これはぼくの負けですな。しかし、署長さん」  耕助は急に熱っぽい眼つきになって、 「犯人はなぜ、そんなまねをしなきゃならなかったんでしょう。ああして首を麗々しく菊人形の上にかざっておきながら、胴のほうをなぜ、かくさなければならなかったんでしょう。そいつはずいぶん、危険な話だと思うんだが。……」 「それはわたしにもわからない。しかし、こうしてボートで運び出したことがわかった以上、こりゃどうしても湖水のなかをさらえてみなきゃわからない。きみ、きみ、御苦労だが食事がすんだら、さっそくその準備をしてくれたまえ」 「は、承知しました。ところで署長さん、ちょっと妙な聞きこみがあったんですがね」 「妙な聞きこみ?」 「はあ、それについて沢井君が、証人をつれてくることになっているんですが……ああ、そこへ来ましたよ」  降りしきる雨のなかを、刑事につれられてやってきたのは、四十前後のめくら|縞《じま》の着物に、紺の前垂れといういでたちの男であった。刑事の紹介によるとその男は、下那須で|柏屋《かしわや》という旅館——というより|旅《はた》|籠《ご》|屋《や》といったほうがふさわしい、低級な宿を経営している人物で、名前を|志《し》|摩《ま》久平という。  那須市はいまでこそ市になっているが、十年ほどまえは、上那須と下那須とにわかれていて、犬神家のあるのは上那須のはずれだが、そこから半里ばかり家並みがとぎれて、その向こうに、下那須の町が湖沿いにひろがっているのである。  さて、柏屋の亭主、志摩久平が語るところによると、 「さっきも刑事さんにお話ししたんですが、実は昨夜、わたしどものほうに、妙な客がありまして……」  その客はあきらかに復員者であった。軍隊服を着て、兵隊|靴《ぐつ》をはき、肩にでれんと|雑《ざつ》|嚢《のう》をかけていた。そこまでは別に変わったところもなかったが、ただ妙なことにはその男、|眉《まゆ》もかくれんばかりに戦闘帽をまぶかにかぶり、襟巻きをふかぶかと、鼻の上まで巻いているので、顔のうちで見える部分といっては、ふたつの眼だけなのである。  しかし、そのときは、亭主も女中も、別にふかくも怪しまず、求められるままに一室を提供すると、晩の食事をはこんだ。ただ、食事をはこんでいった女中が、帳場へかえってきて報告するのに、 「旦那、どうもあの客は妙ですよ。部屋へ入っても襟巻きをとらないで、お給仕をしようというと、あっちへ行っててくれというんです。顔を見られたくないらしいんですよ」  女中の話に、かるい不安をおぼえた亭主の久平が、宿帳を持っていくと、食事を終わったその男は、またきちんと帽子をかぶり、襟巻きをふかぶかと顔に巻いていた。しかしそのほかに別にかわったところもなく、亭主が宿帳を出すと、 「きみ、書いてくれたまえ」  と、口述したのが、 「これなんですがね」  と、亭主の出してみせた宿帳には、 [#ここから2字下げ] 東京都|麹町《こうじまち》区三番町二十一番地、無職、山田三平、三十歳 [#ここで字下げ終わり]  と書いてあった。 「沢井君、この住所氏名、控えておいたろうね」 「はあ、控えておきました」 「さっそく東京のほうへ照会するんだね。ほんとかどうか怪しいもんだが……で? 話のつづきをしてくれたまえ」  署長にうながされて、 「はあ、いい忘れましたが、その客が来たのは八時ごろのことでございますが、それが十時ごろになって、この近所に知り合いがあるから、ちょっと行ってくるといって出かけていきました。むろんそのときも、帽子と襟巻きで顔はすっかりかくしておりました。それから二時間ほどたって、ええ、十二時ごろのことでしたろう。そろそろ大戸をしめようかと思っているところへ、その客がかえって来たんでございますが、いまになって考えてみるとなんとなくあわてていたようでしたね。しかし、そのときは、別にふかく気にとめたわけでもなく……」 「ああ、ちょっと待って」  と、言葉をはさんだのは金田一耕助。 「そのときもやっぱり顔をかくして……?」 「ええ、もちろんでございますとも、結局、わたくしどもは一度もその客の顔を見なかったわけで……それというのが今朝早く、五時ごろのことでしたろう。急に出発するからといって、宿を出ていったのでございます。いえお勘定のほうは、昨夜いただいておりますが、なんにしても妙な客だ。なにかあるにちがいないと、うちのものとも話しているところへ、その客の泊まっていった部屋を掃除にいった女中が、こんなものを見つけてまいりまして……」  と、亭主がひろげてみせたのは、一本の日本手ぬぐい。それを見たとたん、署長も金田一耕助も、思わず大きく眼をみはったのである。  復員援護、博多友愛会——と、染め出してあるところを見ると、あきらかにそれは、博多の復員援護局で、復員者にわたされたものにちがいないが、その手ぬぐいにはべったりと、ドス黒い血の跡が……あきらかに、血に染まった手をふいたものにちがいない。  金田一耕助と橘署長は、思わず顔を見合わせた。  そのとき、ふたりの頭脳にひらめいたのは、最近に博多へ復員してきた、仮面の佐清のことである。しかしその佐清は昨夜の八時から十時ごろまで、奥の十二畳の座敷のなかで、犬神家の一族に、とりかこまれていたはずではないか。      疑問のX  柏屋の亭主、志摩久平の証言は、|俄《が》|然《ぜん》、犬神家の最初の惨劇に、大きななぞを投げかけたのだが、いまその証言の内容を、もう一度ここで要約してみよう。  昨夜、犬神家から半里ほどはなれた下那須のはたご屋、柏屋へやってきて、一夜の宿を求めた復員者風の男。——いまかりにその男をXとすると。……  Xが柏屋へやってきたのは八時ごろのことである。  Xはだれにも絶対に顔を見せなかった。  Xが名乗るところによると、名前は山田三平、住居は東京都麹町区三番町二十一番地、職業は無職。  Xは十時ごろ、この近所に知り合いがあるといって、宿を出た。  Xが柏屋へかえってきたのは、十二時前後のことだったが、そのときかれの様子には、なんとなく、あわてふためいているようなところがあった。  Xは今朝五時ごろ、急に用事を思い出したといって、宿を早立ちした。  Xの泊まっていった座敷から、血染めの手ぬぐいが発見されたが、その手ぬぐいには、「復員援護、博多友愛会」と、染め出してあった。  ——と、いうのが、Xなる人物の、昨夜から今朝へかけての行動のあらましだが、これを昨夜、犬神家で起こった殺人事件と照らし合わせてみると、そこにいろいろ、興味ふかい一致点を見いだすことができるのである。  まず第一に、佐武の殺された時刻だが珠世の証言によると、それはだいたい十一時十分以後のこととみてよいようである。したがって、十時ごろ、下那須の柏屋を出たXはそのころまでには十分、犬神家へ来ていることができたはずである。  それから第二はあのボートだ。あの血まみれボートが発見されたのは、下那須の観音岬のほとりだということだが、そこから柏屋までは時間にして、五分とはかからぬ距離なのである。したがって、いまかりに、だれかが十一時半ごろ、佐武の首無し死体をボートにつんで、ここから|漕《こ》ぎ出し、途中で死体を捨てるために、いったん沖へ出ていき、それから観音岬へむかったとしても、十二時ごろまでに柏屋へ、たどりつく余裕は十分あるとみられるのだ。つまり、疑問のXの行動と、昨夜の殺人事件とは、時間的にも一致するところが多いのである。 「金田一さん、こいつは妙なことになってきましたな、そうすると、そいつは佐武を殺しに来たというわけかな」 「署長さん、そう断定してしまうのは、まだ早いでしょうが……」  金田一耕助は、なにかしら、深いところをのぞくような眼つきをしながら、 「しかし、そいつが佐武君を殺しに来たかどうかは別として、つぎのことだけはたしかでしょうね。つまり、佐武君の首無し死体をボートにつんで、ここから漕ぎ出したらしいということは。……そして、ぼくはそんなところに、なんともいえぬ深い興味をおぼえるんですがね」 「と、いうのは?」  橘署長はさぐるような眼で耕助を見る。 「署長さん、この事件で首から下の胴をかくさねばならぬという理由は、どうしても考えられない。……と、いうことを、さっきからぼくは、何度も力説しましたね。なにしろああして生首のほうは、麗々しく菊人形の首とすげかえてあるんですから、胴のほうをかくしたところで無意味じゃありませんか。ところが、その無意味なことを、しかも、非常な危険をおかしてやっている。なぜだろう。なぜ、そんな必要があったのだろう。……さっきからぼくはそのことを考えつづけていたんですが、いま、柏屋の亭主の話をきいているうちに、やっとその理由が、わかるような気がしてきたんです」 「その理由というのは……?」 「署長さん、柏屋の亭主はなぜ、Xなる人物のことをこうも速やかにとどけて出たと思います? 血染めの手ぬぐいという、れっきとした遺留品があったからじゃありませんか。あの手ぬぐいさえなければ、Xなる人物の行動に、多少、怪しい節があったとしても、こう速くとどけて出やぁしなかったと思いますよ。あの連中ときたら、とかく係りあいになることをなによりも恐れるんですからね。してみるとXなる人物は、宿の亭主に一刻も早く、警察へとどけて出ろといわぬばかりに、血染めの手ぬぐいをおいていった……としか思えないじゃありませんか。まさかあれほど重大な証拠物件を、うっかり忘れていったなんてことは考えられませんからね」 「わかりました。金田一さん、あんたの言いたいのは、Xなる人物は、わざと自分に注意を集めるように行動をしているということなんでしょう」 「そうです、そうです。署長さん、そして、同じことが、あの血まみれボートについてもいえるんじゃないでしょうか。運び出さなくてもよい首無し死体を、わざとボートで運び出したり、血にそまったそのボートを、柏屋の近くの岬に乗り捨てたり……」  橘署長はふいに大きく眼を見はった。そして耕助の顔を穴のあくほど凝視した。署長にもようやく、金田一耕助のいおうとするところがわかってきたのである。 「金田一さん、するとあんたのお考えでは、その男は、だれかをかばうために、あんなことをしている……と、いうんですか」  金田一耕助は無言のままうなずいた。 「だれです。いったい、だれをかばっているんです」  橘署長は意気込んだ。耕助はしかし、首をかるく左右にふりながら、 「そこまではぼくにもわかりませんよ。しかし、かばわれているのがだれにしろ、この家に住んでる人物にちがいないことだけはたしかでしょうね。なぜといって、疑問のXの行動は、すべて注意を、外に向けようとするところにあるんですからね。犯人は外からやってきたと、そう思わせるために行動しているんですからね。ということは、逆に、犯人はこの家のなかにいるということになるんじゃないでしょうかね」 「つまり疑問のXは、単なる共犯者にすぎない。そして、真犯人は別にこの家のなかにいる……と、いうんですね」 「そうです。そうです」 「ところで、いったい、疑問のXとは何者なんだ。犬神家の一族と、いったい、どういう関係があるというんだ」  金田一耕助はゆるく頭髪をかきまわしながら、 「署長さん、そ、それですよ、問題は。……疑問のXとはなにものか。……それがわかれば犯人もわかります。ところで署長さん」  耕助は署長のほうへ向きなおって、 「ぼくがいまなにを考えているかわかりますか」  橘署長は妙な顔をして金田一耕助の顔を見る。耕助は皮肉な微笑をうかべながら、 「昨夜、この家の奥座敷では、佐清君の手型をとろうとして、一族全部集まっていましたね。結局、手型はとれなかったが、すったもんだの押し問答が、八時ごろから十時ころまでつづいたということです。ところで一方疑問のXですが、あいつが柏屋へ現われたのは、八時ごろのことだ、それから十時ごろまで、ちゃんと宿にいたということになってますね。このことは、ぼくにとっちゃ、非常にありがたいことなんですよ。第一、手数がはぶけますからね。もし、それでなかったら、ぼくは犬神家の一族の、ひとりひとりについて、アリバイ調べをやらなければならなかったわけです。疑問のXとなって、柏屋へおもむいたものはないかと。……」  橘署長はまた大きく眼を見はった。 「金田一さん、それじゃあんたは、疑問のXも、やっぱりこの家のものだとおっしゃるんですか」 「いや、そう考えたいところなんですが、そうじゃなかったということを、いま申し上げたんですよ。しかし、ねえ、署長さん、疑問のXはなんだって、ああもがんこに顔をかくしていたんです。Xが柏屋へ現われたころにはまだ事件は起こっていなかったんですよ。それにもかかわらずXは、なぜあんなに厳重に、顔を隠していたんでしょう。いったい、人間が顔を見られたくないというのには、ふたつの場合が考えられる。ひとつは顔に醜い傷かなんかがある場合、……つまり、佐清君のような場合ですね。それから、もうひとつは、なにかうしろ暗いところがあって、しかも自分の顔が知られているという自覚のある場合……」 「なるほど、犬神家の一族なら、みんなこのへんでは顔が売れてるから。……」  橘署長は静かに爪をかみはじめた。この署長は、ひどく考えこむときには、爪をかむくせがあるらしい。 「金田一さん、すると、あなたの考えによるとこうなんですね。この家のなかで、だれかとだれかとが共謀しており、その共犯者のひとりが、昨夜、疑問のXとなって下那須の柏屋へ現われた。そして、十一時半ごろ、ここへやって来て、佐武君の首無し死体をボートにつんで運び出し、死体を湖水へ沈め、ボートは観音岬へつけ、自分は柏屋へかえって寝た。つまりそれは、犯人は外からやってきたということを示すためであった。そして、血に染まった証拠の手ぬぐいを柏屋へ残しておいて、今朝早くそこを立ち、ひそかにこの家へ舞いもどり、何食わぬ顔ですましている。……と、こういうふうに考えたいんですね」 「そうです、そうです。しかし、昨夜の家族会議というやつがあるから。……みんなアリバイがあるわけです」  署長の顔が急にけわしくなった。 「そうでしょうか。みんな果たして、アリバイを持っているのでしょうか」  金田一耕助は驚いたように署長の顔を見直した。 「署長さん、それじゃだれか、アリバイのないやつがありますか」 「あります。いや、よく調査してみなきゃわかりませんが、おそらく、アリバイを立証することは、むずかしいだろうと思われるような人物があります」 「だれです、署長さん、それはだれです」 「猿蔵!」  金田一耕助は、だしぬけに脳天から、鉛の|楔《くさび》でもぶちこまれたような大きなショックを感じた。一瞬かれは手足がふるえる。全身が氷のように冷えていくのをおぼえた。しばらくかれは、相手をにらみ殺そうとでもするかのように、署長の顔を見つめていたが、やがて低い、ほとんど聞きとれぬくらいの声でささやいた。 「署長さん、しかし、珠世さんの話によると、佐武君が珠世さんに無礼を働こうとしたとき、猿蔵がとび出してきて……」  言下に署長がキッパリいった。 「珠世の話はあてにはならん」  そういってから、しかし、さすがに言いすぎたのを悔やむかのように、署長はギゴチなく|空《から》|咳《せき》をしながら、 「むろん、これは仮説ですよ。理論的に|煎《せん》じつめていけば、こんな仮説も成り立ちうるということをいってるんですよ。で、珠世さんと猿蔵とが共謀しているとすれば、珠世さんの話があてにならんことはいうまでもないでしょう。いや、ひょっとすると、あのひとの話はほんとうかもしれない。しかし、十時ごろに下那須へ出れば、十一時十分ごろには、ここへ帰ってこれますからね。とにかく、あの男は家族会議には出なかったにちがいない。しかし、この家全体が、昨夜は家族会議に気をとられていたのだから、だれもあの男のことなんか、気にとめていなかったにちがいない。むろん、念のために部下によく調査させますが、あの男が昨夜どこにいたか、ハッキリ証明できるものは、おそらくいないだろうと思いますよ。珠世さんをのぞいてはね」  ああ、珠世と猿蔵!  橘署長が疑うのも無理はないのだ。珠世こそ、佐武殺しのもっとも強い動機をもっていると同時に、昨夜はまた絶好のチャンスをも持っていたのだ。  佐武を展望台へ呼び出したのは珠世だった。しかも、その時刻は、十時に下那須の宿を出た疑問のXが、十分間にあう時刻である。ボートのことなら、猿蔵がだれよりも、いちばんよく知っていただろう。  だが、橘署長の疑いをあおるのは、そういう|末梢《まっしょう》的な事実ばかりでなく、もっと大きな、根本的な問題だったのだ。すなわち、珠世という女性自身の問題なのである。彼女ならばこういう計画をたてるだけの|狡《こう》|知《ち》を持っており、しかも、猿蔵という男は、彼女の|命《めい》とあらば、どんなことでもやりかねない盲目的な忠実さを持っているのである。  金田一耕助はあの美しい珠世と、醜い巨人の奇妙な対照を思い出すと、なにかしら、全身に|粟《あわ》|立《だ》つような恐怖をおぼえずにはいられなかった。      琴の師匠  那須湖畔にある犬神家の本邸というのが、非常に複雑な、迷路のような建て方になっているということは、まえにもいっておいたが、松子夫人と佐清は、この迷路の奥の袋小路のような離れに住んでいるのである。  袋小路のような離れ——と、いっても、それはけっして狭いことを意味しているのではない。どうして、どうして、部屋数だって五間もあり、廊下でもって母屋につながっているのだが、それとは別に、ちゃんと玄関までついている。  つまり、この離れの住民は、なにかのことで母屋と気まずくなったとき、廊下を鉄のカーテンで閉ざしてしまうと全然、独立した生活が送れるようになっているのである。しかも|子《こ》|薯《いも》に子薯がつくように、この離れにはまた四畳半と三畳の、茶室風の離れがついており、そこが佐清の居間になっていた。  佐清は復員して、この本邸へ入って以来、ほとんどこの居間を出ることはなかった。来る日も来る日も、かれはこの四畳半に垂れこめて、母の松子夫人と口をきくことすらごくまれにしかないのである。  あの美しいけれど、生気の表情に欠けたゴムの仮面は、いつもほの暗い部屋のすみを凝視しつづけて、いったい、かれがなにを考えているのか、だれにも察しようがないのである。そして、それだけにかれの存在は、なんともいえぬ無気味さとなって、犬神家の一族の上にのしかかっているのであった。  母の松子夫人ですら、この物言わぬゴムの仮面を見るごとに、ゾーッと総毛立つのをおぼえるくらいだ。そうだ、松子夫人ですら、この仮面の男を恐れているのだ。むろん彼女はできるだけ、それをおもてに現わさぬようにつとめているけれど。……  いまも佐清は四畳半の|文机《ふみづくえ》のまえに座って、おもてもふらずにある一点を凝視している。かれの視点のさきには、障子をひらいた丸窓があり、その丸窓越しに、荒れ狂う湖水が見える。  雨は、風は、いよいよ激しさを加えるばかり、湖水の表面は|坩《る》|堝《つぼ》のようにたぎり立っているが、その風雨とたたかいながら、ランチが一艘、モーターボートが二、三艘うかんでいる。おそらく、佐武の首無し死体をさがしているのだろう。  佐清はいつか文机の上に両手をついて、伸びあがるようにして、丸窓から外を見ていたが、そのときだった。|濡《ぬれ》|縁《えん》づたいにゆけるこの離れの母屋から、母の松子夫人の声がきこえた。 「佐清や、窓をお閉めなさい。雨が降りこみますよ」  佐清はそのとたん、ギクッとしたように肩をふるわせた。しかしすぐすなおに、 「はい」  と、答えて、窓のガラス戸を閉めると、がっくり肩を落としたが、その拍子に、なにを見つけたのか、またもやかれの全身は針金のようにピーンと緊張したのである。  佐清の凝視しているのは、文机の表面である。よくふきこまれた机の上に、くっきりと十の指紋が押されている。さっき伸びあがって、窓の外をながめていたときに、何気なくついた両手の指の跡なのである。佐清はなにかしら、それが恐ろしいものででもあるように、しばらく凝視を続けていたが、やがて|袂《たもと》からハンケチを取り出すと、ていねいにそれをふき消した。一度だけでは安心できないのか何度も何度も|拭《ぬぐ》いをかけた。……  佐清がそんなことをしているとき、この離れの母屋にあたる十畳の座敷では、松子夫人が不思議な人物と向かいあっていた。  そのひと、——年齢は松子夫人より上か下か、切り髪にした老婦人で、黒っぽい地味な着物の上に、黒っぽい地味な|被《ひ》|布《ふ》を着ている。そして、バセドー氏病のように、片眼はとび出し、片眼はひっこんでつぶれている。おまけに額に大きな傷があるので、本来ならば非常に険悪な相に見えるべきはずのところ、それがそうは見えないで、上品で、どことなく奥ゆかしく見えるのは、体の奥底からにじみ出る修練と教養の美しさのせいだろう。  このひとは|宮《みや》|川《かわ》|香《こう》|琴《きん》といって、三月に一度か半年に一度東京から来る|生《いく》|田《た》流の琴のお師匠さんなのである。このへんから、伊那へかけて、かなりお弟子を持っており、那須へ来ると、いつも犬神家を根城として、お弟子さんの家をまわって歩くのであった。 「それで、お師匠さんは、いつこちらへお着きになりました」 「昨夜、着いたんでござんすよ。すぐこちらへと思ったんですけれど、少し時刻がおそかったものですから、御迷惑をおかけしてはと思って、那須ホテルへ泊まりましたのでござんすよ」 「まあまあ、そんな御遠慮には及びませぬものを」 「いいえ、奥さまおひとりならよろしいのですけれど、なんですか親戚の方など、おおぜい来ていらっしゃるということを伺ったものですから。……」  香琴師匠は不自由な眼をしわしわさせながら、静かに語る。細い、きれいな声で、落ち着いた語りくちである。 「でも、ホテルへ泊まってようござんした。聞けば昨夜、こちらさんでは、なんだか恐ろしいことがござんしたとやら」 「ええ、お師匠さんもお聞きになりましたか」 「はい、聞きましてござんすよ。ほんに恐ろしいこと。……それでわたし、どうせこちらさん、お取りこみでござんしょうから、このまま伊那へ立ってしまおうかと思ったんですけれど、こちらへ来ていながら、ごあいさつにあがらないのもと思いまして……ほんとにとんだことでござんしたね」 「お師匠さんこそあいにくでございましたわね。でも、せっかくいらしたんだから、おけいこもしていただきたいし、伊那へいらっしゃるにしても、もう少しこちらで様子を見られたら……」 「ええ、まあ、そうしてもよろしゅうござんすけれど……」  そこへこの離れづきの女中が顔を出した。 「あの、奥さま、署長さんと金田一さんが、ちょっとお眼にかかりたいとおっしゃって……」  香琴師匠はそれを聞いて座を立った。 「奥さま、それじゃわたしはこれで失礼いたします。伊那へ立つにしましても、そのまえにもう一度お伺いするなり、お電話するなりいたしますから。……」  署長と金田一耕助が入ってきたのは、香琴師匠といれちがいだった。金田一耕助は香琴師匠の、ちんまりとしたうしろ姿を見ながら、 「妙なお客さんですねえ」 「ええ、あのかたが、わたしの琴のお師匠さんです」 「眼が不自由なんですね」 「ええ、全然見えないというわけでもないのですけれど……署長さん、あの手型の鑑定がついたのですか」  松子夫人は署長のほうへ向き直った。 「いや、それはまだですがね。そのまえに、佐清さんにちょっと見ていただきたいものがありまして……」  松子夫人はさぐるように、二人の顔を見ていたが、やがて佐清の名を呼んだ。呼ばれて佐清はすぐ離れから出てきた。 「ああ、佐清さん、お呼び立てしてすみません。実は見ていただきたいというのはこれなんですがね」  どっぷりと、|血《ち》|糊《のり》を吸った日本手ぬぐいをひろげてみせると、佐清よりも松子夫人のほうが眼を見はった。 「まあ、そんなもの、どこにございましたの」  そこで署長は、簡単に柏屋の亭主の話を語ってきかせると、 「と、いうわけで、ここに博多友愛会と染め出してあるでしょう。それで、佐清さんになにか心当たりはないかと思って……」  佐清は黙って考えていたが、やがて松子夫人のほうへ向き直って、 「お母さん、ぼくが復員してきたとき、博多で支給されたものはどこにありますか」 「ひとまとめにして、押し入れのなかにとってありますよ」  松子夫人は押し入れをひらいて、ふろしき包みをとり出した。ふろしきをとくと、軍隊服や戦闘帽、それから|雑《ざつ》|嚢《のう》などが出てきた。佐清はその雑嚢をひらいて、なかから一筋の日本手ぬぐいを取り出し、 「ぼくのときにはこれでしたが……」  その手ぬぐいには、『復員援護 博多同胞会』と染め出してあった。 「なるほど、するとそのときどきによって、支給品もちがうのかな。しかし、佐清さん、だれかそういう人物に心当たりはありませんか。そいつは山田三平と名乗っており、ところは東京の麹町三番町二十一番地とあるんですがね」 「なんですって?」  突然、横から鋭い叫び声をあげたのは、母の松子夫人であった。 「麹町三番町二十一番地ですって?」 「ええ、そうですよ。奥さん、ご存じですか」 「知るも知らぬもございません。それは東京にあるわたしどもの家の番地ではございませんか」  金田一耕助が、突然、口笛を吹くような、鋭い音を立てたのはそのときだった。ガリガリガリ、ガリガリガリ、むやみやたらに髪の毛をかきまわす。橘署長もキーンと緊張した眼つきになった。 「なるほど、これでいよいよその男が、昨夜の事件に関係があることがはっきりしてきましたね。佐清さん、あなたそういう人物に心当たりはありませんか。戦友かなにかで、復員してきて、訪ねてきそうな男……なにかあなたに恨みでもふくんでいそうな人物……」  佐清はゆっくり仮面の首を左右にふると、 「ありません。それは長いあいだでしたから、だれかに東京の家の番地ぐらい話したことはあるかもしれません。しかし、わざわざこの那須までやってきそうな男は思い当たりません」 「それに署長さま」  とそばから松子夫人が口を出した。 「いま、あなたは、佐清に恨みをふくんでいる人物とおっしゃいましたが、殺されたのは佐清ではなく、佐武でございますよ」 「いやそうでした」  署長は頭をかきながら、 「ところで佐武さんですがね、あのひとは兵隊は……?」 「むろんとられましたよ。でも、あの子は運がよくて、ずっと内地勤務で、終戦時分には、たしか千葉かどこか、あの辺の高射砲隊にいたはずですよ。そのことなら竹子に聞けばもっとよくわかるでしょうけれど」 「そうですね、それじゃあとで聞いてみましょう。ところで、奥さん、もうひとつお尋ねしたいことがあるんですがね」  署長はちらと耕助のほうを見ると、|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に力をこめるように大きく息を吸いこみながら、 「あの猿蔵のことですがね。猿蔵もむろん、兵隊にとられたんでしょうね」 「もちろん、とられましたよ。あの体ですもの」 「それで、終戦のときはどちらに……」 「たしか台湾だったとおぼえています。でも、運がよくて、ずいぶん早く復員してきたんですよ。たしか、終戦の年の十一月でした。でも、猿蔵がなにか……」  署長はそれには答えずに、 「台湾とすると、復員はやはり、博多じゃなかったでしょうかね」 「そうだったかもしれません。よく覚えてはおりませんが」 「ねえ、奥さん」  署長はそこで、言葉の調子を少しかえると、 「昨夜の会議ですがね。あれは親戚の方ばかりだったのでしょうね」 「もちろん、そうですわ。もっとも珠世さんは血がつづいてるわけではありませんけど。まあ、親戚も同じようなものですから。……ほかに古館さんがいましたけれど。……」 「古館君はお役目ですからね。まさか猿蔵がその席に……」 「まあ!」  とんでもないというふうに、松子夫人は眼を見はって、 「あれがそんな席へ出るわけがございません。あれはただの召使、……それもお座敷などへ出さない召使ですもの」 「なるほど、そうでしょうね、いえね、猿蔵が昨夜、どこでなにをしていたか知りたいと思いましてね。まさか奥さんはご存じじゃないでしょうね」 「存じませんわ。網のつくろいでもしていたんじゃないでしょうか。昨日の夕方、琴糸の古いのをくれといって来ましたから」  松子夫人の話によるとこうである。猿蔵は網を打つのが上手である。佐兵衛翁が生きているころは、よくそのお供で、湖水は申すに及ばず、遠く天竜川まで網打ちに出かけたものである。  ところが戦争中には網がだんだん、手に入りにくくなった。網が手に入らないのみならず、破れた網を修理する糸さえ入手困難になった。そのとき猿蔵が思いついたのが琴糸で、古い琴糸を細くほごして、網の修理に使ったところたいへんぐあいがよかったとかで、いまでもそのとおりやっているらしいのである。 「あれでなかなか、手先の器用な男でございましてね。でも猿蔵がなにか……」 「いや、別になんでもないんですがね」  そこへ刑事のひとりがあわただしく入ってきた。佐武の死体が、あがったのである。      珠世沈黙す  佐武の死体が、思いのほか早くあがったのは、嵐のおかげであった。  吹きつのる嵐は、すべての捜査をさまたげたが、その埋め合わせのつもりか、湖底に沈んでいた佐武の死体を、意外に早く、表面へ押し出してくれたのである。  死体があがったと聞いて、耕助と橘署長が水門口へ駆けつけていくと、むらがる刑事や警官をかきわけて、つばの広い防水帽をかぶり、長い防水|外《がい》|套《とう》を着た男がひとり、全身からポタポタと滝のようにしずくを垂らしながらモーターボートからあがってきた。 「やあ、昨日はどうも」  その男からだしぬけに声をかけられて、耕助はびっくりして相手の顔を見直した。鉄ぶちの眼鏡をかけたその顔は、どこかで見たような顔だったが、とっさには思い出せなかった。返事に困ってヘドモドしていると、相手はニヤニヤしながら、 「は、は、は、お見忘れですか。那須神社の神主ですよ」  いわれて耕助はやっと思い出した。なるほど、那須神社の神主、大山泰輔である。 「や、や、こ、こ、これは失礼。あまり姿がかわっていらっしゃるもんですから」 「は、は、は、だれでもそういいますよ。しかし、まさかこの雨のなか、神主姿で道中もできませんからね。戦争中にこんな手をおぼえたんですよ」  大山神主は小わきにかかえたボストンバッグをたたいてみせた。おそらくそのなかに、神主の衣装が入っているのだろう。 「モーターボートでいらしたんですか」 「ええ、そのほうが早いんですよ。この嵐でどうかと思ったんですが、ぬれるのは同じことですからね。思いきって湖水をつっきってくることにしたんですが、いや、おかげで途中で、とんでもないものにぶつかってしまいましたよ」 「はあ、佐武さんの死体……?」 「ええ、そう、わたしが一番に見つけたんですよ。それがあなた、首のない死体なんでしょう。気味の悪いことといったら……」  大山神主は顔をしかめて、犬のように胴ぶるいをした。 「ああ、そう、それは御苦労様でした」 「いやぁ、……ではまたあとで」  大山神主はもう一度、犬のように体をふって、全身のしずくをふりおとすと、ボストンバッグをかかえて行きかけたが、そのあとから金田一耕助がふと呼びとめた。 「ああ、大山さん、ちょっと。……」 「はあ、なにか御用ですか」 「あなたにちょっとお尋ねしたいことがあるのですが、いずれあとで……」 「ああ、そう、どんなことか知りませんがいつでもいいですよ。じゃあ……」  大山神主が行ってしまうと、金田一耕助ははじめて湖水のほうへふりかえった。水門口の外には警察のランチをはじめ、モーターボートが二、三艘、木の葉のようにゆれながらうかんでいる。死体はランチのなかにあるらしく、ものものしい表情をしたお巡りさんが、ランチを出たり入ったりしていた。橘署長の姿もそのなかに見える。  金田一耕助はどうしようかとちょっと迷ったが、かれは格別、死体そのものに興味は持たなかったので、ランチのなかへ入るのは見合わせた。死体の鑑別なら、医者や署長にまかせておけばよいのだ。なにもいやな思いをしてまで、無気味な死体を見ることはない。  しばらく待っていると、やがて署長が汗をふきふきランチから出てきた。 「どうでした」 「いや、どうも。いくら商売だってああいうやつを見せつけられるのは、あんまりうれしくありませんな」  署長は顔をしかめて、ハンケチでしきりに額をこすっている。 「で、佐武君の死体にはちがいないでしょうな」 「もちろん、いずれ遺族のひとにも見てもらわにゃならんが、さいわい楠田君がまえに二、三度、佐武君を診察したことがあるので、まちがいないといってますよ」  楠田というのは町の医者で、警察の嘱託をかねているのである。 「なるほど、それじゃまちがいありませんね。ところで死因はわかりましたか。頭部のほうには格別傷もなかったから……」 「わかりましたよ。背中から胸へかけてただひと突き。ふいをつかれたとしたら、おそらくグーの音も出ずに死んだろうと楠田君はいってますよ」 「それで凶器は?」 「日本刀のたぐいじゃないかというのが楠田君の説なんです。この家には、日本刀がかなりたくさんあるはずなんですよ。佐兵衛翁が一時こってましたからね」 「なるほど、すると日本刀でえぐって殺して、あとで首を|斬《き》り落とした……と、いうことになるんですね。斬り口のぐあいは?」 「どうせ素人細工ですからね。かなり苦労をしたろうと、楠田君はいってますよ」 「なるほど、ところで署長さん」  耕助はそこで急に言葉をつよめると、 「その首無し死体全体の印象ですがね。そこになにか、死体をかくさねばならぬような秘密かなにかがありましたか」  橘署長はそれを聞くと、渋面をつくって|小《こ》|鬢《びん》をかいた。 「いや、それは別に、これといって変わったところもないんでしてね。あれなら別に苦労して、沖まで沈めにいくことはなかったと思うがな」 「チョッキのポケットはさぐってごらんになったでしょうね。ほら、珠世さんが渡したという時計、……」 「むろん、さがしてみましたよ。時計はどこにもありませんでした。犯人が奪っていったものか、湖水のなかへ沈んだのか……しかし、どっちにしても、あの時計をかくすために、死体を沈めに出かけたわけじゃないでしょう。これは金田一さん、あんたのいうとおりかもしれませんね」  署長が考えぶかい眼つきをして、あごをなでているときである。雨のなかを小走りに刑事のひとりが駆けつけてきた。 「署長さん、鑑識の藤崎さんが見えてます。手型の鑑定がついたそうです」 「ああ、そう」  署長はちらと、金田一耕助のほうを見た。なんとなく緊張した眼の色である。金田一耕助も、その眼を見返しながら、ゴクリと生つばをのみこんだ。 「すぐ行く。それじゃね、犬神家の皆さんにも、もう一度さっきの座敷へ集まっていただくように伝えてくれたまえ」 「承知しました」  あとのことをこまごまと、部下に命じておいて、橘署長と金田一耕助が、さっきの座敷へ入っていくと、まだだれも来ていなくて、大山神主がただ一人、神主姿に改まって、泰然と|笏《しゃく》をかまえていた。  二人が入っていくと大山神主は、鉄ぶちの眼鏡のおくで、眼をしわしわとさせながら、 「やあ、さきほどはどうも……なにかこの座敷でおっぱじまるんですか」 「ええ、ちょっと。……でも、あなたはいてもいいですよ。あなたも関係者のひとりなんだから」 「いやだな。いったい、なにがはじまるんです」 「ほら、例の手型のことですよ。お宅から持ってかえった……あの手型と、さっき佐清君がわれわれの面前でおした手型とを、いま比較研究してるんですが、その結果がこれから発表されようというわけです」 「ああ、なるほど」  大山神主はなんとなく、|尻《しり》をもじもじさせながら、ギゴチない|空《から》|咳《せき》をした。金田一耕助はきっとその顔を見つめながら、 「それについてね、大山さん、さっきもいっておいたように、ぼくは一度あなたにお尋ねしてみたいと思っていたんですよ。ねえ、大山さん、あれはあなたの知恵だったんですか。手型を比較すればよいなどといい出したのは……」  大山神主はドキッとしたように、金田一耕助の顔を見た。しかし、すぐその視線をそらしてしまうと、懐中からハンケチを取り出して、あわてて額の汗をぬぐった。金田一耕助はじっとその様子を見守りながら、 「ああ、それじゃやっぱり、だれかあなたにそれを教唆した人物があったんですね。どうもぼくははじめから変だと思っていたんですよ。あなたのようなかた……犯罪捜査や探偵小説にいっこう興味もなさそうなかたが、どうして指紋だの手型だのってことを思いつかれたのかと、不思議に思っていたんですよ。で、いったい、だれなんです。あなたにそれを教唆したのは」 「いや、ああ、別に教唆したってわけじゃないんですがね、一昨日でしたか、わたしどもの神社のほうへ、ある人物がやってきて、こちらに佐清さんの奉納手型があるはずだが、それを見せてもらえないかというんです。私はそんな巻き物のこと、とうの昔に忘れていたんですが、そういわれて思い出した。別にいなむべき筋合いでもないので、巻き物を出してみせたところ、そのひとは黙ってそれを見ていましたが、やがてありがとうございますと礼をいってかえっていったのです。ただ、それだけのことでした。ただ、それだけだったから私はかえって妙に思ったのです。いったい、なんのためにあのひとは、佐清さんの手型を見にきたんだろう……と、そんなことを考えているうちに、はっと、指紋ということに思いいたったのです。そこで昨日、佐武さんや佐智さんにそのことをお知らせしたようなわけで……」  金田一耕助は署長と顔を見合わせた。 「なるほど。するとそのひとは、あなたに暗示をあたえるために、巻き物を見にきたわけですね。ところで、大山さんいったい、だれですか、そのひとというのは……?」  大山神主はちょっと口ごもったが、すぐ思いきったように、 「珠世さんですよ。ご存じのとおりあのひとは、元来、那須神社の出身なんですから、よく遊びに見えるんですよ」  珠世という名をきいた瞬間、金田一耕助と橘署長のあいだには、火花のような視線が走った。  またしても珠世なのだ! いやいや、なにもかもが珠世なのだ!……ああ珠世はいったい、あの美しい顔の下にどのような計画を抱いているのであろうか。……  その珠世はいまも、スフィンクスのようになぞをひめて無表情である。  仮面の佐清と松子夫人をとりまいて、ずらりと居並んだ犬神家のひとびとが、ことごとく大なり小なり興奮しているのに、珠世ばかりは端然として、神々しいばかりに静かである。金田一耕助はその静けさを憎いと思った。その無表情が気に食わなかった。そして、あまりの美しさを|怖《こわ》いと思った。  一座はシーンと静まりかえっている。その緊迫した静けさに、鑑識の藤崎さんも、いくらかのぼせ気味で、ギゴチなく空咳をすると、 「ええ、それでは、研究の結果をここで発表させていただきます。いずれ詳しい報告書は、署長さんのほうへ提出いたしますが、ここではめんどうな専門用語はさけて、ごく簡単に結論だけ申し上げますと……」  藤崎さんは、そこでまた、のどにからまる痰を切るような音をさせながら、 「このふたつの手型は全然、同じものであります。したがって、そこにいらっしゃるかたが、佐清さんにちがいないということは、このふたつの手型がなによりも雄弁に物語っているのであります」  針の落ちる音でも、聞こえるような静けさ——と、いうのは、おそらくこういうときに使う言葉であろう。だれもひとことも口をきかなかった。みんなまるで、藤崎さんの言葉をきかなかったように、ポカンとして、それぞれの視線のさきを見つめている。  しかし、そのとき、金田一耕助は見たのである。珠世がなにか言おうとして、口をひらきかけたのを。……しかしつぎの瞬間、彼女ははたと口をつぐんで眼を閉じた。あとはスフィンクスのように、なぞをひそめて無表情である。  金田一耕助は、そのとき、なんともいえぬいらだたしさが腹の底からムラムラとこみあげてくるのを、どうすることもできなかった。ああ、珠世はなにをいおうとしてやめたのであろうか。     第五章 唐櫃の中  手型くらべは終わった。  あの奇妙な仮面をかぶった人物は、やっぱり佐清にちがいなかったのだ。ひょっとすると、だれか——つまり佐清以外の人物が、佐清に化けて帰ってきたのではないかという、佐武や佐智の疑惑は、単なる空中楼閣にすぎなかったのだ。  だが、それにもかかわらず、なにかしら釈然としない空気が、その場にみなぎっているのはなぜだろう。だれもかれも、奥歯にもののはさまったような顔色をしているのはどういうわけだろう。  ……なるほど、ふたつの手型は同じであったかもしれない。しかし、指紋というものは、絶対に細工ができないものか。もし、指紋に細工ができぬとしても、そこになにかしら、アヤとカラクリがあるのではないか。……  犬神家の一族の、悪意にみちた顔色から、そういう無言の抗議が読みとられるのは不思議はないとしても、妙なことに母の松子夫人でさえが、なんとなく混乱しているように見えるのはどういうわけだろう。  そこにいるひとが佐清さんにちがいない——と、藤崎鑑識課員が断言した刹那、松子夫人の面上を、一種不可解な動揺の色が、さっと走ったのは、いったいどういうわけだろう。……  だが、さすがに松子夫人はしたたか者だった。すぐその動揺をおさえると、例の底意地わるい眼つきで、ジロジロ一座を見回していたが、やがてしんねり強い口調で、 「皆さん、いまのお言葉をお聞きでございましょうね。それについて、御異存のあるかたはございませんか。御異存がございましたら、いまここで、おっしゃっていただきとうございます」  みんな異存があったのだ。しかし、どういうように抗議してよいかわからなかったのだ。一同が無言のままひかえていると、松子夫人はかさねて、おさえつけるように、 「なにもおっしゃらないところをみると、どなたにも御異存はないのですね。つまり、このひとを佐清と、認めてくだすったのですね。署長さま。ありがとうございました。それでは佐清……」  松子夫人のあとから、仮面の佐清も立ち上がる。すこし足もとがふらついているように見えるのは、長いあいだ正座していたので、しびれが切れたためであろうか。  だが、このときだった。金田一耕助はふたたび見たのである。珠世がなにか言おうとして、口をひらきかけたのを。  金田一耕助はあなやとばかり、手に汗握り、珠世の口元を凝視する。だがこのたびも、珠世は途中で口をつぐんで……それっきりうつむいてしまったのである。  松子夫人と佐清は、もう座敷にはいなかった。  珠世はいったい、なにを言おうとしたのか。二度までも口をひらきかけたが、そのときの顔色、意気込みからみて、なにかしら容易ならぬ発言を、しようとしたらしく思われる。それだけに金田一耕助は、彼女のためらいに対して、なんともいえぬもどかしさを感じたが、あとから思えば耕助は、このとき珠世に無理にでも、口をわらすべきだったのだ。なぜといって、そのとき珠世が口をひらいていたならば、犬神家の事件のなぞの、少なくとも半分は解けていたのだから。そして、それより後に起こった犯罪を、未然にふせぐことができたかもしれないのだから。 「いや、それにしても……」  犬神家のひとびとが、三々五々座敷を出ていくと、橘署長はほっとしたようにいった。 「あの仮面のひとの正体が、ハッキリしただけでも一歩前進ですよ。こういう事件では、たまねぎの皮をはぐように、ひとつひとつなぞを片づけていくよりほかに、しようがありませんからね」  それはさておき、湖水からあがった佐武の死体は、その日のうちに解剖に付されて、改めて犬神家へ下げ渡されたが、解剖の結果によると、死因は背後から胸部へかけて、さしつらぬかれたひと突きであり、その時刻はだいたい、昨夜の十一時から十二時までのあいだであろうということだった。  ただ、ここに注目すべきは、死因となったひと突きだが、傷口の状態からみて、凶器は短刀ようのものであろうという鑑定である。  金田一耕助はこの報告をきいたとき、突然、なんともいえぬふかい興味をおぼえたのである。なぜといって、なるほど、ひとの生命を奪うには、短刀でもこと足りたかもしれないけれど、まさかそれで、首を斬り落とすことができたとは思えない。してみると犯人は、短刀と首斬り道具と、ふたいろの凶器を用意していたのであろうか。  それはさておき、佐武の死体が下げ渡されたので、その夜、犬神家ではかたちばかりのお通夜があった。犬神家は神道なので、こういう場合、万事、大山神主がとりしきるのである。  金田一耕助も思わぬ縁から、このお通夜につらなることになったが、その席上、大山神主から妙なことを聞いたのである。 「金田一さん、私ゃちかごろおもしろいものを発見しましてな」  大山神主は振る舞い酒に酔うていたのにちがいない。それでなければ、金田一耕助のところへ、わざわざあんな話をしに来るはずがなかった。 「おもしろいものってなんですか」  金田一耕助がたずねると、大山神主はニヤニヤしながら、 「いや、おもしろいものといっちゃなんですが、つまり故人の……佐兵衛翁の秘密ですな。いや、秘密といったところで、これは公然の秘密みたいなもので、この土地のものなら、だれでも知っていることですが、私ゃ、最近その確証を握ったんですよ」 「なんですか。佐兵衛翁の秘密というのは?」  金田一耕助も興味をそそられて、思わずそう聞きかえした。すると大山神主は、|脂《あぶら》のいっぱい浮いた顔をいやらしいほど笑みくずしながら、 「ほら、あのことですよ。あんたはご存じないのかな。そんなことはないでしょう。佐兵衛翁のことを語るひとなら、きっと最後にこのことを、つけ加えるはずですからね」  と、大山神主はいやに気を持たせたのちに、 「ほら、珠世さんのお祖父さんの、野々宮大弐さんと、佐兵衛翁のあいだに、|衆《しゅ》|道《どう》の契りがあったということでさあ」 「な、な、な、なんですって」  金田一耕助は思わずそう叫んだが、すぐに気がついてあたりを見回した。しかし、さいわいお通夜のひとびとは、みんな向こうのほうにひとかたまりになっていて、耕助のほうに注意をはらっているものはひとりもなかった。耕助はあわてて湯飲みから茶を飲み干した。  金田一耕助にとって、いまの大山神主の一言は、まさに青天の|霹《へき》|靂《れき》だった。まえにもいったとおり、このことばかりは、「犬神佐兵衛伝」にも書いてなく、耕助にとっては実に初耳だったのである。  耕助の驚きが、あまり大きかったので、大山神主はかえってびっくりしたらしく、眼をパチクリさせながら、 「金田一さん、それじゃあんたはこのことを、ご存じなかったのかな」 「知りませんでした。だって、『犬神佐兵衛伝』にも、そんなことは書いてありませんでしたよ。野々宮氏との関係は、かなり詳しく書いてありますが……」 「むろん、そんなこと、表だっていえることじゃありませんからな。しかし土地のものはみんな知ってますよ。古館君はいいませんでしたか」  古館弁護士は紳士だから、みだりに他人の秘事にふれることはひかえていたのだろう。  だが、このこと——野々宮大弐と犬神佐兵衛とのあいだに、衆道の契りがあったということが、なにかこんどの事件に、糸をひいているのではあるまいか。  金田一耕助はまるで|深《しん》|淵《えん》でものぞくような眼つきで、しばらく考えこんでいたが、やがて顔をあげると、 「なるほど、それであなたはいま、なにかその確証を発見したとかおっしゃいましたが、なんですか、それは……」  大山神主はさすがに自分の不謹慎を恥ずるふうがあったが、それでいながらなおかつ、この発見をだれかに誇らずにはいられなかったのだ。 「さあ、それですよ」  と、ひざをすすめて、酒臭い息を吹きかけながら、語るところによるとこうである。  大山神主はさきごろ、必要があって那須神社の宝蔵のなかを整理したことがあるが、そのとき発見したのが、ひとつの古びた|唐《から》|櫃《びつ》であった。それは|堆《うずたか》い|塵《ちり》とガラクタに埋もれて、大山神主もいままでついぞ、そのような唐櫃のあることに気づかなかったものだが、見ると箱とふたとの境のすきには、厳重な|目《め》|貼《ば》りの紙のうえに、なにやら墨で書いてある。なにしろずいぶん古くなって、目貼りの紙も真っ黒にすすけているので、はじめのうちはなかなか読めなかったが、それでも苦労のすえ、やっと判読したところによると、それはつぎのような文字であった。——野々宮大弐、犬神佐兵衛両名立会イノ下ニ、之ヲ封印ス。明治四十四年三月二十五日—— 「明治四十四年三月二十五日……これを読んだとき、私ゃはっとしたんです。『犬神佐兵衛伝』を読めばわかりますが、野々宮大弐さんの亡くなったのは、明治四十四年五月のことです。だから唐櫃は、大弐さんの死ぬ少しまえに、二人で封印したものなんです。おそらく大弐さんが、余命いくばくもないとさとって、佐兵衛翁とふたりで、この唐櫃のなかへ、なにかを封じこめたにちがいない。……と、そう思ったものですから……」 「封印を破ったんですか」  金田一耕助のいくらかとがめるような語気に、大山神主はあわてて右手をふりながら、 「いやいや、封印を破ったといえば語弊があります。さっきもいうたとおり、ずいぶん古いものですから、目貼りの紙もすっかり虫が食っていて、封印を破るも破らんも、ふたを持ち上げるとすっぽり開いちまったんです」 「なるほど、それでついなかをご覧になったわけですね。でいったい、なにが出てきたんです」 「おびただしい|文《ふみ》|殻《がら》でしたよ。ええ、櫃いっぱいの文殻なんです。手紙もあるし、大福帳みたいなものもある。それから日記や覚え帳、……昔のことですから、みんな日本紙のつづりなんですが、そんなものがいっぱい入っているんです。私はそのなかの、手紙を少し読んでみたんですが、それがつまり艶書なんですね。大弐さんと佐兵衛翁のあいだに取りかわされた……いや、翁といっても、そのころはまだ、水の垂れるような美少年だったんでしょうがね……」  大山神主はそういって、くすぐったそうにニヤリと笑った。しかし、すぐそのあとで弁解するように、 「金田一さん、こういったからといって、私がいやしい、好奇心のとりこになっていると思ってくだすっちゃ困りますよ。私は佐兵衛翁を尊敬しているんです。崇拝しているんです。なんといっても、佐兵衛翁はわれわれ那須人の恩人であるのみならず、信州随一の巨人ですからな。私はその巨人のほんとうの姿を知りたい。そして、いつか機会があったらその伝記を書きたいんです。 『犬神佐兵衛伝』のようにきれい事ではなしに、あのひとの赤裸々の姿を書きたいんです。そのことはけっしてあのひとを傷つけることになりはしないと思う。いや、それでこそ、はじめてあのひとの真の偉大さを伝えることができると思うんです。そういう意味からいっても、私はあの唐櫃の内容を徹底的に調査してみようと思う。ひょっとするとこの唐櫃のなかから、いままでだれにも知られなかったような、貴重な文献が得られるのじゃないかと思っているんです」  それは一種の酔っ払いの|管《くだ》だった。大山神主は自分の言葉に酔うているのである。かれはけっして、本心からおのれの言葉に、確信を持っていたわけではなかった。だが、それにもかかわらず、大山神主の予見は当たっていたのだ。  その後間もなく、大山神主によって、唐櫃のなかから発見された、あの世にも意外な秘密は、いかに深刻にこの事件に影響したか……金田一耕助は事件が終わったのちまでながく、そのことに思いいたるたびに、いつもぞっとするような恐ろしさを、感じずにはいられなかったのであった      |柘《ざく》 |榴《ろ》  ちかごろでは、お通夜を本式にやる家はめったにない。たいていは、十時か十一時になるとお開きにする。いわゆる半通夜というやつである。  ましてや、犬神家のように、たがいに憎みおうている一族では仏の両親や妹以外、だれも夜を徹してまで、お勤めをしようとは思わなかったであろう。それにまた、首と胴とつながれた、死人のそばに|侍《はべ》っているということは、だれにしたって、あんまり気持ちのよいことではなかった。そこで古館弁護士の発言で、お通夜は十時で打ち切ることになった。  そのころには、嵐もよほどおさまっていたが、それでも空にはまだ、|墨汁《ぼくじゅう》のような黒雲がながれ、ときおり思い出したように、なごりの雨が横なぐりに吹きつけたりした。  金田一耕助はその雨のなかを、古館弁護士とつれだってかえっていったが、そのあとで、犬神家ではまたひとつの事件が起こったのである。  この事件は、昨夜の佐武の事件や、また、もっとのちにあいついで起こった、ふたつの殺人事件にくらべると一見ごくたあいのない、とるに足らぬ事件のように思われがちだが、どうしてどうして、この事件のなかにこそ、非常に重大な意味がふくまれていたことが、あとになってわかったのである。  事件はまた珠世を中心として起こった。  お通夜がお開きになると、珠世はすぐに自分の居間へかえってきた。言い忘れたが珠世の居間も、母屋から廊下つづきの離れになっているのだが、この離れも松子夫人や佐清の住んでいる離れと同じように、五間から成り立っており、別に玄関と浴室とを持っていた。ただ佐清の離れとちがうところは、このほうは主として洋風につくられているのである。珠世はもう数年来、猿蔵とふたりでこの離れに住んでいるのである。  さて、珠世が離れへかえってくると、そのあとを追っかけるようにして、佐武の妹の小夜子がやってきた。なにか話があるというのである。朝からのうちつづく緊張に、珠世はすっかりくたびれたので、お湯にでも入って、一刻も早く寝たかったのだが、話があるというものを、追いかえすわけにはいかなかった。そこで小夜子を、居間へ通したというのだが、そこでふたりのあいだに、どういう話があったのか。 「私はただ、お兄さんのことを聞きたかったのです。お兄さんは殺される直前に、珠世さんに会ったと聞いたものですから、そのときのことについて、珠世さんからじかに聞きたかったのです」  翌日警官から取り調べられたとき、小夜子はそのおりのことについて、そう述べているし、珠世もまた、そのとおりだと保証しているが、しかし、ふたりの話がそれだけではなかったろうことは、少しでも、ちかごろの犬神家の内情を知っているものなら、察しがつくはずである。  小夜子は珠世の腹をさぐりに来たのだ。珠世が佐智のことを、どういうふうに考えているのだろうかと。……  小夜子は|不《ふ》|憫《びん》な娘である。彼女はけっして醜い女ではない。いやいや、彼女ひとりを見ていれば、けっこう、十人並み以上の美人なのである。しかし、同じ屋根のもとに、珠世という美人がいるゆえに、珠世という、ほとんど比類のない麗人がいるゆえに、彼女の|美《び》|貌《ぼう》もいちじるしく、割り引きされてしまうのである。ちょうど月のまえの星が、かがやきを失うように。  しかし、佐兵衛翁の遺言状が発表されるまでは小夜子もそれほど、珠世に対してはひけめを感じていたわけではない。いやいや、珠世なんか眼中になかったといったほうが正しかろう。  なるほど珠世は美しい。しかし、彼女はすかんぴんの孤児ではないか。他人の情によって生きている|居候《いそうろう》ではないか。それにひきかえ、なるほど自分は、美しさにおいては珠世に劣るかもしれぬ。しかし、それをつぐのうてあまりあるものを、身にそなえているはずだ。すなわち、佐兵衛翁の孫という身分、いつか|莫《ばく》|大《だい》な財産のわけまえに、あずかるだろうという保証。だから、男のまえに、自分と珠世をならべてみせたら、よほどの馬鹿でないかぎり、自分をえらぶにちがいない。……小夜子は固くそう信じて疑わなかったし、事実、佐智は|躊躇《ちゅうちょ》なく、彼女をえらんだのであった。  どういうものか、小夜子は小さいときから、従兄の佐智が好きだった。長ずるに及んでその感情は、しだいに恋情にかわっていった。それに対して、佐智のほうはどうであったろうか。かれもまた、小夜子がきらいでなかったことはたしかである。  しかし、その感情が小夜子ほど、切実であったかどうかは疑問である。しかし、それにもかかわらず、佐智は彼女の恋をうけいれたのである。|狡《こう》|猾《かつ》な佐智の両親は、犬神家の財産を、少しでもよけいにかき集めるためには、息子と小夜子を結婚させたほうがよいと考えたらしく、むしろ進んで小夜子のごきげんをとり、息子を説伏させたのであった。  ところがいまや事態は一変した。金の卵をうむ鶏だと思っていた小夜子は、なんの価値もない女だということがわかり、それに反して、いままで|歯《し》|牙《が》にもかけなかった珠世が、急に後光をおうてうかびあがってきたのである。軽薄な佐智親子が小夜子に対して、|掌《てのひら》をかえすように冷たくなったのも無理はない。そしていまや佐智は、珠世に対して、見苦しいほどしっぽをふりはじめたのだ。  小夜子が珠世に会いに来たのは、この問題に関して、珠世の心を打診するためであったろう。そのことは、小夜子にとって、耐えがたいほどの屈辱だったにちがいない。それにもかかわらず、小夜子が来ずにいられなかったのは、今朝来、身も心も細るほどの心痛と懸念に悩まされていたからである。  佐武が死んだいまとなっては、珠世が佐智をえらぶかもしれぬという公算が、非常に大きくなったわけだ。なぜといって、残されたふたりの候補者のうち、佐清はあのとおり、眼もあてられぬほど、おぞましい顔になっているのだから。  だが、しかし、珠世の居間でふたりの女のあいだに、どのような会話がかわされたか、それを知ることは永遠に不可能であろう。小夜子にそれを語らせるのは、石地蔵に物をいわせるより困難だろうし、珠世とてもたしなみのある女性ならば、小夜子の恥辱になるようなことをしゃべるはずはないからである。  それはさておき、珠世と小夜子の話は半時間ほどで終わった。珠世は小夜子を送り出すと、すぐ居間のつづきになっている寝室のドアをひらいた。言い忘れたが、珠世の居間も寝室も洋風になっており、寝室には居間へ通ずるドアよりほかに、どこにも出入り口はないのである。  珠世は一刻も早く、横になりたかったので、小夜子を送り出すと、すぐに寝室のドアをひらき、壁際にあるスイッチをひねって、電気をつけたが、そのとたん、恐ろしい悲鳴が、のどをついて出たのである。  そのときのことについて、珠世は翌日、橘署長の問いに対してこう語っている。 「ええ、そうです、スイッチをひねって、電気をつけたとたん、だれかが寝室のなかからとび出してきたのです。なにしろあまりとっさのことで、詳しいことはわかりませんでしたが、ええ、そう、たしかに兵隊服を着た男でした。戦闘帽をまぶかにかぶり、|襟《えり》|巻《ま》きで顔をかくして……それですから、ギラギラ光るふたつの眼だけが、いまでもはっきり印象に残っております。それがまるで、黒いつむじ風みたいに、さっと私におどりかかってまいりまして……私は思わず悲鳴をあげました。するとその男は、私をそこに突きとばしておいて、居間からさっと、廊下のほうへとび出していったのです。それからあとのことは、ほかのかたに、お聞きになったとおりでございます」 「ところで珠世さん、その男ですがねえ、そいつはどうして、あなたの寝室になどかくれていたのでしょう、それについて、なにかお心当たりはありませんか」  橘署長の問いに対して、珠世はつぎのように答えている。 「はあ、それはこうだと思います。昨夜、この離れへかえってきたときは、小夜子さんといっしょだったので気がつきませんでしたが、あとで調べてみると、だれかが居間をかきまわしたらしい跡が残っているのです。いいえ、別になくなったものはございませんけれど。……そこで私が思いますのに、そのひとはここでなにかをさがしていた。そこへ私と小夜子さんがかえってきたので、あわてて寝室へかくれたのではないかと思います。ところが、ご覧のとおりこの寝室は一方出口で、ほかにどこにもドアはなし、窓は全部しまっているのでそれをあけると音がします。そこでしかたがなく、小夜子さんが立ち去るまで、寝室のなかにかくれていたのではないかと思うのです」 「なるほど、そうおっしゃればつじつまが合いますが、しかし、その男はここでなにをさがしていたのでしょう。なにかあなたはそんな男に、ねらわれるようなものをお持ちですか」 「さあ、それは私にもわかりませんわ。でもその男がなにをさがしていたにしろ、それはごく小さなものだったにちがいございません。だって指輪だの、耳輪だのそんなものしか入らない、小引き出しまであけているんですから」 「それでいて、なにもなくなったものはないのですね」 「はい」  さて、話をもう一度もとへもどして、珠世の寝室からとび出した、|曲《くせ》|者《もの》のその後の行動のことに移ろう。  珠世の悲鳴はさしもに広い、犬神家の屋敷じゅうにとどいたが、ここに興味のあることは、この悲鳴のおかげで犬神家の一族は、全部アリバイがなり立ったのである。  まず佐清だが、かれはそのとき自分の居間、すなわち松子夫人の離れにいたのである。そのことは、松子夫人のみならず、大山神主が証明しているから、まずまちがいはあるまい。大山神主はその夜、犬神家へ泊まることになって、松子夫人の部屋へ来て話しこんでいたのだが、そこへあの悲鳴が聞こえてきたのである。大山神主はそのときのことについて、こう語っている。 「そうです。あれは十時半ごろのことでしたろうか。松子奥さまのお部屋で話しこんでおりますと突然、女の悲鳴が聞こえたのです。私どもはびっくりして腰をうかしましたが、するとそこへ離れのほうから、佐清さんがとんでこられて、あれは珠世さんの声だと、そうおっしゃると、はだしのまま、庭へとび出していかれたのです。私どもはびっくりして、縁側までとんで出ましたが、もうそのときは佐清さんの姿は見えませんでした。なにしろ昨夜はまっくらでしたし、それにあいにく、そのときまた、はげしい雨が落ちてきたものですから……」  さて、おつぎは佐武の父の寅之助だが、かれはそのときまだ、妻の竹子とともに、息子の|遺《い》|骸《がい》のそばでお通夜をしていたのである。そのことは妻の竹子のみならず、三人の女中が証明している。女中たちはお通夜の席のあとかたづけをしていたのである。寅之助は悲鳴を聞いても、席を立とうとはしなかった。  最後に佐智とその父の幸吉だが、かれらは悲鳴が聞こえたとき、自分の居間でそろそろ寝ようとしていたところだった。このことは、幸吉の妻の梅子のみならず、夜具を敷きにきた二人の女中が証明している。  佐智は悲鳴を聞くと血相かえて、母のとめるのも聞かずにとび出していった。幸吉もそのあとを追っかけた。  だが珠世の悲鳴をもっとも間近に聞いたのは、いうまでもなく小夜子であった。彼女は珠世の居間を出て、母屋へ通う廊下のなかほどまで来たが、そこで悲鳴を聞くと、びっくりしてあとへとってかえした。そして珠世の居間のまえまで来たとき、廊下の突き当たりで、もみあうふたつの影を見たのである。  ひとりは兵隊服の男、そしてもうひとりは猿蔵だった。 「えっ、な、なんですって? すると猿蔵と兵隊服の男が、もみあっていたというんですか」  この証言を聞いたとき、橘署長は驚いて、そう聞きかえさずにはいられなかった。無理もない。橘署長は兵隊服の男を、猿蔵ではないかと疑っていたのだが、いまやその疑惑は一挙にして、粉砕されてしまったのである。 「ええ、まちがいはございません。私はたしかにこの眼で見たばかりではなく、すぐそのあとで猿蔵と口をききあったくらいですもの」  小夜子はそういって念を入れた。  それはさておき、一瞬もみあっていた猿蔵と兵隊服の男は、つぎの瞬間入れちがいになったと見るや、兵隊服の男はさっと廊下の外へとび出していった。廊下の突き当たりはフランス窓になっており、その外はバルコニーから庭へおりられるようになっているのだ。 「あのとき、おら、そいつを追っかけようと思えば、追っかけられただが、お嬢さんのことが気がかりだったもんだで……」  そのときのことを、猿蔵はそう言っている。それからまた、その夜の自分の行動について、かれはつぎのように語った。  なにしろ物騒なことがつづくので、猿蔵は屋敷のなかを見回っていた。かれはお通夜を、文字どおり朝までつづくものだと思っていたので、すでにお開きになったことを知らず、したがって珠世が離れへかえってきたことも知らなかった。ところがそこへ聞こえてきたのがあの悲鳴である。 「おらびっくりして、バルコニーからフランス窓へとびこんだだが、出会いがしらにぶつかったのが、兵隊服の男で……うんにゃ、顔は見なかっただ。なにしろ襟巻きでふかぶかとかくしていたで……」  さて、猿蔵と小夜子が居間へとびこんで、珠世を介抱しているところへ、駆けつけてきたのが、佐智とかれの父の幸吉だった。そこで一同が評議まちまちしているところへ、聞こえてきたのがまたしても悲鳴であった。それはひと声高く尾をひいて、おりからの|篠《しの》つく雨をつんざいて聞こえてきたのである。  一同はそれを聞くと、思わずぎょっと顔を見合わせた。 「男の声のようでしたわね」  珠世があえいだ。 「うん、展望台の方角でしたぜ」  佐智がおびえたように眼をとがらせてつぶやいた。 「ひょっとすると、佐清兄さんじゃないかしら」  小夜子がふるえ声でささやいたが、そのとたんはじかれたように立ちあがったのは珠世だった。 「行ってみましょう。みんなで行ってみましょう。猿蔵、懐中電気を持ってきて……」  外は篠つく雨だった。そのなかをひとかたまりになって走っていくと、向こうから寅之助と大山神主がやってきた。 「どうしたんだ。いまの声はなんだ」  寅之助がかみつきそうに尋ねた。 「なんだかわかりません。ひょっとすると、佐清君じゃないかといってるんです」  佐智が答えた。それからまた一同は、展望台のほうへ走っていった。  悲鳴の主は果たして佐清だった。かれは展望台の階段の下に、ながながと伸びていたのだが、最初にそれにぶつかったのは珠世であった。彼女はつまずいてよろめきながら、 「あっ、ここにだれかひとが……猿蔵、懐中電気を見せて」  言下に懐中電気の光が、さっと佐清の顔を照らしたが、そのとたん、一同は思わずあっと叫んで、あとじさりしたのである。  佐清は死んでいるのではなかった。強いアッパーカットをくらって、気を失っていたのだが、倒れるはずみに仮面がとんだと見えて、そこに露出しているのは、おおなんという恐ろしい顔! 鼻から|両頬《りょうほお》へかけて、|柘《ざく》|榴《ろ》のようにはじけて、くちゃくちゃにくずれた赤黒い肉塊!  小夜子はそれを見ると、キャッと叫んで眼をおおうたが、珠世はそれと反対に、なぜかしら、|瞳《ひとみ》をこらしてその恐ろしい顔に見いっているのであった。      佐智|爪《つめ》を|磨《と》ぐ  その翌日、犬神家へ呼ばれて、橘署長から昨夜の出来事を聞かされた金田一耕助は、非常に考えぶかい眼つきになっていた。 「署長さん、それで佐清君はなんといってるんです」 「佐清はね、珠世の悲鳴を聞いてとび出したところが、だれかが展望台のほうへ行くのが見えた。そこであとを追っかけていったところが、あの階段の下で、いきなりぶん殴られたといってるんですよ」 「なるほど」 「それでね、佐清は今朝はすっかりしょげかえっています。なぜといって、気を失っているあいだに、あの醜怪な顔を、思う存分、ひとに見られたわけですからな。余人はともかく、珠世に見られたのは、佐清としてもさぞ痛手だったろうと思いますよ」 「ところで署長さん、その兵隊服の男の行方というのはわかりませんか」 「いまのところまだわかりません。しかし、なあに、どうせ狭い町のことですから、いまに突きつめてごらんにいれますよ」 「その男が忍びこんだという|痕《こん》|跡《せき》はあるのでしょうね」 「ええ、それはあります。珠世の居間にも寝室にも、べたべたと泥靴の跡がいっぱいついているんです。しかし、建物の外部となると、これが非常にむずかしいんで……なにしろ昨夜はあのとおり、まだ雨が残っていましたから、足跡もすっかり洗い流されて、おかげで、どっから忍びこんで、どっちへ逃げたかさっぱりわからんのです」  金田一耕助はだまってしばらく考えていたが、やがてゆるく頭髪をかきまわしながらこんなことをいった。 「署長さん、とにかく昨夜の一件は、われわれにとって、非常に重大な意味を持っていると思いますね。顔をかくした復員風の男……こういう人物が、いま犬神家に住んでいるひとびととは別に、ちゃんと存在していることが、これでハッキリ証明されたわけです。それはわれわれが考えたように、いまこの家に住んでいるだれかの、一人二役などではけっしてなかった。そういうやつがそういうやつで、別にちゃんと存在していることが、これでハッキリわかったわけです」 「そう、私もそれは考えたが、しかし、金田一さん、いったいそいつは何者なんです。この事件でいったい、どのような役割をしめているんです」  金田一耕助はかるく首を左右にふった。 「それは私にもわからない。それがわかれば、あるいはこの事件はかたがつくのじゃないでしょうか。しかし署長さん、いずれにしてもその男は、犬神家のなにかふかい縁故のある人物にちがいありませんよ。宿帳に犬神家の東京の家の番地を書いているくらいだし、昨夜は昨夜で、珠世さんの部屋をちゃんと探しあてている。……」  署長はドキッとしたように、金田一耕助の顔を見直すと、 「なるほど、するとそいつはこの屋敷の構造に、かなり精通しているということになりますな」 「そうですよ。ところでこの家ときたら、ごらんのとおり、実に複雑怪奇な建て方になっているんですからね。ぼくなど、二度や三度来たくらいじゃ、とてもこの家の地理はわかりません。もしそいつがはじめから、珠世さんの部屋にねらいをつけてきたのだとしたら、そいつはよっぽど、この屋敷の地理に詳しいわけです」  橘署長はだまって考えていたが、やがて音を立てて大気を吸いこむと、自分で自分にいいきかせるように、力強くいい放った。 「なあに、それもこれも、そいつをつかまえてみればわかることだ。そうだ、問題はそいつをつかまえることですよ。われわれはいままで、ひょっとすると、そいつはこの家のだれかの一人二役じゃないかと思っていたもんだから、つい捜査にも手抜かりがあったが、なあに、こうハッキリしてくれば、きっといまにとらえて見せます」  しかし、事実はなかなか署長の思うようにはならなかったのである。  あの顔をかくした復員風の男は、いったい、どこから来てどこへ去ったのか、警察の必死の捜索にもかかわらず、その後、|杳《よう》として不明なのである。  いや、その男がどこから来たのか、それは間もなくわかった。  十一月十五日——すなわち佐武の殺された日の夕方ごろ、そういう風体の男が上那須で汽車からおりるのを見たという人はかなりたくさんあった。その列車は東京発の下り列車だったから、その男もおそらく東京からやってきたのだろう。さらにその男が、上那須から下那須のほうへ、トボトボと歩いていくのを見たという証人もかなりたくさんある。  これらのことから考えると、その男がほんとうに用事のあったのは、上那須だったと思われる。下那須には下那須で、ちゃんと駅があるのだから、そちらに用事があるのなら、下那須まで乗っていったはずだ。それにもかかわらずその男は、わざわざ下那須まで歩いていって、柏屋へ泊まっているのだが、それはおそらく、上那須の宿屋で、なにか都合の悪いことがあったのだろう。  さて、柏屋を出たのち、その男の姿を見たものも数名あった。しかも、そのなかの三人までが、そういう男を背後の山のなかで見たと証言しているので、さてこそ、警察では躍起となって、湖水をとりまく山々を調べてまわったが、結局これも徒労に終わった。  おそらく柏屋を出たその男は、その日いちにち、背後の山に身をかくしていたのち、夜になって、また犬神家へやってきたのだろう。そして、珠世の部屋をおそい、佐清を|昏《こん》|倒《とう》させて逃げ出したのだが、さて、それから後の消息が、全然消えてしまっているのである。  こうして警察の焦燥のうちに、五日とすぎ、七日と過ぎて十一月二十五日。ちょうど佐武が殺されてから十日目のことだったが、ここにまた、恐ろしい第二の殺人事件が突発したのである。しかも、不思議なことにはこんどの事件の場合でも、そのキッカケをつくったのは、やはりあの美しい珠世であった。  いま、その|顛《てん》|末《まつ》をお話ししよう。  十一月二十五日といえば、山国の湖畔では、もうすっかり冬景色である。湖水の向こうに遠く望まれる、北アルプスの連峰は、日ごとに白さを加えていく。朝など、どうかすると湖水の岸は、薄氷の張っていることもあった。  しかし、それでいて、お天気のよい日の日中など、こんなに気持ちのよいことはなかった。おそらく、一年じゅうでそのころが、いちばんさわやかな季節であろう。風は多少つめたくとも、|日《ひ》|向《なた》へ出ると、ジーンと体の心まであたたまりそうな温かさ。  珠世はその日、この日光をしたって、湖水へボートを|漕《こ》ぎ出したのである。むろんひとりで、猿蔵にも内緒であった。いつかのあのボートの事件以来、猿蔵は絶対に、珠世にボート遊びを許さない。それを知っていて珠世はまるで子どもが抜け遊びに出るように、こっそりボートを漕ぎ出したのだ。  珠世はあの事件以来、すっかり心が|鬱《うっ》|屈《くつ》している。来る日も来る日も、疑いぶかいお巡りさんに質問攻めにされる。犬神家のひとびとからは、憎悪と、敵意と、|嫉《しっ》|妬《と》の視線を、まるで|火《ひ》|箭《や》のように浴びせかけられる。珠世は息がつまりそうであった。  だがそれにもまして彼女がたまらなかったのは、ちかごろの、佐智一家の攻勢である。  以前は見向きもしてくれなかった佐智親子が、ちかごろは、いやらしいほどしっぽをふってつきまとう。珠世はそれが身ぶるいの出るほどいやだったのだ。  久しぶりに湖水へ出た珠世は、なにかしら、心がはればれするような気持ちだった。なにもかも打ち捨て、なにもかも忘れて、このままどこまでも漕ぎ出していきたいとさえ思った。  風はいくらか冷たいが、陽はあたたかでさわやかである。珠世はいつか、遠く湖心まで漕ぎ出していた。  ワカサギの季節も終わったのか、湖水の上には釣り舟も見えぬ。遠く下那須のあたりで漁船が一艘、網を打っているのが見える。そのほかには舟らしいものは一艘も見えなかった。シーンと静かな昼さがりのひととき。  珠世はオールをあげると、ごろりとボートのなかに仰向けになった。しみじみと、久しぶりに仰ぐ空は、びっくりするほど遠く、高く、じいっとそれに見入っていると、なにかしら引きいれられるような気持ちである。珠世はそっと眼を閉じた。と、いつかその|瞼《まぶた》のあいだから、淡い涙がにじみ出してくるのである。  珠世はいったいどれくらいそうしていたろうか。ふと気がつくと、遠くのほうからけたたましいモーターボートのエンジンの音がきこえてくる。はじめのうち、珠世は気にもとめなかったが、しだいにその音がこちらのほうへ近づいてくるので、ふと起きなおってふりかえった。  モーターボートに乗っているのは佐智である。 「こんなとこにいたんですか。ずいぶん方々探しましたよ」 「まあ、なにか御用ですの」 「ええ、いま、署長と金田一耕助という男がやってきて、なにか重大な話があるから、すぐ集まってくれといってるんです」 「ああ、そう、それじゃすぐかえります」  珠世がオールを取りなおすと、 「ダメですよ、ボートじゃ」  と、佐智はモーターボートをそばへ寄せながら、 「さあ、これへお乗りなさい。署長はとても急いでいるんです。寸刻を争うことだからって……」 「でも、このボートは……?」 「それはあとから、だれかにとりにこさせたらよろしい。さあ、早くお乗りなさい。ぐずぐずしていると署長め、どんなにおこり出すかわかりませんよ」  佐智の態度にも言葉にも、少しも不自然なところはなかった。それにまた、いかにもありそうなことだったので、珠世はついだまされたのである。 「そうですか、それじゃお願いいたします」  珠世はボートを、モーターボートのそばへ漕ぎ寄せた。 「そうそう、オールはあげておきなさい。流れてしまうとやっかいだから。さあ、ぼくがボートをおさえていてあげますから、いいですか。気をつけて……」 「ええ、大丈夫ですわ」  珠世は上手に乗り移ったつもりだったけれど、それでも一艘の舟がぐらりと大きくゆれて、 「危ない!」  よろめく拍子に珠世は佐智の胸に倒れかかったが、その|刹《せつ》|那《な》、かばうと見てのばした佐智の|猿《えん》|臂《ぴ》がやにわに珠世の鼻孔をおおうた。しかも、その手にはジットリぬれたハンケチが握られている。 「あ、な、なにをなさるんです」  珠世は強く抵抗する。しかし、抱きすくめた佐智の腕はがっきと彼女の体をおさえ、しかも、あの湿ったハンケチは、いよいよ強く、鼻孔を圧してくる。  なにやら甘酸っぱいにおいが、つうんと鼻から脳天へ抜けた。 「あ、あ、あああああ……」  珠世の抵抗はしだいに微弱になり、やがてぐったりと佐智の腕のなかで眠りこけてしまった。  佐智はそっと珠世の乱れ髪をかきあげてやる。それから軽く額にキッスをするとニヤリと、歯をむき出してわらった。  ふたつの|瞳《ひとみ》が、たぎりたつ情欲のために、|燐《りん》をもやしたようにギラギラ光っている。佐智はゴクリと生つばをのみ、|獣《けだもの》のようにペロリと舌なめずりをした。  それから珠世を寝かせると、背中を丸くして、モーターボートを走らせはじめた。  犬神家とはまるで反対の方角へ。……  空には|鳶《とび》が一羽、ゆるく輪をえがいていたが、そのほかにはだれひとり、この出来事に気づいたものはなかったのである。      影の人  那須市の対岸一里ばかりのところに、豊畑村という一寒村がある。  昔から貧しい村なのである。マユに相場のあるころは、それでも相当うるおうこともあったのだが、ちかごろのように、生糸の輸出が不振をきわめると、村全体、とんと火の消えたような状態である。もっともこれは、必ずしも豊畑村にかぎった問題ではなく、那須湖畔一帯が、いま直面している、苦悩多き宿命なのだが。……  さて、この村の西のはずれに、一筋の小川が流れており、その小川が湖水にそそぐところに、大きな三角州が突き出している。この三角州は年々歳々大きくなっていくばかりである。つまり小川の運びこんで来る土砂のために、湖水はその方面から、しだいに|浸蝕《しんしょく》されていくわけである。三角州にはいま、|蕭条《しょうじょう》として枯れ|葦《あし》がなびいている。  佐智のモーターボートが滑りこんだのは、この葦のあいだの川口であった。  そこまでくると佐智は、モーターボートの速力をゆるめ、例の狐のように動く眼できょときょとあたりを見回した。しかし、眼にはいるものとては蕭条と吹きなびく枯れ葦ばかり。収穫の終わった田んぼにも桑畑にも、人影ひとつ見えなかった。  空には例の鳶が一羽、しつこく輪をえがきつづけながらこの様子を見守っているのだが。……  仕合わせよしとほくそえんだ佐智は、人眼を避けるように背中を丸くして、葦のあいだを漕ぎのぼっていく。と、間もなく行く手の葦の穂面から|忽《こつ》|然《ぜん》と姿を現わしたのは、西洋風な一軒の建物である。しかも、いまでこそ見るかげもなく荒れはてているけれども、昔は相当りっぱであったろうと思われるような建物なのである。  こんなところにこんな建物——と、はじめてこの建物にぶつかったひとは、だれでもちょっと奇異な思いを抱くらしいが、いわれを聞いてみると、別に不思議でもなんでもない。  この豊畑村こそは犬神家の発祥の地であり、そして葦間に見えるこの建物こそは、佐兵衛翁がはじめて構えた本邸なのである。その後、豊畑村ではなにかと不便なので、事業の中心地が上那須に移されるとともに、本宅もそちらのほうへ新しく建築された。  それ以来、豊畑村のこの建物は、だれも住む者もなく、無用の長物みたいな存在になっていたが、それでも犬神家にとって、一種の記念物というほどの意味で保存されてきたのである。しかしそれも戦争が起こってからしだいに手入れも不ゆきとどきになる。そのうちに留守番の男は召集される。というわけで、いよいよ荒れるにまかせておくよりしかたがなくなった。ことに、佐兵衛翁がなくなってからというものは、だれもこんな古屋敷に未練を持つものはなかったから、いよいよ荒れる一方で、ちかごろでは幽霊屋敷の異名さえある。  佐智がめざしているのは、どうやらこの洋館らしいのである。  おそらくこの洋館も昔は直接湖水に面して建っていたのだろう。それがいまでは、年々歳々発達する三角州のために、水打ち際から、遠くへだてられて、蕭条たる葦の浮き州に忘れられたようにポツンと建っているのである。  佐智は小川をのぼっていくと、この洋館の外の葦の浮き州にモーターボートをつっこんだ。このへんまで来ると、水が浅く、泥が深いので、モーターボートの運転もなかなか容易ではない。  それでもやっと、葦のしげみのあいだにモーターボートをつなぐと、ひらりと三角州の上へとびあがる。そのとたん、葦の根本から、鳥が二、三羽、パッととび立って佐智を驚かせた。 「チェッ! びっくりさせやがる!」  佐智はいまいましそうに舌打ちすると、ともづなをとってモーターボートをひきよせる。モーターボートを、人目につくところにほうっておいてはならないのだ。間もなく葦のしげみのなかに、モーターボートをかくしてしまうと、佐智ははじめてほっとしたように、額の汗をぬぐいながら、ボートの底に|昏《こん》|々《こん》として眠りこけている珠世の寝顔に眼をやった。  と同時に、歯ぎしりをしたくなるような|戦《せん》|慄《りつ》が、佐智の全身をつらぬいて走るのである。  ああ、無心に眠りこけている珠世の美しさ! さっきクロロフォルムをかがされたとき、少しもがいた痕跡が乱れた髪や、ひそめた眉のあたりに残っているが、それさえも、彼女の美しさを傷つけるものではなかった。少し汗ばんだ頬の上に葦の間をもれる陽の光が、金色の|斑《ふ》をおどらせている。息遣いが多少荒いようである。  佐智はゴクリと生つばをのみこんだ。それからあわててあたりを見回した。この甘美なごちそうを、まるでだれかに|覘《うかが》われてでもいるかのように。  佐智はしばらくそうして、葦の浮き州にしゃがんだまま、ボートのなかの珠世の寝姿をながめていた。ひとつには、いくら見ても見あきぬながめであったからでもあるが、もうひとつには、佐智にもまだハッキリと決心がつきかねているからでもあるらしい。  佐智は葦の間にしゃがんだまま、しきりに|爪《つめ》をかんでいる。爪をかみながら、珠世の寝顔を見守っている。いたずらに手をつけた子どもが、そのいたずらを最後まで、決行したものかどうか、思いまどうている|風《ふ》|情《ぜい》である。相手のあまり美しいのが、かえってかれの勇気をくじくのである。 「ええい、構うことはあるもんか。どうせ遅かれ早かれ、そうなるにきまってる仲じゃないか」  自分で自分をしかるようにつぶやくと、佐智はいきなり|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして、珠世の体を抱きあげた。モーターボートがグラグラゆれて、|泥鰌《どじょう》が葦のあいだではねる。  ずしん——と、持ちおもりのする珠世の体温のあたたかさ、新鮮な果物のような処女の芳香、なめらかな肌の下に脈々と通う血管のうずき!……佐智はもうそれだけで、圧倒されるような血の騒ぎをおぼえるのだ。  佐智は小鼻をいからせ、眼を血走らせつつ、珠世を抱いて、葦のあいだをわけていく。ひどい汗だ。流汗|淋《りん》|漓《り》として頬を伝いおちる。それでいて十一月の空気は冷たいのである。  葦の浮き州をすぎると、そこに形ばかりの垣がある。白ペンキを塗った板の|柵《さく》が、八分どおりこわれて、くずれて、泥と土とにまみれている。垣のなかも蕭条たる一面の枯れ葦である。佐智は珠世を抱いたまま小走りに垣のなかへ走りこんだ。  佐智は枯れ葦のあいだを|這《は》うようにして、じりじりとあの空き屋敷へ近づいていく、まるで口に獲物をくわえた狐のように。佐智はだれにも見られたくなかったし、また、見られてはならないのだ。かれは湖水の上にも、陸のほうにも気をくばっていなければならなかった。  ふいに佐智はギョッとしたように息をのむと、葦のあいだに身を伏せた。そして、それきりしばらく珠世の体を抱いたまま、石のように身を固くして、あたりの様子をうかがっている。  どこかで、だれかが見ている!——そんな気が強くしたからである。  一瞬——二瞬——  佐智の心臓はガンガン鳴った。額にはねっとりと、粘っこい汗が吹きだしてきた。  だが……別に変わったことも起こらない。あたりはしんと静まりかえって、物音とては風にそよぐ葦の葉ずれのささやきばかり。  佐智はおそるおそる顔をあげて、葦のあいだから、向こうに見える洋館の窓を仰いだ。さっき、たしかにその窓に、物の動くけはいを感じたからである。  風が吹いた。  と、|盲《めし》いたように、ガラス戸をもぎとられた窓の中で、ハタハタとくろずんだカーテンがゆれた。カーテンは、どんなボロよりもみじめに裂けて、風が吹くたびに、バタバタと窓がまちをたたく。また、これほどボロになっているからこそ、盗まれもせず、まだこの古屋敷に残っているのだ。  佐智は腹立たしげに舌打ちすると、改めて珠世の体を抱き直した。それからもう一度あたりの様子を偵察すると、|脱《だっ》|兎《と》のごとく葦の間を出て、古屋敷のベランダから広間のなかへとびこんだ。  プーンと鼻をつく|黴《かび》のにおい。壁から天井からまるで垂れ飾りのようにぶら下がっている|蜘《く》|蛛《も》の巣。  湖水には無数の羽虫がわくから、その羽虫をねらって、蜘蛛がいたるところに網を張っているのである。佐智がとびこんだ|刹《せつ》|那《な》、蜘蛛の巣にひっかかった羽虫のうち、まだ生き残ったやつが、いっせいにバタバタやり出したから、ブラ下がった蜘蛛の巣の|総《ふさ》が、嵐に会ったようにはげしくゆれた。そして、それと同時に魚のくさったようななんともいえぬ異臭が、ツーンと鋭く鼻をつく。  佐智は顔をそむけながら、ホールを見て、階段に足をかけた。だが、そのとたん、かれはふたたびギョッとして、そこに立ちすくんだのである。  ちかごろだれか、その階段をのぼっていったものがあるにちがいない。べったりついた泥靴の跡。……  佐智はまるでそれが、恐ろしいものでもあるかのように、息をころして凝視していたが、すぐなあんだというように、大きなため息をついた。泥靴のあとは、それひとつではない。玄関から廊下へかけて、また新しい数種類の靴跡が、あたりいちめんべたべたとついているのである。  佐智はこの間、お巡りさんたちが復員姿の男を求めて、この空き屋敷へ手を入れたことを思い出した。なんだそれじゃ、この足跡は、お巡りさんたちの足跡なのか。……  佐智はほっと胸をなでおろすと、できるだけ足音をころして階段をのぼりはじめる。ちょっと階段につまずいても、家じゅうにひびきわたるような音を立てる。佐智はそのたびに肝を冷やした。  二階も階下に負けず劣らず、殺風景をきわめている。まえにもいったように、窓ガラスという窓ガラスは、かたっぱしからもぎとられているし、ドアの|蝶番《ちょうつがい》さえ、満足に残っているのは少ない。  佐智はあらかじめ見当をつけておいたとみえて、それらのドアのひとつを足で開いて、珠世の体を運びこんだ。装飾もなにもない、ガランとした殺風景な部屋。それでも部屋の片すみに鉄製のベッドと頑丈な椅子がおいてある。ベッドには詰め物のはみ出したわら|布《ぶ》|団《とん》がしいてあったが、むろん、夜具だの、毛布だのの類はない。すべてがさむざむとした|廃《はい》|墟《きょ》のたたずまいなのである。  佐智はそのわら布団の上へ、そっと珠世の体をおいた。そして、流れおちる汗をぬぐいながら、相変わらず、狐のようによく動く眼で、絶え間なくあたりの様子に気をくばっている。  万事好都合らしい。だれも佐智がこのような廃墟へ、珠世をつれこんだことを知っているものはない。すべてはこのひとときのうちに決せられるのだ。それが終わってしまったなら、珠世がどんなに泣こうがわめこうが、万事、自分の思いどおりに運ぶだろう。そして、そのときこそ自分は、色と金と権力の、三つを同時に握ることができるのだ。  佐智はふるえあがった。武者ぶるいというやつかもしれない。興奮のために口のなかがからからに乾いて、ひざ頭ががくがくふるえた。  佐智はわななく指でネクタイをとる。それからもぎとるように上衣をとり、ワイシャツをぬぐと、それを椅子の上に投げ出した。少し明るすぎるのに気がさすが、あいにく窓には扉もなければカーテンもない。  佐智はちょっと思案顔に、爪をかみながら部屋のなかを見回していたが、 「なに、かまうものか。だれが見ているわけじゃなし、……それに御本尊はよく寝ていらっしゃらア」  ベッドの上に身をこごめて、佐智は一枚一枚、珠世の衣類をはいでいく。なだらかな肩から、ふくよかな胸部の隆線が現われてくるにしたがって、佐智の興奮は、もうおさえることができないらしい。  指先がおこりをわずらったように、わなわなふるえて、嵐のような息遣いである。  ……と、このときだった。  どこかで、コトリというかすかな音。それにつづいて、ギーッと床を踏み鳴らす音。  佐智は|蝗《いなご》のように、ベッドのそばからとびのいた。そして、襲いかかる敵を待ち伏せするように身構えしてじっとあたりの気配をうかがっている。物音はしかし、それきり二度とは聞こえない。  佐智はそれでもまだ心配だったのか、部屋を出て、家のなかを見て回った。どこにも異状はない。ただ、台所のすみに、|田鼠《たねずみ》の巣があって、子鼠がうまれているのを発見した。 (なあんだ、こいつの騒ぐ音だったのか)……  いまいましそうに舌打ちして、階段をのぼってきた佐智は、なにげなくドアをあけようとしてギョッと息をのんだ。  さっき自分はここを出ていくとき、ドアをあけっぱなしにしていったはずである。それがこうして締まっているのはどうしたのだろう。なにかのはずみで、しぜんにしまったのだろうか。  佐智は取っ手に手をかけると、用心ぶかく、ドアをひらいた。部屋のなかは別に異状はないらしい。佐智はほっとして、ベッドのそばへ歩みよったが、突然、頭のてっぺんから、鉄の|楔《くさび》でもうちこまれたような戦慄をおぼえた。むき出しになっていた、珠世の胸の上に、だれか上衣をかけていったものがある!  佐智は靴のうらが床に吸いついてしまったように、身動きができなくなった。かれは元来大胆な男ではない。いやいや、至って小心者なのだ。それだけに、今日この行動に出るには、非常な決心がいり、いよいよその行動に着手してからも、絶えず、ビクビクしつづけていなければならなかったのだ。  佐智は全身にビッショリ汗をかいていた。口のなかがからからに乾いて、のどの奥がやけるようであった。なにかいってみたいと思ったが、舌がもつれて言葉が出なかった。 「だれか……だれかいるのか。……」  やっとのことで、かれはそれだけのことをいった。  と、それに応じるかのように、隣室へ通じるドアの向こうで、ギーッと床の鳴る音がした。  ああ、だれかいる、……隣の部屋に。……自分はなぜ、それをもっと早くたしかめておかなかったのだろう。……さっき窓からのぞいていた眼……あれはやっぱり錯覚ではなかったのだ。……そいつがこの家の、しかも、この隣の部屋にかくれているのだ。……おお、自分はなぜもっと早く、それをたしかめておかなかったろう。…… 「だれだ! 出てこい、そこにかくれているのはだれだ……」  言下にドアがひらきはじめた。少しずつ、ごくゆっくりと。……そして、間もなく佐智は見たのである。そこに立っている男の姿を。  それは戦闘帽をまぶかにかぶり、マフラで顔をかくした、復員姿の男であった。  それから一時間ほどのちのことである。  犬神家にいる猿蔵のもとへ、不思議な電話がかかってきた。 「猿蔵さんですか。猿蔵さんですね。猿蔵さんにちがいありませんね。いや、こっちはだれでもいいです。実は珠世さんのことについて、きみの注意を喚起したいと思いましてね。珠世さんはいま豊畑村の空き屋敷にいます。ほら、ずっとむかし犬神家が住んでいた家で、階段をあがって左のとっつきの部屋。すぐ迎えにいってあげてください。ああしかし、あまり騒ぎ立てないほうがいいですよ。人に知れると、珠世さんの恥辱になることですからね。万事、きみひとりで取りはからったらいいでしょう。ああ、それから珠世さんはたぶんまだ眠りつづけていると思いますが、その点については心配しなくてもいいです。薬がきいているのだから、時間が来るとしぜんに覚めますからね。じゃ、お願いします。一刻も早いほうがいいですよ。ではさようなら」     第六章 琴の糸  夢うつつとなく聞いていた小鳥のさえずりが、しだいに現実の世界にわりこんできて、珠世はようやく眼覚めはじめている。  なんとなく、もの苦しい圧迫を、無理矢理に向こうへ押しやろうとして、無意識に両手を出しておきあがろうとしているうちに、珠世はとうとう眼が覚めた。  眼が覚めても、しかし、珠世はとっさのうちに、自分の立場に理解がなくて、しばらくはポカンと眼を見はっていた。  なんとなく頭が痛くて、体の節々がだるい。  起きるのも大儀である。いつもの朝の眼覚めとちがっている。ひょっとすると、病気にとりつかれたのではあるまいか。……  そんなことを考えているうちに、さっと珠世の脳裏によみがえってきたのは、あの湖心での出来事である。ぐらりと傾いたモーターボート、佐智に抱きすくめられたとたん、鼻孔を覆うたあのしめったハンケチ。……それからあとはいっさい無である。  珠世は突然、ベッドの上から跳ね起きた。悲鳴がのどをついて出ようとするのをやっとおさえた。悲鳴はやっとおさえたけれど、全身がふるえてやまなかった。皮膚の表面が熱くなったり、寒くなったりした。  珠世はパジャマのまえをかきあわせ、じっと自分の体内を凝視する。  これがアレの証拠ではないだろうか。この頭の重さと体のけだるさ……これが純潔をふみにじられた証拠ではあるまいか。  珠世ははげしい怒りに体がふるえた。怒りのあとから、なんともいえぬ悲しみと絶望がこみあげてきた。  珠世はベッドの上に座ったまま、身動きしないで眼を見はっている。絶望のために、あたりがまっ暗になったような気持ちだった。  だが、そのうちに珠世は、妙なことに気がついた。彼女がいまいるのは、自分自身の寝室であり、彼女が寝ているのは、彼女自身のベッドであった。パジャマもちゃんと自分のものを身につけている。  これはいったい、どうしたことであろうか。  佐智は自分を|辱《はずか》しめるのに、この部屋へつれこんだのであろうか。いやいや、そんなことは信じられぬ。と、すれば、佐智はかれの邪悪な望みを果たしたのちに、自分をここへつれてかえったのであろうか。……  珠世の胸に、また新しい、悲しみの憤りがこみあげてくる。  そのとき、ドアの外でかすかな物音が聞こえた。珠世はあわてて、毛布を胸にまきつけながら、 「だれ?」  と、鋭く尋ねた。すぐに返事がなかったのでもう一度、 「だれかそこにいるの」  と、重ねて尋ねると、 「ごめんなせえ。お嬢さん、ご気分はどうかと心配になったもんだで……」  猿蔵の声であった。相変わらず素朴な飾り気のない調子だったが、やさしい懸念があふれている。珠世はすぐには返事ができなかった。  猿蔵は知っているのだろうか。自分が佐智のために女としてこの上もない恥辱を負わされたかもしれないことを。…… 「ええ、あの、いいのよ。別に変わったことはないのよ」 「へえ、それはけっこうで、……ときに、お嬢さん、それについてぜひおまえさんのお眼にかけたいものがございまして……へえ、一刻も早く、お眼にかけたほうがいいと思うんですが……いえ、一刻も早くご覧になったほうが、お嬢さんもご安心がいくと思うんですが……」 「なんなの、それ?」 「紙きれでごぜえます。小せえ紙きれでごぜえます」 「あたしがその紙きれを見ると、安心ができるというの」 「へえ、さようで」  珠世はちょっと思案をしたのち、 「それじゃ、ドアのすき間からさしこんでちょうだい」  彼女はまだだれにも会いたくなかったのだ。猿蔵にさえ、顔を見られたくなかったのである。 「へえ、それじゃ、ここからさしこんでおきますだで。……それをご覧になったら安心できます。落ち着いてからいずれゆっくりお話ししますが、まあ、しばらく、静かに寝ておいでなさいまし」  まるで乳母のように優しい、いたわりに満ちた調子である。珠世はふっと涙ぐんだ。 「猿蔵、いま、何時ごろ」 「へえ、十時ちょっと過ぎでございます」 「それはわかっているけれど……」  枕元の時計を見ながらつぶやく、たゆとうような珠世の声に、猿蔵もはじめて気がついたように、 「ああ、これはおらが悪かった。おまえさんには見当がつかねえんだな。へえ、いまは昨日の今日でごぜえますよ。あれから一晩あけて、いまは朝の十時過ぎ……おわかりかな」 「ああ、そう」 「それじゃ、紙きれをここにさしこんでおきますだでな、これを読んでゆっくり休んでおいでなせえまし、おらは向こうで、署長が呼んでいなさるようだで、ちょっと行ってまいりますだ」  猿蔵の足音が廊下へ出て、しだいに遠ざかっていくのを待って、珠世はベッドからすべりおりた。いま猿蔵のさしこんでいった紙きれが、ドアのすきからのぞいている。  珠世はそれを持ってベッドへもどった。手帳の紙を引き裂いたような小さな紙片に、わかりにくい字でなにか書いてある。珠世は枕元の電気スタンドに灯をつけた。  それは、どう見ても、筆跡をくらますためとしか思えない、妙にギクシャクと、しゃちこばった字であった。珠世はそれを読んでいくうちに、さっと全身の冷えていくのを覚えたが、すぐまたつぎの瞬間、体じゅうが燃えるように熱くなるのを感じた。  そこにはこんなことが書いてある。  ——佐智君は失敗した。珠世さんは現在もいままでと変わりなく純潔であることを証明す。 [#地から2字上げ]影の人  ほんとうだろうか、これは。……いったい、影の人とはどういう人だろう。いやいや、それより猿蔵は、どうしてこんな紙きれを持っているのだろうか。…… 「猿蔵! 猿蔵!……」  珠世はあわてて猿蔵の名を呼んだが返事がないことはもちろんである。  珠世はちょっと思案をしたのちに、ベッドからすべりおりると、大急ぎで着物を着替えた。まだ、少し体がふらつくのだが、そんなことをいっている場合ではない。この疑惑——この恐ろしい疑惑から一刻も早く解放されなければならぬ。  着物に着替えて、簡単に朝の化粧をすませると、珠世は猿蔵を求めて廊下へ出た。猿蔵の姿は離れのどこにも見当たらなかった。  そうそう、署長さんが来て、呼んでいるとかいってたっけ——、思い出した珠世が、廊下づたいに母屋のほうへやってくると、広間のドアがひらいて、なかにおおぜい集まっているのが見えた。 「あら、珠世さま!」  珠世の姿を見つけて、いちばんにとび出してきたのは小夜子であった。 「お加減がお悪いとうかがってましたけど、いかがですの。ほんとうになんだか、お顔の色がお悪いわ」  そういう小夜子自身も、ひどくすぐれぬ顔色である。 「ええ、ありがとう。小夜子さま」  珠世は広間のなかをのぞいてみて、 「なにか、またございましたの」  と、|眉《まゆ》をひそめた。  広間のなかには橘署長や金田一耕助をはじめとして、犬神家の一族が、全部顔をそろえている。しかも、佐智の姿が見えないのと、猿蔵が妙に片意地な面構えをしてひかえているのが、ふっと珠世の心をくもらせた。 「ええ、あの、ちょっと……」  小夜子は物問いたげな眼で、珠世の顔をうかがいながら、 「佐智さんの姿が見えませんのよ。昨夜から……」  珠世はパッと|赧《あか》くなった。小夜子は昨日のことを知っていて、自分にかまをかけようというのであろうか。 「はあ、それで……?」 「それで、梅子叔母さまや、幸吉叔父さまが心配なすって、署長さんにお電話したんですの。ひょっとするとまた……なにか変わったことが起こったんじゃないかしらって……」  小夜子の顔は心痛のためにかわいそうなほどゆがんでいる。おそらく、佐智|失《しっ》|踪《そう》のため、いちばん心をいためているのは、両親の梅子や幸吉よりも、小夜子自身だったろう。  そこへ広間のなかから、にこにこしながら出てきたのは橘署長であった。 「珠世さん、気分が悪いということでしたが大丈夫ですか」 「はい、あの……」 「もし、よかったら、こっちへお入りになりませんか。実はあんたに、助けていただきたいことがございましてな」  珠世は署長の顔を見た。それから広間のなかにいる猿蔵のほうへ眼をやった。猿蔵はおこったように眼をいからせて珠世の顔を見つめている。  珠世はたゆとうような眼で署長を見ながら、 「あの……いったい、どういうことでございましょうか」 「まあ、こっちへお入りなさい」  珠世は仕方なしに広間へ入ると、署長の指さす椅子に腰をおろした。小夜子は気遣わしそうにそばへよってきて、椅子の後ろに立った。佐智の両親や、竹子夫婦、それから松子、佐清の親子が、それぞれの場所に、思い思いの格好で腰をおろしている。金田一耕助は少しはなれたところに立って、さりげなく一座の様子を見守っていた。 「お助け願いたいというのはほかでもありません。いや、小夜子さんからお聞きになったでしょうが、佐智さんの行方が昨夜からわからないんです。なんでもないことかもしれないが、こんな場合ですから、御両親がとても御心配なすって、至急行方をさがしてくれとおっしゃるんです。ところが……」  署長はさぐるような眼で、珠世の顔を見つめながら、 「いろいろ調べているうちに、猿蔵君がそれを知っているんじゃないかと思われる節がある。ほかの奉公人がそういうんですね。そこでいま猿蔵君にきいているんですが、猿蔵君のいうのに、これはお嬢さんにも関係のあることだから、お嬢さんのお許しが出ない以上は、絶対にいえない。……と、こうがんばっているんです。それで、お願いというのはひとつあなたの口から、猿蔵君にそれをいうようにおっしゃっていただけませんか」  珠世はさっと、全身の血が冷えていくのをおぼえた。彼女ははじめて自分が容易ならぬ場面へ顔を出したことに気がついたのだ。署長はなにも知らない。なにも知らないからこそ、このように無慈悲なことを、平気で頼めるのだろう。珠世は煮え湯をのむような思いで眼を閉じたが、そのとき強く彼女の腕を握るものがあった。眼をあげてみると小夜子であった。小夜子は涙をたたえた眼で、哀願するように珠世を見つめている。珠世は掌のなかに持っていた、あの「影の人」の手紙を思わずかたく握りしめた。 「はあ、あの——そのことならば、あたしも猿蔵に聞きたく思っていたところでございます。でも、猿蔵の話をきくまえに、あたしの話からきいていただきましょう。そうしなければ、話が前後してよくおわかりにならないかもしれませんから」  珠世の|双頬《そうきょう》からは、すっかり血の気がひいていた。膝の上においた両手が、かすかにブルブルふるえていた。しかし、彼女はよどみなく湖心における昨日の経験を一同のまえに物語った。もっともそれは、そんなに長くかかる話ではなかったけれど。……  話を聞きおわった一同は、|愕《がく》|然《ぜん》として珠世の顔を見直した。佐智の両親、梅子と幸吉は意味ありげに顔を見合わせている。橘署長もこの残酷な話をしぼり出した自分の過失に気がついたのか、しきりにギゴチない|空《から》|咳《せき》をしている。小夜子は大きな眼をみはって、珠世の手を握りしめた。珠世はそれを握りかえしてやりながら、 「そういうわけで、モーターボートへ乗りうつってからあとのことは、わたしはなにも知らないのです。佐智さんにどこへつれていかれたのか、なにをされたのか……」  珠世はそこでちょっと息をのんだが、すぐ勇をふるって、 「わたしには全然記憶がありません。そしてさっき眼がさめてみたら、わたしは自分のベッドに寝ていました。しかも、そのことについて、どうやら猿蔵が知っているらしく思われるのです。そういうわけですから、猿蔵の話をいちばん聞きたく思っているのは、皆様がたよりもかくいうわたしなのです。わたしは聞きたいのです。知りたいのです。佐智さんが、わたしにどんなことをしたかを……」  できるだけ落ち着くように努めていても、おさえがたい怒りが、青白い炎となって吹きあげる。声がふるえて|甲《かん》|走《ばし》った。小夜子が悲しげに、その手を握りしめる。 「さあ、猿蔵、いっておくれ、いいえ、なにも遠慮することはないのよ。あなたの知ってるだけのことを言っていただきたいの。どんな悪いことでも、あとでやっぱりそうだったのかと思い当たるより、いま、ここでハッキリ知っておきたいの。そして覚悟をきめておきたいの」 「お嬢さま、さっきの紙きれをごらんになりましたか」 「はい、見ましたよ。この紙きれについての説明も、いっしょに聞くことにしましょう」  猿蔵はソワソワとくちびるをなめながら、ボツリボツリと昨日のことを話しはじめる。話しなれないかれは、少し長い話になると、すらすらしゃべることができないのだ。だから、署長や珠世が、おりおり言葉をはさんで、あとをうながしてやらねばならなかった。  猿蔵の話によるとこうである。昨日の夕方、四時ごろのことであった。猿蔵のもとへどこからともなく電話がかかってきた。電話は珠世のいどころを知らせてきたのであった。猿蔵にはよく意味がわからなかったけれど、事をあらだてると、珠世の恥になることだから、だれにも知らさず、そっと迎えにいったらよかろうということであった。そして、いうだけのことをいってしまうと、相手は電話をきってしまった。 「それで、猿蔵さんは迎えにいったわけだね」 「へえ、だれにも知らしちゃいけねえというだで、こっそりボートで行ったんで」 「すると、はたして珠世さんが、豊畑村の空き家にいたんだね」 「へえ」 「そのときの様子をもっと詳しく話してくれませんか。佐智さんはもうそこにはいなかったのかね」 「お嬢さんはベッドの上に寝てただ、おらてっきり死んだんだと思っただ。それほど顔色が悪かったんだで。でもすぐそうじゃねえことがわかりました。お嬢さんは薬をかがされて眠っていたんで。口のはたに、強い薬のにおいがしてましただ」 「佐智は……それよりも、佐智はどうしたんです」  梅子のヒステリックな声が、広間の静けさをつんざいた。  それを聞くと、猿蔵はものすごい勢いでそのほうへふりかえった。ギラギラする眼で相手の顔をにらみすえた。 「佐智?……おお、あの畜生か、あの畜生もそこにいただよ。ああ、同じ部屋にいただ。だけど、あいつはどうすることもできなかっただよ。半分裸で、がんじがらめに|椅《い》|子《す》に縛りつけられていただからな、おまけに猿ぐつわをはめられてよ。みじめなざまったらなかっただよ」 「猿蔵さん、きみがしばりあげたのかね」  そばから金田一耕助がおだやかに言葉をはさんだ。 「いいや、おらじゃねえ。おらじゃねえさ。たぶんおらに電話をかけてきた『影の人』のしわざでがんしょ」 「影の人——?」  署長が|眉《まゆ》をひそめて、 「影の人とはなんですか」 「お嬢さん、さっきの紙きれをお持ちだか」  珠世がだまってあの紙片を署長にわたした。署長はそれを読むと、ほほうというふうに眉をつりあげたが、すぐにそれを金田一耕助にわたした。金田一耕助も驚いたように眉をひそめた。 「猿蔵さん、この紙きれはどこにあったのですか」 「お嬢さんの胸の上に、安全ピンでとめてあったんです」 「なるほど、署長さん、この紙きれは大事にとっておかれたらいいでしょう」 「ああ、とにかくお預かりしておこう」  署長はその紙きれをポケットにしまいながら、 「ところで、猿蔵さん、それからきみはどうしたのかね。珠世さんをつれてかえったのかね」 「へえ、さようで、ああ、そうそう、行きがけはボートだっただが、かえりはモーターボートでしただよ。佐智の畜生の乗っていったボートに、かまうことはねえと思って乗ってかえっただ」 「そして、佐智は……佐智はどうしたんです」  梅子夫人がまた金切り声をあげた。 「佐智か。あいつはまだあの部屋にいるのだろうよ。おらなにも、あいつまでつれてかえる義理はねえからな」  猿蔵はせせら笑った。 「縛られて、……猿ぐつわをはめられたまま……」  梅子夫人が悲鳴をあげた。 「ええええ、そうだよ。おまけに上半身は裸でな。おら口をきくのも汚らわしかったので、あいつがもがいているのを相手にもなってやらなかっただ。いや、そうでもねえか。出がけにうんとでっけえビンタを、一つ食わしてやりましただね、ははははは……」  梅子夫人が気が違ったように立ち上がってわめいた。 「だれか行って、あの子を助けてやって……あの子は凍え死んでしまう」  那須湖の水門から、モーターボートが出ていったのは、それから間もなくのことだった。モーターボートに乗っているのは、橘署長に金田一耕助、それから佐智の父の幸吉と案内役に猿蔵。小夜子もどうしてもついていくといっしょにモーターボートに乗っていた。  豊畑村の三角州へつくと、昨日、猿蔵の乗り捨てていったボートが、まだ葦の間にうかんでいた。それから見ても、佐智がまだこの空き家にいることはたしかであった。  そうだ、佐智はその空き家にいたのだ。  猿蔵の案内で、一同が例の殺風景な寝室へ入っていくと、上半身裸のままの佐智は、猿ぐつわをはめられ、後ろ手に椅子にしばりつけられたまま、がっくりと首をうなだれていた。 「はははは、やっこさん、気を失ってやがらあ! これで少しはお|灸《きゅう》が身にしみたろう」  猿蔵が憎々しげに毒づいた。幸吉がそばへ走りよって、急いで猿ぐつわをとり、息子の顔を上へあげた。  だが、そのとたん、悲鳴とともに、幸吉がはなしたので、佐智の首は折れるようにガクリと再び下にさがった。そして、それと同時に、人々は見たのである。佐智の首に奇妙なものが巻きついているのを。  それは琴の糸であった。琴糸は佐智の首に三重に巻きつき、しかも皮肉にくいいって、恐ろしい|痣《あざ》をつくっている。たまぎるような悲鳴が起こって、だれかが床に倒れた。小夜子であった。      |傷《いた》ましき小夜子  琴の糸、ああ琴の糸。——知らせによって駆けつけてきた、那須署の連中が大騒ぎをして現場写真を撮っているのを、ぼんやり見守っている金田一耕助の頭には、いま、恐ろしい想念が渦巻きはじめている。  佐武が殺されたとき、かれの首が胴から斬りはなされて菊人形の首とすげかえてあった。当時、耕助はその意味がわからなくて苦しんだが、いまこうして、第二の死体の首に、琴の糸がまきついているのをみると、ある恐ろしい疑いが、稲妻のようにかれの頭をさしつらぬくのである。  琴と菊。——それはともに犬神家の祝い言葉で、家宝となっている|斧《よき》、琴、菊のひとつではないか。してみると、こんどの連続殺人には、犬神家の祝い言葉、——家宝となにか関係があるのだろうか。あるのだ。あるにちがいない。佐武の場合の菊人形だけならば、偶然としてすませることができたかもしれないが、こうして第二の事件に琴がからんできたからには、偶然というには、あまりに符節があいすぎる。  そうだ。この連続殺人は、なにかしら犬神家の嘉言、あるいは家宝に深い関係があるにちがいない。そして犯人は故意に、そのことを誇示しようとしているのだ。……金田一耕助はそう考えてくると、突然、また新しい恐怖に、全身が氷のように冷えゆくのをおぼえた。  斧、琴、菊の三つのうち、琴と菊が使われたからには、斧もいつかは使用されるのではあるまいか。だが、それはいったいだれに……?  金田一耕助の網膜に、そのときありありとうかんだのは、仮面をかぶった佐清の面影。……菊が佐武に、琴が佐智に使われたからには、のこりの斧は、のこりの一人、佐清に使用されるのではないか。……そこまで考え及んだとき、金田一耕助は突然、全身に|粟《あわ》|立《だ》つような恐怖をおぼえた。なぜならば、三人を殺して、いちばん利益をうけるのが、だれであるかに思い及んだからである。  それはさておき、橘署長の命令で、写真技師の一行が椅子に縛りつけられた佐智の死体を、あらゆる角度から撮りおわったところへ、嘱託医の楠田氏があたふたと駆けつけてきた。 「橘さん、また、|殺《や》られたって?」 「やあ、先生、どうもいけません。こういう事件はいいかげんに、願いさげにしてもらいたいものだが……綱をときましょうか」 「いや、ちょっと待ってください」  楠田氏は椅子に縛られた佐智の死体を、子細に調べていたが、それがおわると、 「じゃ、どうぞ綱をといてください。写真は?」 「すみました。川田君、綱を」 「あ、ちょっと待ってください」  刑事が綱をとこうとするのを、あわててとめたのは金田一耕助だった。 「署長さん、猿蔵をここへ呼んでくれませんか。綱をとくまえに、もう一度よくたしかめてみたいと思いますから」  刑事に呼ばれて入ってきた猿蔵は、さすがにこわばった表情だった。 「猿蔵さん、念のためにもう一度きいておきたいんだが、あんたが昨日ここへ来たときは、佐智さんはたしかに、この椅子に縛りつけられていたというんですね」  猿蔵は陰気な表情をしてうなずいた。 「そのとき、佐智さんはたしかに生きて……?」 「へえ、そりゃあもう……」 「佐智さんはそのときなにかいいましたか」 「へえ、なにかいおうとしたようだが、なんしろ、そのとおり猿ぐつわをはめられているだで、言葉が出なかったようで……」 「きみは猿ぐつわを、とってやろうとも、しなかったんですね」  猿蔵はムッとしたように耕助をにらんだが、すぐその眼をそらすと、 「そりゃあ、おらだってこんなことになると知ったら、猿ぐつわはおろか、綱もといてやっただが、……なんしろそのときは、腹が立ってたまらなかったもんだで、……」 「ビンタをくらわしたというわけですか」  猿蔵は陰気な表情をしてうなずいた。さすがにそのときの自分の所業を、いまになって後悔しているのかもしれない。 「いや、よくわかりました。それであんたが珠世さんをつれてここを出ていったのは……?」 「へえ、四時半か、かれこれ五時にちかかったかもしれません。あたりが暗くなっていましたから」 「なるほど、すると、四時半から五時ごろまでのあいだには、佐智さんはまだ生きていたということになりますね。まさかあんたが行きがけの|駄《だ》|賃《ちん》とばかりに、|殺《や》ったんじゃ……」 「と、とんでもない。おらただぶん殴ってやっただけのことなんで……」  猿蔵がムキになって抗弁するのを、金田一耕助はおだやかになだめると、 「それじゃ最後にもうひとつ尋ねるがね、あんたが立ち去ったときの佐智さんの体の状態だが、たしかにこのとおりにちがいなかったかね。綱の結び目やなんか……」 「さあ。……そばへよって調べたわけじゃねえだで、結び目まではわからねえが、だいたいそういう格好だっただよ」 「ああ、そう、ありがとう。向こうへ行っていいよ。用事があればまた呼ぶから……署長さん、ちょっと見てください」  猿蔵が立ち去るのを待って、金田一耕助は橘署長のほうをふりかえった。 「綱をとくまえに、よく見ておいていただきたいのですがね。佐智君の上半身には、ほら、このとおり、いちめんにかすり傷がついていますよ。あきらかにこれは綱のためにできたかすり傷ですね。これだけかすり傷ができるためには、綱は相当ゆるんでいなければならんはずだのに、このいましめはこのとおり……」  金田一耕助は佐智をしばりあげた綱のあいだに、むりやりに指をおしこみながら、 「指一本さしこむことさえむずかしいほど、ガッチリと、小ゆるぎもなく、佐智君の体に食いいっているのですよ。これはどういうわけでしょう」  橘署長は不思議そうに眼を見はった。 「金田一さん、そ、それはどういう意味かな」 「どういう意味か、……それをぼくも考えているんです」  金田一耕助はぼんやりと頭をかきまわしながら、 「とにかく、これは妙なことですよ。このいちめんのかすり傷と、小ゆるぎもせぬいましめと……署長さん、このことをよく覚えていてください。いや、失礼しました。どうぞ綱をおときになって……」  いましめはとかれて、佐智の死体は寝台の上に寝かされた。楠田医師がそれを調べているところへ、刑事がひとり顔を出して、 「署長さん、ちょっと……」 「うん、なに?」 「ちょっと見ていただきたいものがあるんですが」 「ああ、そう、川田君、きみはここにいてくれたまえ。先生になにか用事があるかもしれんからね。それから先生」 「はあ?」 「もう一人、気絶した婦人が別室にいるんですが、ここがすんだらそのほうもみてやってください。犬神家の小夜子さんですが……」  署長のあとから金田一耕助もついてゆくと、刑事が案内したのは、台所の隣りにある湯殿の脱衣場だった。みるとそこの板の間に、七輪がひとつ、|鍋《なべ》、|釜《かま》、|土《ど》|瓶《びん》、|蜜《み》|柑《かん》箱のなかに炭が半分、金田一耕助と橘署長は、それを見ると思わず眉をつりあげた。あきらかに近ごろだれか、そこで炊事をしていた者があるのだ。 「ねえ、署長さん」  刑事はふたりの顔を見ながら、 「佐武の事件の直後、私たちはこの空き家を調べたことがあるんですよ。柏屋へ泊まったという、復員風の男が、ひょっとするとかくれてやあしないかと。……ところがそのときにはこんなもの、絶対になかったんです。だからだれがもぐりこんだとしても、きっとそのあとにちがいないんです」 「なるほど」  金田一耕助がうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「あなたが一度ここをお調べになった。だからこここそいちばん安全なかくれ場所である。と、そいつはそう考えたのかもしれませんね」 「そうなんです。私もそれを考えていたんですが、そうなると、そいつは私たちがここを調べたということを知っていたことになる。どうしてそれを知ることができたか……」 「そ、それですよ、け、刑事さん、ぼくが非常に興味をおぼえているのは。……ひょっとすると刑事さんたちのやることは、万事そいつに筒抜けになっているのかもしれませんよ」  金田一耕助はいかにもうれしそうな様子だったが、橘署長はむしろ不きげんそうに、 「金田一さん、それはどういう意味かな。あんたの話をきいていると、まるでここにいたのが、われわれの探している人物にちがいないようにおっしゃるが、そうとは限らんでしょう、だれか別の風来坊が……」 「いや、ああ、署長さん、あなたに見ていただきたいのはここばかりじゃないので……」  刑事は湯殿へ通ずるドアをひらくと、 「ごらんください。ここにかくれていたやつはここの風呂場で洗いものをしていたんですよ。煮炊きもここですればよかったのだが、そうすると光が外へもれるおそれがある。台所でもやはりそのおそれがあるので、脱衣場以外に煮炊きをする場所はなかったわけです。ここならば、外から絶対に見えませんからね。ところでこの風呂場ですが……」  刑事はしかしそれ以上いう必要はなかったのだ。菜っ葉くずなどの散らかっている白いタイルの上にくっきりとそれこそ判でおしたようについているのは、まぎれもなく、大きな兵隊靴の跡ではないか。橘署長もそれを見ると、思わず太いうなり声をもらした。 「むろん、兵隊靴をはいてるからって、われわれの探している人物とは限りません。しかし前後の事情から判断して……」 「なるほど、こういう靴跡がある以上、その可能性に一歩接近したことはたしかだね。西本君、この靴跡は型にとっておきたまえ」  橘署長はそこで金田一耕助のほうへふりかえると、おこったようにしゃべり出した。 「すると、なにかな、金田一さん、復員風の男がここにかくれているのも知らずに、佐智のやつが珠世をここへつれこんだ。そこで、そいつと佐智のあいだに争いがあって、佐智は椅子にしばりつけられた。ここにかくれていたやつは佐智を椅子にしばりつけると、猿蔵に電話をかけて、珠世がここにいることを知らせた。そこで猿蔵がやってきたが、あいつは珠世をつれもどしただけで、佐智は椅子にしばりつけられたままほうっておいた……と、いままでわかっているところでは、こういうことになるのだが、しかし、そうなると、金田一さん」  署長は言葉に力をこめて、 「佐智を殺したのはいったいだれだね。猿蔵が立ち去ったのち復員風の男がひきかえしてきて、改めて佐智を絞め殺したというのかね」  金田一耕助はゆるく頭をかきまわしながら、 「署長さん、ぼくもいまそのことを考えていたところですよ。そいつ、佐智君を殺すのなら、なぜ、猿蔵を呼ぶまえに殺さなかったか。いったん、猿蔵を呼んだ以上、この家が注目されることはわかりきっている。幸か不幸か猿蔵はああいう男で、今朝までだまっていましたが、ここにかくれていた男は、そんなことを当てにするわけにはいかなかったでしょうからね。と、すれば猿蔵にいったんここを教えたのちに、舞いもどってくるというのは、非常に危険な話ですよ。それに……いや、いずれにしても、佐智君の殺された時刻がハッキリしないことには、めったなことはいえませんがね」  橘署長はだまって考えていたが、やがて刑事のほうをふりかえると、 「西本君、ほかになにか……?」 「はあ。もうひとつ、物置きを見ていただきたいのですが……?」  その物置きというのは、勝手口のすぐ外にある、二坪くらいの建物だったが、ガラクタなどのいっぱい詰まった土間のすみに、まだ新しいわらが|堆《うずたか》くつんであった。  金田一耕助と橘署長は、それを見ると思わず眼を見はった。 「ここで寝泊まりしていたんですね」 「そうですよ。ちょうど収穫のあとですから、いたるところにわらぐろができている。そのなかから少しずつ抜いてくれば、だれだって気づきゃしませんよ。それにほら」  と、刑事はぐさぐさとわらを踏みながら、 「わらはこんなに深いのだから、なまなかの|煎《せん》|餅《べい》布団より、どれだけ暖かいかしれませんぜ」 「なるほど」  橘署長はぼんやりと、わらの寝床を見つめながら、 「すると、ここにだれかがかくれていたということは、もうまちがいのない事実ということになるのかな。まさかこれ、見せかけじゃ……」 「見せかけですって?」  刑事がびっくりしたように尋ねると、橘署長は突然、おこったような語気になってこんなことをしゃべり出した。 「ねえ金田一さん、昨日ここでどんなことが起こったのか、ほんとうのことはまだちっとも、われわれにはわかっちゃいないんですぜ。なるほど、われわれは珠世と猿蔵の口から一応もっともらしい話はきいた。しかし、それが真実だとは、だれが保証するんです。珠世の話だと、佐智が眠り薬をかがせて、彼女をここへつれこんだというが、ひょっとするとその反対に、珠世こそ佐智を誘惑して、ここへつれこんだのかもしれんじゃありませんか。猿蔵は正体不明の人物から電話がかかって、ここへ来たということになっているが、それだってうそで、あいつのほうがさきに来て、ここで待ち伏せしていたかもしれんじゃないか。金田一さん、あんたも覚えていなさるだろうが、あいつは網をつくろう材料として、古い琴の糸を持っているんですぜ」  西本刑事はあっけにとられたように署長の顔を見直して、 「署長さん、するとあなたのお考えでは、ここに残ってるいろんな|痕《こん》|跡《せき》は、みんな見せかけだ、とおっしゃるんですか。そして、佐智殺しは珠世と猿蔵が共謀して……」 「いや、断言はせん。しかし、そういうふうに考えられないこともないということを言っているんだ。それにあの靴跡だが、あれはどうもハッキリし過ぎている、まるで判でおしたように。しかし……まあ、いい、きみはきみの考えでもっと詳しく調べてみたまえ。金田一さん、楠田君の仕事もソロソロおわっている時分だ。行ってみよう」  二人が二階へかえってみると、医者のすがたは見えなくて、刑事がひとり死体の番をしていた。 「川田君、楠田さんは?」 「はあ、あちらの御婦人のほうへ、おいでになりましたが……」 「ああ、そう、で|検《けん》|屍《し》の結果は」 「はあ、それについては、いずれ解剖のうえ詳しい報告が出るそうですが、だいたいのことを申し上げますと……」  と、川田刑事は手帳を見ながら、 「死後の経過時間は、だいたい十七時間から十八時間ということになっています。したがって現在の時間から逆算すると犯行のあったのは、昨夜の八時から九時までのあいだということになります」  昨夜の八時から九時までのあいだと聞いて、橘署長と金田一耕助は、思わず顔を見合わせた。猿蔵の話によるとかれがここを出ていったのは、夕方の四時半から五時までのあいだだったという。してみると、だれに殺されたにしろ、佐智はそれからなお、三時間ないし四時間も、椅子にしばりつけられたまま生きていたということになるのか。  刑事は二人の顔を見くらべながら、 「そうです、そういうことになるのです。ところが不思議なのはそればかりではなく、死体に巻きついている琴の糸ですがね。これは死後巻きつけられたもので、被害者が実際にくびり殺されたのは、この琴糸ではなくもっと太いひものようなものであったろうと、楠田さんはいってるんですが」 「な、な、なんだって!」  橘署長は文字どおりとびあがったが、そのときだった。まるでその声に反響するかのように、向こうの部屋からけたたましい女の金切り声がきこえてきた。  金田一耕助と橘署長は、ギョッとしたように顔見合わせる。小夜子であることはわかっていたが、それがあまりにもいたいたしい、悲痛なひびきをおびていたからである。 「署長さん、行ってみましょう。あの声はただごとではない」  小夜子は三つばかり離れた部屋で、猿蔵と幸吉の介抱をうけていたが、金田一耕助と橘署長は、一歩その部屋へ踏みこんだ|刹《せつ》|那《な》、思わず、|呆《ぼう》|然《ぜん》として立ちすくんでしまった。  左右から猿蔵と幸吉に抱きすくめられた小夜子の顔は、もはや常人のそれではなかった。眼はつりあがり、|頬《ほお》の筋肉が信じられないほどの勢いで|痙《けい》|攣《れん》している。そしてまたひどい力だ。あの強力の猿蔵でさえが、どうかすると、ふりとばされそうになるのである。 「猿蔵、しっかりおさえていてくれよ。もう一本打つからな。もう一本やれば大丈夫と思うが……」  楠田氏が手早く何本目かの注射をうった。小夜子のくちびるからはふたたび、三度、腸をえぐるような悲痛な叫びがもれたが、それでも薬がきいたのか、しだいに静かになっていくと、やがて彼女は猿蔵の胸にもたれて、子どものように眠りこんでしまった。 「かわいそうに」  楠田氏が注射器をしまいながら、沈痛な声でつぶやいた。 「取りのぼせたんですよ。一時的な発作でおさまればよいが……」  橘署長がそれをききとがめて、 「先生、それじゃ、発狂のおそれがあるというんですか」 「なんともいえんな。ショックがあまり大き過ぎたから。……署長」  と、楠田氏はむずかしい顔をして、橘署長と金田一耕助を見くらべながら、 「このひとは妊娠しているんだよ。妊娠三か月」      人差指の血  佐智が殺された——  佐智が死体となって発見されたというニュースは、湖水の向こうから電流のように、犬神家につたわって、わっとばかりにしびれるような恐慌状態をそこにえがきだしたのだ。とりわけ、この報告によって、いちばん大きなショックをうけたのが、佐智の母梅子であったということは、事新しく述べるまでもあるまい。  梅子は昨夜来の不安と心痛のために、持病のヒステリーが|昂《こう》じ気味だったところへこの凶報がとどいたものだからとうとうそれが爆発したのだ。彼女は悲嘆と痛憤のあまり、この凶報をもたらした吉井刑事に向かって、あられもないことを口走ったというのだが、それは人の母として無理がないとしても、ここに聞き捨てにならないのは、佐智の変死をきいた刹那、彼女はこんなことを叫んだというのである。 「畜生! 畜生! 松子のやつ! あいつが殺したのだ。あいつが佐智を殺したのだ。刑事さん、あいつをつかまえてください。松子をつかまえて死刑にしてください。いいえ、いいえ、ふつうの死刑じゃ物足りないわ。逆さづりにして八つ裂きにして、火あぶりにして、髪の毛を一本一本ひん抜いてやりたい」  梅子は|夜《や》|叉《しゃ》のように|猛《たけ》りくるって、その他さまざまな恐ろしい刑罰をならべ立てたのち、やがてさめざめと泣き出した。そして、泣いているうちに、いくらか心が落ち着いたのか、泣きじゃくりをしながら、吉井刑事に向かってこんなことをいったというのである。 「ねえ刑事さん、あなたも先代の遺言状のことはご存じでしょう。あの遺言状さえなければ、松子のせがれの佐清が、犬神家の相続人になれたのです。松子もそのつもりで、そうなったら自分は佐清の|後《うし》ろ|楯《だて》になって、尼将軍みたいに威勢をふるうつもりだったんです。ところが、どうでしょう。お父さんの遺言状のおかげで松子のやつは、すっかり目算がはずれてしまった。犬神家の相続人になるためには、珠世と夫婦にならなければならない。ところがどうでしょう、自分のせがれの佐清は、クチャクチャに顔がくずれて、|柘《ざく》|榴《ろ》みたいに赤くはじけて……ああ、いやらしい、思い出してもゾッとするわ。珠世がいかに物好きでも、なんでそんな化け物をお婿さんにするもんですか。それですからこの婿選びの競争では、はじめから佐清は負けにきまっているんです。松子のやつはそれがくやしくて、まずは佐武さんを殺し、それからうちのせがれの佐智を殺したんです。こうして二人を殺してしまえば、いやでも珠世はあの化け物と夫婦になるにきまっています。もしまた珠世がいやだといえば、相続権がなくなるわけですから、そのときこそは佐清が、犬神家の全財産をひとりじめにすることができるんです。ああ、悪人、悪人、大悪人の松子め! 刑事さん、あいつをつかまえてください。松子のやつをつかまえてください」  梅子はしだいに言いつのってきたが、そのとき吉井刑事が思い出したように、佐智の死因は絞殺であり、犯人は佐智を絞殺したのちに、どういうわけかその首に、琴の糸を巻きつけていったと報告すると、梅子はびっくりしたように眼を見はった。そして、 「琴の糸ですって?」  と、とまどいしたような眼つきになって、 「琴の糸で絞め殺されたのですか」  と、ぼんやりきき返した。 「いいえ、そうじゃないんです。絞め殺したのは、もっと太い、ひものようなものらしいですが、そのあとで犯人は佐智さんの首に、琴の糸を巻きつけていってるんです。なんのためにそんなことをしたのか、それが不思議だと署長さんも首をかしげています」 「琴の糸」  梅子がゆっくり口のなかでつぶやいた。それから、もう一度、 「琴の糸……琴……」  と、口のうちで繰りかえしていたが、そのうちに、なにか思いあたるところがあったのか、はっと顔色をうごかすと、 「ああ……琴!……菊!」  と、大きく息をはずませ、そして、それきり、シーンとだまりこんでしまったのである。  さて、豊畑村からの報告で、梅子についで大きなショックをうけたのは、いうまでもなく、小夜子の母の竹子であった。  ただし、彼女がショックをうけたのは、佐智のことではない。佐智が殺されたということは、彼女になんの感慨もあたえなかったようだ。むしろ自分の身にひきくらべて、いい気味ぐらいに思ったかもしれぬ。  ところがそのあとで吉井刑事の口から、小夜子の発狂をきき、さらに小夜子の妊娠をきくに及んで、彼女もまた梅子同様、ヒステリーの発作におそわれ、あられもないことを口走ったのだが、なんと、その内容というのが、梅子の言葉と全然同じだった。  竹子もまた、姉の松子を犯人とよび、彼女が自分の息子の佐清を相続人にするために、佐武と佐智を殺したのだと叫んだ。  しかも、興味深いことには、あの琴の糸に関する吉井刑事の報告に対しても、彼女は梅子とまったく同じ反応を示したそうである。 「琴の糸……琴の糸ですって?」  はじめは竹子も、ただ不思議そうに首をかしげるばかりだったが、そのうちに、なにか思いあたるところがあったらしく、はっと大きく息をうちへ吸うと、 「ああ、琴!」  と、おびえたような眼の色をして、 「そして、このあいだは菊だった!」  と、あえぐように叫び、それきりだまって考えこんだ。そして、刑事や夫の寅之助が、どんなに言葉をつくして尋ねても、だまりこんだまま返事もしなかったが、そのうちに真っ青な顔をして立ち上がると、 「……私梅ちゃんと相談してきます。……まさか、そんなことはないと思うけど、なんだか恐ろしい。……いずれ梅ちゃんと相談のうえ、お話しするかもしれません」  と、まるで幽霊みたいな足どりでフラフラ座敷を出ていったというのである。  豊畑村から報告をうけて、いちばん動じなかったのはいうまでもなく佐清の母松子であった。  吉井刑事が最後に松子夫人の部屋へやってきたとき、彼女は琴の師匠の宮川香琴を相手におけいこをしているところだった。琴の師匠の宮川香琴女史は、佐武の事件があったとき、この那須にいあわせたが、その後、伊那のお弟子さんのあいだをまわって、昨日からまた那須の宿へかえっているのであった。  刑事が入っていくと、その姿を見つけて、仮面の佐清も自分の部屋から出てくると、無言のまま、母と香琴女史のあいだに座った。  どうせわかることだからと、刑事は香琴師匠のいるのも構わず、佐智の殺されたことをつげ、さらに小夜子の発狂をしらせたが、松子夫人はそれをきいても、眉毛一筋動かさなかった。いや眉毛一筋動かすどころか、彼女は平然として琴を弾きつづけているのである。その態度がいかにもしぶとくて、|面《つら》|憎《にく》かった。  刑事の報告をきいて、いちばん驚いたのは、むしろ香琴師匠だったろう。彼女はさすがに刑事が入ってきたときから、琴を弾く手をやめ、つつましく控えていたのだが、刑事の話をきくと、おびえたように不自由な眼を見はり、細い肩をふるわせると、ほうっと深いため息をついた。  佐清はどんな表情をしているのか、これは例によって、仮面のためにわからない。白い仮面がただしらじらと、無気味に静かなだけである。  ちょっとの間、ギゴチない沈黙が部屋のなかに流れた。松子夫人はあいかわらず、平然として琴を弾きつづけている。おそらく彼女は妹たちが、自分をどんな眼でみているかを知っているのであろう。そして、そういう空気を|撥《は》ねっかえすために、わざと虚勢をはっているのであろう。  だが、松子夫人のこの虚勢も、やがてくずれるときが来た。それは刑事が、佐智の首に巻きついていた、琴の糸について語ったときである。 「それで、署長さんも不思議に思っているんです。琴の糸で絞め殺したのならともかく、そうではなくて、ほかのひもで絞め殺しながら、なぜ琴の糸を巻きつけていったのか、まるでそれで、絞め殺したかのように……」  松子夫人の琴を弾く手がしだいにくずれる。あきらかに彼女は、刑事の話に心をひかれはじめたのである。しかし、それでもまだ弾くことをやめなかった。 「だから、犯人は……」  と、刑事が言葉をついで、 「なにかの理由で特別に、琴の糸というものに注意をあつめたかったのだ……と、そう解釈するよりほかに仕様がないのです。琴の糸……あるいは琴かもしれません。ところで、このあいだの佐武さんの事件のときには、菊人形が利用されていましたね。菊人形……すなわち、菊。そして、こんどは琴です。琴と菊。……|斧《よき》、琴、菊……」  そのとたん、松子夫人の指先が、コロコロシャンとすさまじい音を立てたかと思うと、プッツリと琴の糸が一本切れた。 「あっ!」  松子夫人と香琴師匠がさけび声をあげたのは、ほとんど同じ瞬間だった。香琴師匠はおびえたように腰をうかし、松子夫人はいそいで右手にはめている琴爪をはずした。見るといま琴糸が切れた拍子にけがをしたのか松子夫人の人差指のうちがわから、たらたらと血がたれている。  松子夫人は|袂《たもと》からハンケチを出して、いそいでその指に巻きつけた。 「おや、けがをしましたね」  刑事が尋ねた。 「はあ、いま、琴糸が切れた拍子に……?」  香琴師匠は腰をうかしたまま、まだ、はげしい息遣いをしていたが、松子夫人の言葉をきくと、不思議そうに眉をひそめて、 「いま、琴糸が切れた拍子に……?」  と、ひとりごとのようにつぶやいた。  刑事があの、ただならぬ光を松子夫人の眼の中に見たのは、実にその瞬間だったのである。それはまるで、殺気にもひとしい、はげしい憎しみの色だった。しかし、それも一瞬のかがやきで、すぐにもとの冷たい色にかえったので、刑事にはいったいどうしてあのような、はげしい色がうかんだのか、また、憎しみの色がいったいだれに向けられたものなのか、さっぱり見当がつかなかった。  眼の不自由な香琴師匠は、もとよりそんなことには気がつかず、依然として腰をうかしたまま、|動《どう》|悸《き》をおさえるような格好をしている。そして、そのそばには佐清が、手持ちぶさたらしくひかえている。どういうわけか佐清は、さっき香琴師匠があっと叫んで腰をうかしかけたとき、反射的にそばへとんできて、まるで抱きとめるような格好をしたのである。  松子夫人は不思議そうに、そういうふたりを見守っていたが、やがてその眼を吉井刑事のほうにうつすと、 「それはほんとうのことでございますか。佐智さんの首に糸が巻きついていたというのは?」 「あの、わたくし、これで失礼いたします」  だしぬけに香琴師匠がそういった。そしてソワソワと立ち上がった。いまの話におびえたのか、ひどく顔色がわるくて、足もとが少しふらついているようである。 「ああ、それではぼくが、そこまで送ってあげましょう」  佐清がそれにつづいて立ち上がった。香琴師匠は驚いたように、不自由な眼を見はって、 「あれ、まあ、お坊っちゃま」 「いいんですよ。危ないから、そこまで送らせてください」  やさしく手をとられて、香琴師匠もふりほどくわけにはいかなかった。 「恐れ入ります。それでは奥さま、ごめんくださいませ」  松子夫人は首をかしげて、不思議そうに二人の姿を見送っていたが、やがて刑事のほうへ向きなおると、 「刑事さん、いまおっしゃったのは、ほんとのことでございますか。佐智さんの首に、琴の糸が巻きついていたというのは?」  と、もう一度同じことを尋ねた。 「ほんとうですとも。それについて奥さん、なにか心当たりがございますか」  松子夫人はだまってしばらく考えていたが、やがてなにかに|憑《つ》かれたような眼をあげると、 「はあ……あの……ないこともございませんが……あの、妹たちはそれについて、なにか申していませんでしたか」 「はあ、あちらの奥さまも、なにか心当たりがあるらしいんですが、ハッキリおっしゃってはくださいません」  そこへ香琴師匠を送っていった佐清がかえってきたが、かれはそこへ座ろうともせず、だまって二人に頭をさげると、そのまま奥の部屋へ入っていった。するとそのときどういうわけか、松子夫人が、ゾクリと肩をふるわせたのである。まるでそばを通りすぎる佐清の体から、冷たい風でも吹いてくるように。 「奥さん、お心当たりがあったらおっしゃってくださいませんか。こういうことは、ハッキリさせておいたほうがいいんですが……」 「はあ、あの……」  と、松子夫人はあいかわらず、憑かれたような眼の色であらぬかたをながめながら、 「このことは、私の一存では申し上げかねます。それは、あまり不思議で、信じられないことですし、一度、妹たちともよく相談してみたうえで、いずれ、署長さんがお見えになってから。……」  松子夫人はそれから|呼《よ》び|鈴《りん》を鳴らして女中を呼ぶと、古館弁護士にすぐ来てもらうようにと命じ、それきり、だまって考えこんでしまったのである。  橘署長や金田一耕助が、豊畑村からひきあげてきたのはそれから二時間ほどの後のことだった。     第七章 噫無残!  十二畳ふた間をぶちぬいた犬神家の奥座敷、正面の白木の壇にあいかわらず大輪の菊花におおわれた故犬神佐兵衛翁の、老いてなおかつ、昔日の|美《び》|貌《ぼう》のなごりをとどめた端麗な遺影。  そのまえにあつまった犬神家の一族から、今日はまたふたりの男女が欠けている。ちかごろこの座敷にあつまりがあるたびに、まるで歯がぬけていくように、犬神家の一族から重要人物が欠けていくのを、正面の白木の壇にかざられた佐兵衛翁の写真はなんと思っているだろうか。  このあいだは佐武が欠けた。そして今日は佐智と小夜子である。小夜子は恐ろしいショックのために、一時的にとりのぼせているのであろうから、いつかは常態にかえることがあるかもしれないけれど、ちょうどそのころ、那須病院の奥ふかく、手術台の上によこたわって、楠田院長執刀のもとに、解剖がおこなわれているであろう佐智は、二度と犬神家の親族会議につらなることはありえないのである。  こうして佐兵衛翁の血をひく男性は、あの消息不明の青沼静馬をのぞいては、ただひとり、佐清だけがのこったわけである。その佐清はいまもまた、あの白いゴム製の仮面に、人知らぬ山奥の古沼のような無気味な静けさをたたえて、ひっそりと座っているのである。まるで血もかよわぬ冷たい塑像ででもあるかのように。  佐清のそばには松子夫人。  そして、そのふたりから少しはなれたところに竹子と夫の寅之助。  さらにそれから少しはなれて、眼をまっかに泣きはらした梅子と夫の幸吉。  犬神家の一族といえば、もうこれだけになってしまったが、そのなかに、この一団から少しはなれて、珠世がひかえていることはいうまでもない。昨日からうちつづくショックに、珠世はいくらかやつれていたが、そのために、あの照りかがやくばかりの美しさが、そこなわれるようなことは少しもなかった。いやいや彼女の神々しいばかりの美しさは、くめどもつきぬ泉のように底なしであった。見れば見るほど美しさは立ちまさってくるのであった。今日は珍しく珠世のそばに猿蔵もひかえている。  さて、それらのひとびとから少しはなれたところに、豊畑村からひきあげてきた橘署長に金田一耕助。松子夫人に呼びよせられた古館弁護士。さらにひと足さきに豊畑村から凶報をもたらした吉井刑事もひかえている。いずれもいままさに、神秘の|帳《とばり》をかかげようとする緊張のために、息づまりそうな表情である。  一同のあいだにくばられた|桐《きり》|火《ひ》|桶《おけ》のなかで、炭火のはねる音さえきこえるほどの静けさ。|清《せい》|冽《れつ》な菊の香りといっしょに、なんともいえぬものすさまじい鬼気が、座敷のなかにみなぎりわたる。  息づまるような沈黙。——その沈黙をやぶって、口をひらいたのは松子夫人であった。 「それでは、お尋ねにしたがって、私から申し上げます。竹子さん、梅子さん、なにもかもお話ししてもかまわないでしょうね」  例によってしんねり強い調子である。松子夫人に念をおされて、竹子と梅子はいまさらのごとく、おびえたように顔を見合わせたが、それでもしかたなさそうに、暗い眼をしてうなずいた。 「この話は私たちのあいだの秘密で、今までだれにも打ちあけたことのない話です。いえいえ、できることなら生涯だれにも打ちあけたくないし、また、けっしてだれにも話すまいぞと三人でかたくちかいあった秘密なのです。でもこのような事態となっては、もうこれ以上かくしているわけにもまいりますまい。竹子さんも梅子さんも、子どもたちの敵をうっていただくために、どうしてもこの話を打ちあけなければならぬとあらば、それもしかたがないといっております。この話をきいて、あなたがたがわたしどもに対して、どのような感じを持たれようとも、それはもう致し方のないことです。ひとにはそれぞれの立場があります。人間はだれでも自分たちの幸福を守らねばならぬものですし、ましてや母ともなれば、自分のためばかりではなく、子どもの幸福のためにもたたかわねばなりません。たとえひとさまから多少非道のそしりをうけましょうとも」  松子夫人はそこでちょっと、言葉をきると|禿《はげ》|鷹《たか》のように鋭いまなざしで、ギョロリと一同を見まわし、ひと息いれると、ふたたび話しつづけた。 「話はここにいる、佐清の生まれる前後のことですから、かれこれ三十年の昔にさかのぼります。そのころ亡父犬神佐兵衛が青沼菊乃といういやしい女を|寵愛《ちょうあい》していたことは、皆さんもたぶんお聞きおよびのことと存じます。菊乃というのは亡父の経営しておりました、製糸工場につとめていた女で、このころ十八、九でございましたろうか。格別器量がよいというわけでもなく、また、格別|才《さい》|長《た》けているわけでもなく、ただ、おとなしいばかりの平凡な娘でございましたが、どういうふうにしてあれが亡父を|籠《ろう》|絡《らく》いたしましたものか、とにかくその女に手をつけて以来、あれが老いらくの恋とでもいうのでございましょうか、亡父はもうはたの見る眼もあさましいほど、のぼせあがってしまったのでございます。そのころ亡父は、五十の坂を二つ三つ越えていたでしょうか、犬神家の事業の基礎もようやくかたまり、犬神佐兵衛といえば、日本でも一流の事業家にかぞえられておりましたのに、それがまだ十八や十九の、それも自分の工場に使っていた、ごく身分のひくい女工あがりの娘に、うつつを抜かしてしまったのですから、世間に対して、これほど外聞のわるい話はございませんでした」  いまさらのように、当時の怒りがこみあげてきたものか、松子夫人は声をふるわせて、 「さすがに亡父も私どもをはばかったものか、その女をこの家にひっぱりこむようなことはしようとせず、町はずれに手ごろな家を買いもとめて、そこに住まわせておりましたが、はじめのうちは人眼をしのんで、おりおり通っておりましたものが、だんだんずうずうしくなってまいりまして、しまいにはとうとう、入りびたりということになってしまいました。そのころの私ども一家の世間ていのわるさを、まあ考えてみてくださいませ」  松子夫人はますますネツい調子になって、 「これがそんじょそこらによくある、ふつうの金持ちの御隠居が若返ったというならば、まだようございましょう。それほど世間の口の端にのぼるようなこともございませんでしたろう。ところがそれとはことちがい、かりそめにも信州財界の巨頭、長野県の代表的人物、那須町の父ともいわれる犬神佐兵衛のその不始末でしたから、世間の風当たりも強うございました。|喬木《きょうぼく》風に吹かれるたとえのとおり、亡父も偉くなればなるで、政敵、商売がたき、その他いろいろの敵が多うございましたが、それらの連中が時こそいたれとばかりに、新聞には書き立てる。だれがつくったのか、変な、みだらなざれ|唄《うた》をつくってはやらせる。ほんとにあのときのことを思うと、いまも身内がすくむほど、いやな思いをさせられました。でもまだそれだけならばよかったのです。ひとから後ろ指をさされるくらいならば、なんとか辛抱もできないことはございませんでした。ところがそのうちにどうしても聞きずてにならない風評が、私の耳に入ったのでございます」  執念ぶかい松子夫人は、今もなお、当時の怒りを忘れかねるらしく、ギリギリと歯をかみ鳴らすような音をさせて、 「菊乃がみごもったにつき、佐兵衛さんはあの女を、正妻としてこの家へ入れ、そのかわり私どもをここから追い出してしまうつもりらしいという評判でございます。ああ、それをきいたときの私の怒り、御想像くださいませ。いえいえ、それは私だけの怒りではございませんでした。私が母からうけついだ恨みと怒りでございます。そして、同じ恨みと怒りは、竹子さん、梅子さんの胸にももえていたのでございます」  松子夫人はふりかえって、竹子と梅子の顔を見た。ふたりとも同意するようにうなずいた。この一件に関するかぎり、この三人の異母姉妹も、いつも意見が合うのである。 「皆さんもお聞きおよびでございましょうが、私たち三人は三人とも母がちがっております。そして三人の母たちは三人とも、父の正妻にはなれず、生涯、|妾《めかけ》としておわり、そのことを三人の母たちは、どれほど無念とも残念とも思ったことでございましょうか。菊乃の一件の起こったころには、私どもの母は三人とも、すでにみまかっておりましたが、私の記憶にのこっている、亡父のそれらの三人の女に対する扱いは、とても人間扱いとは思えませんでした。皆さんはこの家のあちこちに、離れのついているのを不審におぼしめすでしょうが、あれこそはその当時の、畜生のような亡父の生活の名残りなのでございます。亡父はあの離れにひとりずつ、三人の女を飼っていたのでございます。ええ、それはもう飼っていたというよりほかに、言い表わしようのない扱いでした。亡父は三人のだれにも、愛情などは|微《み》|塵《じん》だになく、ただそのときどきの、けがらわしい男の情念を、みたす道具として飼っておいたのでございます。いえいえ、愛情どころか、亡父は内心その三人をさげすんでさえいたのです。それですからその三人がひとなみに、亡父の情欲の結果をやどして、私どもを生んだときには、いつもひどく不きげんだったといわれております。亡父にしてみれば、私どもの母たちは、ただおとなしく亡父に身をまかせておりさえすればよいので、子どもを生むなどとは、よけいなことだという腹だったらしいのでございます。そんなふうでございましたから、生まれてきた私どもに対して、どんなに冷たい父だったか、御想像ねがえることと存じます」  松子夫人の声は怒りにふるえ、ネツい言葉つきがいつか火のように熱くなっていた。竹子も梅子も頬をこわばらせてうなずいていた。 「亡父が私どもを育てあげたのは、犬や猫の子とちがって、まさか捨てるわけにも、ひねりつぶすわけにもいかなかった、ただそれだけの理由からでございましょう。亡父はいやいやながら私どもを育てたのです。亡父は私どもに対して、微塵も親らしい愛情はもっていなかった。しかもいまや亡父は、どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬような、小便くさい娘の愛におぼれて、私どもを追い出して、その娘をこの家へひっぱりこもうとしている。しかも正妻として。……私の怒りが爆発したのも無理ではございますまい」  金田一耕助はわきの下をながれる冷たい汗を、禁ずることができなかった。そこに語られる親と子の|葛《かっ》|藤《とう》、憎しみは、とても尋常のものとは思われなかったのである。  それにしても——と、金田一耕助は考える、——いかなればこそ犬神佐兵衛翁は三人の側室や、その側室の所出になる娘たちに対して、かくまで冷たくありえたか。佐兵衛翁の性格には、なにかしら大きな人間的欠陥があったのであろうか。  いやいや、「犬神佐兵衛伝」によると、犬神佐兵衛というひとは、あれだけの成功をしたひととしては珍しいほど、人情にあつく、|情誼《じょうぎ》にもろいひとだったといわれている。むろん、そこにはいくらかの誇張や曲筆があるかもしれないけれど、げんに耕助が那須へきて以来、おりにふれ耳に入るところによっても「犬神佐兵衛伝」と、同じようなことがいわれておるのである。那須市のひとたちはいまでも、佐兵衛翁を慈父のように慕っている。それにもかかわらず佐兵衛翁は、自分の子どもや妾に対してだけ、なぜかくも冷酷でありえたか。——金田一耕助はそのときふと、いつか大山神主からきいた、若き佐兵衛にからまる、けしからぬ風説を思いだした。珠世の祖父の野々宮大弐と、若き日の佐兵衛とのあいだに|衆《しゅ》|道《どう》の契りがあったということ、ひょっとするとそのことが、佐兵衛翁の妾や子どもに対する態度に、なにか大きな影響をあたえているのではあるまいか。すなわち人生のはじめにおいて、同性愛の経験をもったことが、その後の佐兵衛翁の性生活に影響して、妾や娘たちに対しても人間らしい感情をもつことができなかったのではあるまいか。しかし、まだそれだけでは、佐兵衛翁の妾や娘たちに対する、異常な冷酷さを説明できたとは思えなかった。まだある。まだまだそこに、もっともっと容易ならぬ原因があるに違いないが、いったいそれはなんであろう。……  だが、そのとき、松子夫人の話がふたたびつづけられたので、金田一耕助の|瞑《めい》|想《そう》は、そのへんではたととぎれざるをえなかった。  松子夫人は語るのである。 「あのとき、私が怒りにもえたのは、もうひとつの理由がございました。その時分、私はすでに結婚しておりまして、その春、子どもを産んだばかりでございました。それがここにいる佐清でございます。父は私の夫には、絶対に家督をゆずろうとはしませんでしたが、佐清こそは父の直系の孫なのですから、ゆくゆくはこの子が犬神家をつぐものとひともいい、私もよろこんでいたのでございます。ところが、いまもし菊乃が父の正妻におさまり、もし男の子を生むとなれば、その子こそ父の嫡男ということになり、犬神家の全財産はその子にとられねばなりません。私は二重の怒りにもえました。母からうけついだ恨みと、わが子のための怒りとで、身も心ももえただれました。そして、同じ恨みと怒りは竹子さんや梅子さんにもあったのです。竹子さんもそのころすでに、寅之助さんと結婚しており、妊娠のきざしが見えてきました。梅子さんはまだ結婚してはおりませんでしたが、幸吉さんと約束ができており、来春を待って式をあげる予定になっていました。私たち三人はすでに生まれている子どもや、これから生まれてくる子どものためにたたかわねばなりませんでした。そこであるとき私たちは三人そろって菊乃の|妾宅《しょうたく》へおしかけていき、父と菊乃を口をきわめてののしったのでした」  松子夫人のくちびるは異様にねじれ、言葉はいよいよ火をふいた。金田一耕助はまたなんともいえぬ無気味な汗をねっとりとわきの下に感じるのである。橘署長と古館弁護士は、眉をひそめて顔を見合わせた。 「こんなことをお話しすると、さぞや慎しみのない女、はしたない女とおぼしめすでしょうが、なんと思われてもかまいません。これが母というものです。それに積年の恨みもございますし、三人でさんざん父をののしったあげく、最後に私がこういったのでございます。もし、あなたがあくまでも、この女を正妻になおそうとなさるならば、私のほうにも覚悟がございます。私はこの女が子どもを生まないまえに、あなたがたふたりを殺し、私もさしちがえて死んでしまいます。そうすれば犬神家の財産は、佐清のものとしてのこるでしょう。たとえ人殺しの母をもつ子という汚名はのこるとしても……」  松子夫人はそこで言葉をきると、くちびるのはしにものすごい微笑をうかべて、ジロリと一同を見まわした。金田一耕助はゾーッとするような気持ちで、橘署長や古館弁護士と顔見合わせる。なんというすさまじい肉親憎悪、なんという恐ろしい父子|相《そう》|剋《こく》図であろう。金田一耕助はまるで座布団から針でも出ているような、座りごこちの悪さを感じずにはいられなかった。  松子夫人は語りつづける。 「これにはさすがの父も恐れをなしたらしゅうございます。きっとそれくらいのこと、やりかねない女だと思ったのでございましょう。菊乃正妻の件はそれきり立ち消えになってしまいました。いえいえ、恐れをなしたのは父ばかりではございません。女だけに菊乃の恐怖はもっともっと大きかったのでございます。それこそ魂も身にそわぬほど、おびえきっていましたが、そのうちに、とうとうたまらなくなったのか、臨月ちかいお|腹《なか》をかかえて妾宅をとび出し、姿をかくしてしまったのでございます。これを聞いたときには、私どもほっと胸をなでおろし、みんなで|快《かい》|哉《さい》をさけんだものでしたが、いずくんぞ知らん、私どもはまんまと父にだしぬかれていたのでした」  松子夫人はそこでまた、ジロリと一同を見まわすと、 「皆さまは犬神家の三種の家宝、|斧《よき》、琴、菊のことはご存じでございますわね。そして、それが犬神家にとって、どういう意味をもっているかということも。……菊乃が姿をかくしてから間もなくのことでした。私どもは犬神奉公会の幹部のかたから、その家宝がなくなっていること、そして、どうやら父がその家宝を、菊乃にあたえたらしいということを知らされました。ああ、そのときの私の怒り、……あまりの怒りのために、私は息がつまりそうでした。そのとき私は決心したのでございます。よしよし、向こうが向こうならこっちもこっちだ、こうなったら、どのような非常手段も辞すものか……と。さしあたり、私どものしなければならぬことは、草の根わけても、菊乃の居どころを突きとめることでした。そして、斧、琴、菊の三種の家宝をとりかえすことでした。そこで私どもはおおぜいのひとをやって、菊乃の居どころをさがさせたのですが、こういう田舎では完全に姿をかくすということはむずかしゅうございます。私どもは間もなく菊乃が、伊那の百姓家の離れに潜伏していることを突きとめました。それのみならず二週間ほどまえ無事に男の子を生み落としたということまでわかりましたから、さあ、もうこうなったら一刻も猶予はできません。そこである晩、私どもは三人そろって、伊那の百姓家へ菊乃を襲撃したのでございます」  さすがに松子夫人も口ごもった。竹子と梅子も、当時の自分たちの恐ろしい所業を思い出したのか、ゾクリと肩をふるわせた。一同は息をのんで松子夫人の話にききいっている。 「それは月も凍るような、寒い寒い晩のことでした。地面には霜がいちめんにおりて、雪のように光っていました。私どもはまず菊乃が間借りをしている百姓家の主人に金をやって、一家全部、しばらく家をあけるように命令しました。犬神家の威令は伊那地方にもおよんでいますから、私どもの命令とあらば、だれもそむくものはないのです。そうしておいて廊下づたいに私どもが離れへ入ってまいりますと、菊乃は|伊《だ》|達《て》|巻《ま》き姿で、赤ん坊に|添《そ》え|乳《ぢ》をしているところでしたが、私どもの姿を見ると、一瞬、恐怖の化身のような顔をしました。しかし、すぐつぎの瞬間、そこにあった土瓶をとると、私どものほうへ投げつけました。土瓶は柱にあたって|木《こ》っ|端《ぱ》|微《み》|塵《じん》となり、熱い湯がパッと私どもの上から降ってきました。そのことがかっと私を逆上させたのです。赤ん坊をかかえて縁側からとび出そうとする、菊乃のうしろからとびかかると、私は伊達巻きに手をかけました。伊達巻きはするすると解けて、菊乃は帯とけ姿のままで、縁側からとびおりました。私が|襟《えり》|首《くび》をつかまえているまに、梅子さんが赤ん坊をとりあげてしまいました。それをとりかえそうともがいているうちに、着物がぬげて、菊乃は腰のもの一枚の赤裸になりました。私はその髪の毛をとって霜の上におしころがすと、そこにあった竹ぼうきをとって、さんざんぶってやりました。菊乃の白い肌には、無数のみみずばれができて、なまなましい血がにじんできました。竹子さんが井戸から水をくんできて、その上からぶっかけました。何杯も、何杯も……」  その恐ろしい情景を語るのに、松子夫人はほとんどなんの感動も示さないのである。彼女の顔は能面でもかぶったように、なんの感情も示さず、彼女の声は|暗誦《あんしょう》でもするように、なんの抑揚もない。そのことが話の内容の恐ろしさを、いっそうなまなましく感じさせるのである。金田一耕助は|惻《そく》|々《そく》として身に迫る鬼気に思わず肩をふるわせた。 「そのころまで、私どもはほとんど口をききませんでしたが、そのうちに菊乃がヒイヒイいいながら叫びました。あなたがたはいったい私をどうしようというのですかと。そこで私がいったのです。そんなことは聞かなくてもわかっているじゃないか。斧、琴、菊をとりかえしにきたのだよ。さあ、あれを早くお出し。しかし、菊乃という女は案外しぶとい女で、なかなかうんといいません。あれは旦那様から坊やにいただいたのだからお返しするわけにはまいりません。そこで私はまた、竹ぼうきでさんざんぶってやりました。竹子さんが何杯も何杯も水をぶっかけました。菊乃は霜の上をのたうちまわり、ヒイヒイいいながらもうんといいません。そのとき、縁側で赤ん坊をだいていた梅子さんがこんなことをいったのです。姉さん、そんな手荒なまねをしなくたって、もっと簡単にその女に、うんといわせるくふうがありそうなもの。そういって赤ん坊のお|尻《しり》をむき出しにすると、ピタリ焼け|火《ひ》|箸《ばし》をあてがったのです。赤ん坊が火のついたように泣き出しました」  金田一耕助はムカムカするような吐き気をおぼえた。なんともいえぬ|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》に、腹の底がかたくなるようであった。橘署長や古館弁護士は、さては吉井刑事も、額にねっとりと脂汗をうかべている。猿蔵もおびえたような顔をしているが、珠世だけはあいかわらず、端然としてただ美しい。  松子夫人はくちびるのはしにうすい微笑をうかべると、 「いつでもそうですが、私ども三人のなかでは梅ちゃんがいちばん軍師なのです。いちばん思いきったことをするのです。梅ちゃんのその一撃で、さすがしぶとい菊乃もまいりました。気が違ったように泣きながら、それでも斧、琴、菊の三種の家宝を返しましたよ。それは押し入れの天井のうらにかくしてあったのです。私はそれを取りかえすともう満足してかえるつもりだったのですが、そのとき、竹子さんがこんなことをいい出したのです。菊乃さん、おまえ顔に似合わぬ大胆な女だね。製糸工場にいる時分から、おまえさんには言いかわした男があって、その後もずっと関係をつづけているということを、わたしはちゃんと知ってるよ。そしてその男のタネなんだ。それをお父さんの子だなんて、おまえもなんてずうずうしい女だろう。さあ、ここへ一札お入れ。この子は犬神佐兵衛のタネではありません。情夫の子どもでございますって。むろん菊乃は躍起となって抗弁しました。しかし、そのときまた梅ちゃんが赤ん坊のお尻に焼け火箸をあてがったので、菊乃は泣き泣き一札書いて入れました。そのあとで私は菊乃にこういったのです。おまえさん、このことを警察へとどけたかったらとどけてもいいよ。私たちはつかまって|牢《ろう》|屋《や》へ入れられるだろう。でもまさか死刑だの無期だのってことにはなるまいから、牢屋から出てきたらまた礼をいいにきますからね。竹子さんもいいました。菊乃さん、おまえ二度とお父さんのまえに姿をあらわしたり、手紙を書いたりしないほうがいいよ。私たちはたくさん、探偵をやとってあるのだから、おまえさんがどんなに内緒にしたところで、すぐにわかってしまう。わかったらまたあいさつにきますからね。すると、最後に梅ちゃんが笑いながらこんなことをいったのです。ほんとに今夜のようなことが、もう二、三度もあったら、この子は死んでしまうでしょうね。ほ、ほ、ほ……と。これだけいっておけば、もう二度と、この女は父のところへかえってくるようなことはあるまいと思いました。それで安心して私どもはひきあげようとしたのですが、そのとき、赤ん坊をだいて泣きくずれていた菊乃がむっくり顔をあげるとこんなことを口走ったのです」  松子夫人は言葉をきって、鋭い眼で一同を見回すと、急にネツい調子になって、 「ああ、おまえたちはなんという恐ろしい女だろう。これでこのまますんだら、天道様はひとを見殺しじゃ。いいや天道様は見殺しにしても、私はこのままにしてはおかぬ。いつかこの仕返しをせずにはおかぬ。斧、琴、菊……ほほほほほ、よきこと聞くですって。いいえ、いいえ、いつまでもおまえたちに、よきことばかりは聞かしておかぬ。いまにその斧、琴、菊がおまえたちの身にむくいてくるのじゃ。よく覚えておいで、斧はおまえで、琴はおまえじゃ。そして菊はおまえさんじゃ。……髪ふりみだし、くちびるのはしから血のにじんだ恐ろしい形相でそういうと、菊乃は狂ったようにギリギリ歯ぎしりをしながら、私たち三人を順々に指さしていったのです。だれが斧で、だれが琴、そしてまた、だれが菊だったか忘れましたけれど。……」  松子夫人はそこまで語ると、ピタリと口をつぐんでしまった。  そばには仮面の佐清が、おこりを患ったように、ワナワナ体をふるわせている。……      珠世の素姓  松子夫人の話はおわったが、しばらくはだれも口をきくものもなかった。|凄《せい》|惨《さん》な夫人の話の後味の悪さに心をかきみだされたものか、みんなソワソワとギゴチなく顔を見合わせていた。やがて、橘署長が膝をすすめて、 「なるほど、それではこんどの事件の犯人は、菊乃という婦人だとおっしゃるんですね」 「いいえ、私、そんなことを申し上げた覚えはございません」  と、松子夫人はあいかわらずしんねり強い調子で、 「ただ、こんどの人殺しに斧、琴、菊が関係がありそうだとおっしゃるものですから、もし、関係があるとすれば、この話よりほかにございませんので、お話し申し上げたまでです。この話が参考になるかどうか存じませんが、それを判断なさるのは皆さんのお役目ではないでしょうか」  底意地の悪い言いかたである。橘署長は古館弁護士のほうにむきなおって、 「古館さん、それで菊乃親子の消息はまだわからないのですか……」 「さあ、そのことですがね。実は今日はそのことで、奥さんのお電話がなくても、こちらへお伺いしようと思っていたところなんです」 「なにか手掛かりがあったんですね」 「あったといえばあったような、なかったといえばなかったような……これだけではなんの役にも立たないのですが……」  古館弁護士はカバンのなかから書類を取り出すと、 「元来、青沼菊乃という婦人は、幼いときから孤児同然の身の上でしてね。身寄りというものがほとんどないのです。それで調査に骨がおれたわけですが、そうそう、それについて、ちょっと興味のある事実を発見しましたよ。菊乃という婦人は珠世さんの祖母にあたる晴世さん、すなわち、佐兵衛翁にとっては終生恩人ともいうべき大弐さんの奥さんですね、その晴世さんのいとこの子になるんですよ」  一同は思わず顔を見合わせた。 「これで佐兵衛翁の寵愛が、あんなにもふかく、菊乃さんにそそがれた理由もわかりますね。『犬神佐兵衛伝』を読んでもわかりますが、佐兵衛翁は晴世さんというひとを、慈母とも姉とも慕っている。まるで神のごとくあがめ奉っているんです。菊乃という婦人はその晴世さんの血縁のなかで、ただひとりの生きのこりだった。佐兵衛翁が彼女を寵愛し、彼女の産んだ子に家督をゆずろうとしたのは、たぶん報恩的な意味をもっていたのでしょうね」  松子夫人、竹子、梅子の三人は、底意地の悪い顔を見合わせた。松子夫人のくちびるには、皮肉な微笑がうかんでいる。おそらく、そんなことをさせて、たまるもんかという意味であろう。 「さて、それだけのことを申し上げておいて、それではその後の菊乃さんの消息についてお話ししましょう。菊乃さんはあの夜のお三方の脅迫が、よっぽど恐ろしかったとみえて、静馬君——この名は佐兵衛翁がつけたらしいのですが——その静馬君を抱いて、伊那から姿をくらますと、富山市にある遠い親戚を頼っていったのですね。彼女はもう二度と、佐兵衛翁のもとへかえるまいと決心していたらしく、手紙も出さなかったようです。彼女はそこでしばらく、静馬君といっしょに暮らしていたが、静馬君が三つの年に、これを親戚にあずけておいて、自分はほかへかたづいたのですが、この縁づきさきというのがわからない。なにしろもう二十年以上も昔の話だし、それにその親戚というのが、富山市の空襲の際に全滅しているんです。しかも、この親戚にはほかに身寄りというものがひとりもなく、ここで菊乃さんの消息はプッツリと切れてしまっている。どうもみんな運の悪いひとびとなんですね」  古館弁護士はため息をつくと、 「さて、静馬君ですがこれは以前近所に住んでいた人が覚えていました。静馬君はその親戚の籍に入って、だから姓も青沼ではなく、津田というんです。津田家というのは非常に貧乏でしたが、夫婦とも親切なひとだったらしく、それに子どもがなかったので、自分の子どもとして引きとったのですね。それに菊乃さんは佐兵衛翁のもとを出奔するとき斧、琴、菊のほかにかなり多額の金をもっていたらしく、その一部を静馬君の養育費としてのこしていったらしいんです。だから静馬君も中学までは出ています。そしてそれからどこかへ勤めていたらしいんですが、二十一の年に兵隊にとられた。それから、二度三度もとられたり、かえされたりしていたそうですが、最後に昭和十九年の春か夏かにまた召集がきて、金沢へ入隊しました。それきり消息がわからないのです。いまのところ、静馬君についてわかっているところはそこまでで、あとはもう雲をつかむような話なんです」 「では……」  と、そのときはじめて金田一耕助が口をひらいた。 「金沢からどの方面へ派遣されたか、それくらいのことはわかるでしょう」 「いや、それがだめなんです」  古館弁護士はくらい顔になって、 「なにしろ、終戦のときのあの混乱でしょう。書類などめちゃめちゃになって、どの部隊がどの方面へ派遣されたか、全然、わからなくなっているんです。そこへもってきて、ほかの部隊のものはボツボツ復員者があって、未復員者の消息もだいたいわかりますが、静馬君の部隊にかぎってひとりも復員者がないのです。だからひょっとすると輸送の途中一発くらって、全員海底のもくずと消えたのじゃないかと思われます。なにしろ、当時の海上輸送の状態ですからね」  金田一耕助はそれをきくと、なんともいえぬ|暗《あん》|澹《たん》たる感じにおそわれた。ああ、もしそれが事実とすれば、静馬という青年は、なんという|凶《わる》い星のもとに生まれてきたのであろうか。その出生において自分の存在と権利を主張することができなかったかれは、その最後においても、どこでいつ死んだかということを、明らかにすることができないのだ。|闇《やみ》から生まれて闇に消えていく。——静馬の生涯こそは、文字どおりうたかたの夢ではないか。金田一耕助はそぞろ|惻《そく》|隠《いん》の情にうたれずにはいられなかった。 「なお今後とも調査はつづけていきますが、菊乃という婦人のほうはともかくとして、静馬君のほうは絶望ではないかと思いますよ。そんなことのないように祈りますけれどね」  古館弁護士はそういってカバンのなかへ書類をしまった。  シーンと水をうったような静けさが、部屋のなかにみなぎりあふれる。だれひとり口をきくものはない。なにを考えているのか、皆自分の眼のまえを、あてもなく凝視しつづける。  その沈黙をやぶったのは橘署長であった。署長はギゴチなく、のどにからまる|痰《たん》をきると、 「さて」  と、犬神家の一族のほうへ向きなおると、 「だいたい、いまのお話で、斧、琴、菊とこんどの殺人事件の関係もわかりましたから、それでは昨夜の事件にもどることにしましょう。皆さんもすでにお聞きおよびのことと思いますが、佐智君は豊畑村の空き家のなかで絞め殺されていたのですが、その時刻はだいたい、昨夜の八時から九時までのあいだということになっています。それではなはだぶしつけですが……」  と、一同の顔を見わたしながら、 「その時刻における皆さんの行動をお話しねがいたいのですが、……松子奥さま、あなたからどうぞ!」  松子夫人はいやな顔をして、ジロリと署長の顔を見たが、やがて、佐清のほうをふりかえると、落ち着きはらった声で、 「佐清、昨夜、お師匠さんのおかえりなすったのは、何時ごろでしたろうね。十時過ぎだったわね」  佐清が無言のままうなずいた。松子夫人は署長のほうへ向きなおると、 「お聞きのとおりでございます。昨夜は|宵《よい》から宮川香琴先生がお見えになって、御夕食もいっしょにいただき、そのあと、十時ごろまでずうっとお琴のおけいこをしていただいていました。そのことはお琴の音で、このひとたちも知っているはずです」  と、竹子や梅子のほうへあごをしゃくった。 「お食事は何時ごろ?」 「七時ごろでした。そのあとしばらくお休みして、それからお琴を持ち出したのです。このことはお師匠さんにおききくだすってもわかります」 「そのあいだ一度も座をお立ちにならないで……」  松子夫人はくちびるにホロ苦い微笑をうかべると、 「それは長時間のことですから、二度や三度、御不浄やなんかに……そうそう、一度琴の糸をとりに、母屋のほうへまいりました。ご存じかどうか存じませんが、私はいまこのひとたちが|逗留《とうりゅう》しているので、この離れへひっこんでいるのですが、ふだんは|母《おも》|屋《や》に住んでいるものですから。……でも、それとても、五分か十分のことでしたろうよ」 「琴の糸……?」  署長はちょっと眉をひそめたが、すぐ思いなおしたように、 「それで佐清さんは?」 「このひとも私たちのそばにいて、琴をきいておりました。お茶をいれてくれたりなんかして、……このひととても二、三度座をたったようですが、豊畑村へ出むくなどとてもとても……」  松子夫人はまたホロ苦い微笑をうかべて、 「このことは香琴さんにおききくだされば、よくわかると存じます。あのひと、眼が不自由ですけれど、全然見えぬというわけではなく、それにとても勘のいいかたですから」  これで松子夫人と佐清のアリバイは完全になりたった。いかに松子夫人がしんねり強い女とはいえ、宮川香琴にきけばすぐわかることを、うそをならべるはずはあるまい。  そこで橘署長が竹子のほうへ向きなおろうとすると、突然、横から梅子が口をはさんだ。 「いいえ、竹子姉さんやお兄さんのことなら、私ども夫婦が保証しますわ。宵から佐智が見えないので、私ども心配して、お姉さんの部屋へ相談にいったのです。お姉さんやお兄さん、それに小夜子さんも心配して、私たちといっしょになって、あちこち、料理屋だのキャバレーだのへ電話で問い合わせてくだすったのです。あの子はちかごろ、多少やけ気味になっていて、ときおりそんなところで遊んでくるものですから……」  梅子は憎々しげに珠世をにらみながら、 「ええ、そう、八時ごろから十一時ごろまで、そうして騒いでいたのです。このことは女中たちにきいてくだすってもわかりますわ。それに署長さん、佐智を殺したのは、佐武さんを殺したやつと同じ人間にきまってますわ。姉さんや兄さんが現在わが子の佐武さんを殺すはずがないじゃありませんか」  梅子の声はしだいにヒステリックに|甲《かん》|走《ばし》ってきたが、やがてわっと泣き出した。  最後に珠世と猿蔵だったが、署長がそのほうへ|鉾《ほこ》|先《さき》をむけると、猿蔵がおこったように歯をむきだしてこんなことをいった。 「お嬢さんはさっきもいったとおり、眠り薬をかがされてなにも知らずに寝ていなすったのだ。おら、まだどんなならずものが、いたずらをしに来ねえものでもねえと思っただから宵からずっと次の間で、寝ずの番をしていたんで」 「そのことをだれか知ってるものがあるかね」 「そんなこと、おら、知らねえ。みんな飯をくらうときお嬢さまのぐあいがわるいから、今晩ひとばんつききりだといっただが」 「食事は何時ごろ」 「この家の召使の晩飯は、毎晩七時半ごろになるだね」 「猿蔵、おまえは古い琴の糸をもってるそうだね」  猿蔵はギロリと眼を光らせたが、無言のまま、おこったように首をたてにふっただけだった。 「よし、あとで見せてもらおう」  結局、猿蔵と珠世のアリバイがいちばんふたしかだったが、しかし、猿蔵が佐智を殺そうと思えば、珠世をつれにいったとき、チャンスがあったはずである。それとも猿蔵はいったんこの家へかえってきてから、急に殺意を生じて改めて出向いていったのであろうか。  その猿蔵について、さっき古館弁護士が、こんなことをいったのを、金田一耕助は思い出している。 「金田一さん、いつかあなたはあの猿蔵が、ひょっとすると静馬ではないかとおっしゃいましたね。あれはちがっていました。その後、猿蔵の身元を調査してみましたが、あいつは豊畑村のもので、五つのとき両親がなくなったので、珠世さんのお母さんの祝子さんがふびんがって、引きとって養育したんです。あいつを取りあげた産婆がまだ生きていて、そのことを保証していますし、豊畑村にはまだそのほかにも、たくさん証人がいますから、これだけはもうまちがいありません」  しかし、猿蔵が静馬であったにしろ、なかったにしろ、かれの挙動に多くの疑問があることはいなめない事実である。すべてが暗合だといってしまえばそれまでのことだけれど。……  そのとき横から、切りこむような鋭い調子で、口をはさんだのは松子夫人であった。 「署長さま、豊畑村の空き家には、復員風の男の足跡がのこっていたというじゃありませんか。佐武が殺された晩、下那須の柏屋へとまったという復員風の男は、まだこのへんをうろついているのでございます。なぜ、そいつを一刻も早くつかまえないのです。そいつはいったい何者なんです」  松子夫人の鋭い詰問に会って、署長もいくらかたじたじしながら、 「いや……あ、それはもうぬかりなく手配はしてあるんですが、なかなか、すばしっこいやつでしてね。それから、ああ、そいつの身元ですか、それについちゃ、佐武君の事件の直後、博多の復員援護局へ、照会しておいたのですが、その返事が二、三日まえに来たところによると、十一月十二日、すなわち、佐武君の殺された日より三日まえですね。その十二日にビルマから復員者を乗せた船が、博多へ入港しているのですが、その船のなかにたしかに山田三平と名乗る人物が乗っていたそうです。しかも、その男は落ち着きさきとして、東京都麹町区三番町二十一番地、すなわち、東京のお宅を告げているんです。そして、そいつは博多へ一泊したのち、十三日にそこをたって東京へ向かっている。だから、十五日の晩、下那須の柏屋へ投宿したのは、たしかにそいつにちがいないのですが、松子奥さま、佐清さん、何度もおききするようですが、そういう人物に心当たりはありませんか」  仮面の佐清は無言のまま、首をかるく左右にふった。松子夫人はただ不思議そうに、まじまじと署長の顔を見詰めていたが、やがて渋い微笑をうかべると、 「それだけのことがわかっていれば、もっとなんとかなりそうなもの。……それで、豊畑村の現場には、足跡のほかに何か証拠になるようなものは、のこっていなかったのですか」 「いや、それは、ま、いろいろとあるんだが……」  と、署長が話をはじめたとき、突然、横から金田一耕助が言葉をはさんだ。 「いや、それについて、ちょっと妙なことがあるんですよ」 「妙なことといいますと?」 「皆さんもすでにお聞きおよびでしょうが、佐智君は上半身はだかで椅子にしばられていたんですが、胸にも腕にもいちめんに荒縄のかすり傷があるんですよ。つまり|縛《いまし》めを解こうともがいた跡なんですね。そして、それだけのかすり傷がつくからには、荒縄が相当ゆるんでいなければならんはずだのに、われわれが発見したとき荒縄はがっきりと、小ゆるぎもなく佐智君の体にくいいっていたんです」  松子夫人はまじまじと、金田一耕助の顔を見守っていたが、やがて落ち着きはらった声で、 「それで……それがどうかしたんですか」 「いやあ、どうもせんのです。それだけの話ですがね。しかし、ぼくにはどうも変に思われてしかたがないのです。それから、もうひとつ、署長さん、あれを。……」  金田一耕助にうながされて、署長がカバンのなかから取り出したのは一枚のワイシャツだった。 「梅子奥さま。これ、佐智君のワイシャツでしょうね」  梅子は涙のいっぱいたまった眼でそれを見ると、無言のままうなずいた。  佐智のワイシャツには大きな特色がある。五つのボタンが全部、菊形の黄金の台座にダイヤをちりばめた豪華なものだが、そのボタンのいちばん上のやつがひとつなくなっていた。 「これがいつなくなったかご存じありませんか」  梅子は首を左右にふって、 「存じません。でも、それがいつなくなったにしても、佐智が外へ出てからのことでしょうよ。あの子はとてもおしゃれでしたから、ボタンのとれたワイシャツなど、着て出るはずがありませんからね。現場にはなかったのですか」 「ありません。どこを探しても見当たらんのです。ひょっとすると、珠世さんを、その、……なんしたとき、モーターボートのなかで落ちたんじゃないかと思って、それも調べたんですが見当たりません。ひょっとするとそのとき、湖水のなかへ落ちたのかな。それならば、なんの証拠にもなりませんがね」  署長はそういって、そのワイシャツを金田一耕助のほうへ押しやったが、ああ、そのときだったのだ。大山神主が風のようにとびこんできたのは。そして、あの世にも恐ろしい秘密が暴露されたのは。……  それにしても、大山神主というひとは、なんという慎みのない人物であったろうか。それはたぶん、おのれの発見に興奮し、夢中になり、有頂天になっていたのであろうけれど、あれほど大きな他人の秘密を、あんなにも得々としゃべり散らそうとは。……  大山神主は一同の顔を見ると、いきなりふろしき包みをドサリと畳の上に投げだし、得意になってこんなことをいったのである。 「わかりました。わかりましたよ。皆さん。故佐兵衛翁の遺言状の秘密が。……佐兵衛翁が珠世さんに、あんなに有利な地位をあたえたのは、珠世さんが恩人の孫だったからじゃないんです。珠世さんは実に、佐兵衛翁自身の孫だったんですよ。珠世さんのお母さん、祝子さんというひとは大弐さんの奥さんの晴世さんと、佐兵衛翁のあいだに生まれた子どもだったんです。そして、そのことは大弐さんも知っていて許していたんです」  はじめのうち、一同は、それがなにを意味するのかわからぬように、ポカンとして、興奮した大山神主のあから顔をみていたが、やがて、その恐ろしい意味がわかってくると、はげしい動揺が一同をゆり動かした。  珠世は真っ青になり、いまにも卒倒しそうな眼つきをしていた。仮面の佐清はわなわな肩をふるわせていた。松子、竹子、梅子の三夫人すらそのことは初耳だったとみえて、ほとんど殺気といってもいい光を|瞳《ひとみ》にやどして、にくにくしげに珠世の横顔をにらんでいた。  金田一耕助は突然、ガリガリ、ガリガリ、めったやたらと頭の上の雀の巣をかきまわしはじめたのである。      奇怪な判じ物  十二月もなかばを過ぎると、那須の湖は|汀《みぎわ》から凍りはじめる。スケートができるようになるには、ふつう年を越して、一月の中旬からだが、とくに寒気のきびしい年は、どうかすると年内にすべれるようになることがあり、そういう年が五年に一度か六年に一度はあった。  その年がちょうどそういう年にあたっていたらしく、十二月も中旬へ入ると、那須ホテルの裏側にひろがっている汀は、朝な夕な、目に見えて氷が厚くなっていった。そして、十二月十三日の朝、ついにそういう氷のなかから、犬神家の最後の犠牲者の、世にも異様な|死《し》|骸《がい》が発見されたのだが、ここにはそのことにふれるまえに、もう一度、事件をはじめから見直してみよう。  そのころ金田一耕助はそういう|蕭条《しょうじょう》たる湖畔のありさまをみるにつけても、日増しに|憂《ゆう》|鬱《うつ》の思いが濃くなっていた。  思えばかれが若林豊一郎の招きに応じて、那須市へ足をふみいれてからすでに二か月になんなんとしている。そして、その二か月のあいだに、三人の男があいついで殺されているにもかかわらず、いまだに事件は五里霧中なのである。  犯人はすぐそばにいる。自分たちの眼のまえにぶらさがってる。——そんな気をつよくしながら、それでいて、なにかしら眼のなかに|埃《ほこり》があって、ハッキリとその正体を見きわめることのできぬもどかしさ——金田一耕助は日いちにちと深まさっていく焦燥に、ちかごろ、すっかり落ち着きをうしない、胸をかきむしられるようないらだたしさを感じはじめていた。  せめて、もう一度事件を最初から見直していったらそこからなにか手掛かりが発見できるかもしれないと思って、耕助はちかごろいくたびか自分の日記をくりかえし、そのなかから重要事項を書き抜いてみたりするのだけれど、そこからくみとることのできるのは、すでに世間に知れわたっている事実ばかりで、それらの煙幕の背後に|揺《よう》|曳《えい》している神秘の影がいまひと息というところで、つかめないのである。金田一耕助はいくど、頭の上の雀の巣をかきまわしながら、おのれの|腑《ふ》|甲《が》|斐《い》なさをなげいたことであろう。  そのとき、金田一耕助の書き抜いた重要事項というのを、つぎにかかげておくことにしよう。金田一耕助にはまだ全部は看破できていなかったのだけれど、この箇条書きのなかにこそ、あの恐ろしい犬神家の殺人事件の真相を語るなぞが秘められていたのだから。 [#ここから1字下げ] 一、十月十八日、——若林豊一郎の招きに応じて、金田一耕助那須市へ来る。同日珠世、ボートの奇禍にあい、若林豊一郎毒殺さる。 二、十一月一日、——仮面をかぶった佐清復員し、犬神家の一族のまえにて、佐兵衛翁の遺言状発表さる。 三、十一月十五日、——佐武と佐智、仮面の正体に疑惑をいだき、那須神社へ佐清の奉納手型をとりにいく。(このこと、珠世の入れ知恵なり) 四、同日夜、——松子夫人と佐清、手型をおすことをこばみ、十時ごろ物別れとなる。 五、同日夜十一時ごろ、——珠世、佐武を展望台に呼び出し、仮面の佐清の指紋のある懐中時計をわたす。(この時計いまだに行方不明、あるいは湖底に沈みたるか) 六、同日夜、——佐武殺害さる。犯行の時刻は十一時から十二時までのあいだと推定さる。 七、同日夜八時ごろ、——山田三平と名乗る復員風の男、顔をかくして下那須の柏屋へ投宿、十時ごろ、宿を出ていずれかへ行き、十二時ごろかえる。宿へかえりしときひどく|狼《ろう》|狽《ばい》の|体《てい》なりしと。 八、十一月十六日朝、——佐武の生首、菊人形の場面より発見され、犯行の現場は展望台と判明。 九、同日、——松子夫人と仮面の佐清、みずから申し出でて、佐清、手型をおす。この手型と那須神社より持ちかえりし手型を比較研究の結果、同一のものと判明、したがって仮面の佐清は真実の佐清にちがいなきこと確定。(疑問、——このとき、珠世、二度までなにかを発言しかけてよす。彼女はなにをいわんとしたか) 一〇、同日、——湖心より佐武の首無し死体あがる。 一一、同日、——佐武の死体を運びしとおぼしき血まみれボート、下那須の湖畔より発見さる。 一二、同日朝五時ごろ、——山田三平を名乗る復員風の男、柏屋を立ち去る。かれはついに|何《なん》|人《ぴと》にも顔を見せざりし由。 一三、同日夜、——佐武のお通夜、十時ごろお開きとなる。 一四、同日夜、——珠世の部屋に顔をかくした復員風の男がしのびこみ、何物かをさがす。(疑問、かれはなにをさがしたのか、そして、目的のものを得たか否か) 一五、同日夜十時半ごろ、——復員風の男の姿を見つけて珠世悲鳴をあぐ。この悲鳴によりて、犬神家は大騒ぎとなる。 一六、同日夜同刻ごろ、——復員風の男と、猿蔵と格闘しているところを小夜子が目撃す。(したがって、復員風の男は猿蔵にあらずということになる) 一七、同日同刻、——珠世の悲鳴をきいてとび出した仮面の佐清、展望台の下にて何者かにアッパーカットをくらい、気を失って倒れる。(仮面とれて、醜怪なる顔を衆人のもとに露出せり) 一八、十一月二十五日、——佐智、珠世をおかさんとして、麻酔薬をかがせ、モーターボートにて豊畑村の空き家へつれこむ。(ただし、以上は珠世の話による) 一九、同日四時ごろ、——何人からか、猿蔵のもとへ電話がかかり、珠世が豊畑村の空き家にいることを知らせてくる。猿蔵、ただちにボートにて、豊畑村にかけつけるに、珠世はベッドの上に|昏《こん》|睡《すい》、彼女の胸の上に、「影の人」と署名のある文書あり、かたわらの|椅《い》|子《す》には佐智が半裸姿にて縛られ、猿ぐつわをかまされおりし由。猿蔵は佐智をそのままにして、珠世のみつれて、モーターボートにてかえる、四時半から五時半ごろまでの間なり。(ただし、以上は猿蔵の話による) 二〇、同日夜八時から九時までの間に、佐智、絞殺される。その時刻における犬神家の一族のアリバイはすべて立証さる。すなわち、かれらのうちの何人も、その時刻に犬神家を出たる形跡なし。 二一、十一月二十六日、——珠世と猿蔵の話により、佐智を救いに豊畑村へかけつけし一行は、半裸姿にて椅子にしばりつけられし佐智が、絞殺されているのを発見、佐智の首には、くいいらんばかりに琴の糸巻きつきいたり。(疑問、佐智の肌にいちめんに荒縄によるかすり傷あるにもかかわらず、縄目が小ゆるぎもせぬほど固かったのはなぜか。ダイヤをちりばめた、佐智のワイシャツのボタンのひとつはいずこに) 二二、同日、——小夜子発狂。 二三、同日、——豊畑村へかけつけし一行は、そこに復員風の男が潜伏しおりしにあらずやと思わるる|痕《こん》|跡《せき》を種々発見す。 二四、同日、——松子夫人、|斧《よき》、琴、菊に関して青沼菊乃なる女性の|呪《のろ》いを打ち明ける。 二五、同日、——珠世の素姓に関する、驚くべき秘密を発表す。 [#ここで字下げ終わり]  ほんとうをいうと、金田一耕助の抜き書きは、もっと詳細にわたっているのだけれど、それではあまりわずらわしいし、また、箇条書きだけでは意をつくさぬ事項もあり、それらはあとでもっとゆっくり語るために、ここでは耕助の書き抜きのうちの、肝要な部分だけを書きぬいておくにとどめた。  金田一耕助はこの書き抜きに、くりかえし眼をとおしたあげく、最後にあるあの第二十五項の珠世の素姓に関するくだりにいたるごとに、いつも、暗澹たる思いにとざされずにはいられなかった。  事件がすべておわり、あらゆるなぞが明るみへ出たあとにして思えば、大山神主のあの不謹慎な暴露こそは、犬神家の殺人事件のクライマックスだったのだ。  大山神主が那須神社の土蔵のなかから発見した、秘密の|唐《から》|櫃《びつ》に言及したのは、たしか佐武が殺されたときのことであった。その唐櫃には犬神佐兵衛翁の恩人、野々宮大弐の連署になる封印があり、なかには、若き日の佐兵衛と野々宮大弐のあいだにとりかわされた、古い|艶《えん》|書《しょ》などがあったという。  その唐櫃の発見に言及したとき、大山神主が得意になってつぎのような意味のことをいったのを、金田一耕助はおぼえている。 「金田一さん、私はあの唐櫃のなかを徹底的に調査してみようと思う、ひょっとすると、あの唐櫃のなかからいままでにも知られていない、佐兵衛翁に関する貴重な文献が発見できるかもしれない。こんなことをいったからとて、私はなにもいやしい好奇心から、他人の秘密をさぐろうというのじゃないんです。佐兵衛翁はわれわれ那須人の恩人です。私はあの偉大な人物の赤裸々な姿をさぐり、その伝記をのこしておきたいと思うのです」  思えば人の一心ほど恐ろしいものはない。大山神主はとうとうその宿望を果たしたのだ。かれはあの唐櫃に秘められた、種々雑多な文書を、克明に整理し、丹念に調査していくうちに、ついに佐兵衛翁の秘密をさぐりあてたのだ。しかも、おお、その秘密のなんというすさまじいものであったろうか。  大山神主の整理した文書に、金田一耕助も眼をとおしたが、それこそは、若き日の佐兵衛翁をはじめとして野々宮大弐と妻晴世の三人のあいだに繰りひろげられた、あやしくもまた世にも異常な性生活の記録であった。それは実に三人の男女の血のにじむような愛欲と苦闘の、惨澹たる始末記だったのだ。  私はいまそれらの記録をそのまま発表するには、とてもしのびない気がするから、できるだけ簡単に、事実を報告するだけにとどめておくことにしようと思う。なぜならば、それはあまりにも不倫であり、あまりにも異常な愛欲の生態なのだから。  珠世の祖父野々宮大弐と若き日の佐兵衛翁のあいだに、衆道の契りがむすばれていたということは、それらの文書によってもあきらかだったが、その関係ははじめの二、三年でやんだらしい。  そのことは佐兵衛翁が長ずるにしたがって、大弐のほうでひかえるようになったことを意味しているのかもしれないが、もうひとつ、いろんな文書の行間に流れている、無言の意味からくみとれるのは、野々宮大弐というひとが、性的に、不能者とまでいえないまでも、あまり頑強な体質ではなかったらしいことである。  しかも、さらに奇怪なことは、若き日の佐兵衛に対しては、わずかにうごいた大弐の愛欲も、妻の晴世に対しては全然、興味が起こらなかったらしいことである。すなわち大弐というひとは、男性に対しては、微弱ながらも性欲を感じたが、女性に対しては完全に不能者だったらしいのだ。したがって、佐兵衛翁が大弐の|寵愛《ちょうあい》をうけるようになったころ、大弐は四十二歳、妻の晴世は二十二歳、しかもかれらは結婚して、すでに三年をへているにもかかわらず、晴世はまだ処女だったそうである。  さて、まえにもいったとおり、大弐と佐兵衛翁の関係は、二、三年でやんだようだが、その後も年下の友人として始終大弐のもとに出入りしているうちに、佐兵衛はいつか恩人の妻と新しい関係を生じたらしいのである。  いったい、どういう衝動のあらしが、ふたりを押したおしたのか、そこまでは唐櫃のなかの文書も語っていなかったが、このことが、実に佐兵衛翁の性情を大きくゆり動かし、翁の生涯のあの惨澹たる性生活の大きな原因となったのである。  当時、佐兵衛は二十歳、晴世は五つ年長の二十五歳、ふたりともはじめて知った異性だけに、もえあがる愛欲の炎は強烈だったが、それと同時に、良心の|呵責《かしゃく》もまたはげしかった。佐兵衛も晴世もこのあやまちに、|恬《てん》|然《ぜん》として|頬《ほお》かむりでとおせるような破廉恥な人間ではなかったのだ。それこそ、血みどろな、のたうちまわるような|苦《く》|悶《もん》のすえに、ふたりは毒をあおって心中をはかったことさえあるらしい。  幸か不幸かこの企ては、いちはやく大弐の知るところとなり未遂に終わった。そしてそれと同時に、ふたりのかくしごとは、すべて大弐に知れてしまったわけだが、このときの大弐の態度こそは、世にも異常なものであった。  かれはふたりのあやまちを許したのみならず、その後も、かれらがこの不倫な関係をつづけていくことを、かえって|慫慂《しょうよう》さえしたらしいのである。おそらくそれは、結婚後、一指もふれず、長く処女妻として放置しておいた妻に対する|贖罪《しょくざい》の気持ちからであったろうが、それでいて、世間体をはばかって、妻を離別して、公然と佐兵衛にあたえることを|逡巡《しゅんじゅん》したらしい。晴世もまた同じ理由からそうされることを好まなかった。そしてそこに三人の、世にも異様な関係がはじまったのである。  名目上晴世は大弐の妻でありながら、事実上は佐兵衛の妻であり恋人であった。大弐はこの恋人たちの|逢《あい》|曳《びき》に、できるだけ便宜をはかってやったのみならず、そういう秘密の|漏《ろう》|洩《えい》するのを極力ふせぐように立ちまわったのである。ふたりの逢曳はいつも那須神社の一室でおこなわれたが、そういう場合、大弐は席こそはずしたろうが、けっして家を出るようなことはなかった。かれは忠実な番犬のように、自分の妻と恋人の逢曳の事実が外へもれることをふせぐために、別室で見張りの役をつとめていたのである。  こうして秘密は完全に保たれ、かれらの奇怪な、不自然な関係は、その後もながらくつづけられたのである。そして、やがて祝子が生まれたのだが、大弐はなんのためらいもなく、彼女を自分の子として入籍した。  こうして表面、三人のあいだにはなんの|波《は》|瀾《らん》もおこらず、不自然ながらも、平穏な愛欲生活の歳月が流れたが、平穏なのは表面だけであって、裏面にわだかまる三人三様の苦悶はどんなに大きかったことだろう。ことに女だけに晴世の良心の呵責ははげしかったにちがいない。  当時はまだ、「チャタレイ夫人の恋人」などという小説は世に出ていなかった。夫が不能者だからといって、妻がほかに恋人をつくっていいというような寛大な精神は、日本人のだれにもなかった。夫が指をふれてくれなくとも、妻はじっと我慢しているべきだというのが、一般の常識であり、道徳であった。とりわけ古風にそだった晴世には、そういう意識が強かっただけに、佐兵衛との関係に対する良心の呵責ははげしかった。それでいて、一方彼女は、自分より年少の、美貌の恋人に対する、愛情の|絆《きずな》をたちきることはできなかったのだ。彼女は後悔と苦悶にのたうちまわりながらも、佐兵衛との逢曳に、身も心もただれていった。晴世のこの苦悶、惨澹たる|懊《おう》|悩《のう》を知るゆえに、佐兵衛翁の彼女に対する愛情はいよいよ深まっていったらしい。事実上自分の妻であり、自分の子供まで生みながら、晴れて自分の妻となれない女、——この|薄《はつ》|倖《こう》の女にそそがれる佐兵衛翁の|憐《れん》|憫《びん》といつくしみは、翁がしだいに成功し、一流の事業家となるに及んで、いよいよ深くなったことだろう。翁が生涯、正室をめとらなかったのも、実にその理由による。かれは生涯、晴世に義理を立てとおしたのだ。  翁が同時に三人の側室をもち、彼女たちを同じ屋根の下にすまわせるというような、いまわしい生活を送ったのも、自分の愛情が、晴世以外の女にうつるのを警戒したからであろう。  佐兵衛翁も、えらくなればなるほど、晴世との逢曳はむずかしくなってきたことであろう。したがって、衝動のはけぐちを求めるために、ほかに女が必要になってきたのであろう。その場合、ひとりの妾を持つとすれば、いつかその女に愛情がうつるかもしれぬ。翁はそれをおそれたのだ。そこで、同時に三人の妾をもつことによって、彼女たちの醜い|嫉《しっ》|妬《と》や|葛《かっ》|藤《とう》をまざまざと熟視し、それによって、彼女たちを|軽《けい》|蔑《べつ》しつづけようと試みたのであろう。松子夫人の言によると、翁は三人の側室を、単なる性愛の道具としてたくわえておいたまでで、|微《み》|塵《じん》も愛情をもっていなかったというが、翁はむしろ愛情をもつことをおそれ、警戒したのだ。  佐兵衛翁が三人の娘に対して、愛情をもつことができなかったのも、同じ理由によるのである。翁には祝子という娘があった。祝子こそは翁の長女であり、しかも翁が生涯にただひとり愛した女の生むところなのだ。翁はどのように祝子を愛したことだろう。それにもかかわらず、翁は祝子をわが子と呼ぶことができなかった。犬神家がしだいに繁栄していくにもかかわらず、祝子はいつまでも貧しい那須神社の神官の子として残らねばならなかった。そういう不公平に対するひそかなる憤りがこって、翁は終生、松、竹、梅の三人姉妹に対してつめたい父とならざるをえなかったのだ。  そして、そういう恨みや、憤りや、憐憫がこりにこって、ついにあの遺言状となったのであろう。生涯を日陰の花としておくった晴世、さらに、犬神佐兵衛の長女の生まれながら、貧しい神官の妻としておわった祝子——かれら母子に対する不憫がこりにこったあげく、珠世にあのような破格の恩典を用意しておいたのだろう。  金田一耕助も惨澹たる翁の心中を察すると、そぞろに憐憫の情を禁じえなかったが、それにしても、あの遺言状こそ、あいつづく大惨劇の原因となったことを思えば、もう少し、他に手段のほどこしようがなかったものかと長大息をせざるをえないのである。  こうして日はいたずらに流れていき、佐智が殺されてからでも、はや二十日ちかい日がたった。そして、まえにもいった十二月十三日の朝まだき、またもや世にも異常な殺人事件が発見されたのである。  金田一耕助はその夜もおそくまで、思い迷い、考え惑うて眠れなかったので、思わず朝寝坊をしてしまったが、すると、夜明けの七時ごろになって、枕元においた電話のベルがけたたましく鳴り出したので、思わずハッと眼をさました。  受話器をとりあげると、すぐ外線につながれ、電話の向こうに出たのは、橘署長の声だった。 「金田一さんですか。金田一さんですね」  署長の声が電話の向こうでふるえているのは、かならずしも今朝の寒さからではないらしい。 「金田一さん、すぐ来てください。とうとうやられましたよ。犬神家の三人目が……」 「えっ、やられたって、だれが……」  金田一耕助は思わず受話器を握りしめた。受話器は凍りつくように冷たかった。 「なんでもいいから、すぐ来てください。いやそのまえに、湖水に向いた窓から犬神家の裏側をごらんなさい。そうすればなにごとが起こったかわかりますよ。とにかく、待ってますからはやく来てください。畜生ッ、実に、……実に、いやな事件です」  金田一耕助は受話器をおくと|蝗《いなご》のように寝床からとび出し、湖水に向いた雨戸を一枚ひらいた。氷の上を吹いてくる寒風が、寝間着姿の耕助の肌を、針のようにつきさした。  耕助は二、三度くさめをしながら、それでもカバンのなかから双眼鏡をとり出すと、大急ぎで犬神家の裏手に向かって焦点をあわせた。そして、そのまま、寒さも忘れて、凍りついたように立ちすくんでしまったのである。  いつか佐武が殺された展望台の、ちょうど下あたりだった。汀に張りつめた氷のなかに、世にも異様なものがつっ立っているのである。  それはひとであった。しかし、のちにわかったあの奇怪な判じ物の意味からいえば、とひといったほうが正確だったかもしれない。なぜならば、そのひとは胴から上を氷のなかにつっこみ、まっさかさまに突っ立っているのである。そして、ネルのパジャマのズボンをはいた二本の足が、八の字を逆さにしたようにぱっと|虚《こ》|空《くう》にひらいているのだ。  それは歯ぎしりの出るような恐ろしい、それでいてなんともいえぬ|滑《こっ》|稽《けい》なながめであった。  この恐ろしい逆立ちの死体を眼前において、あのボートハウスの犬走りといわず、展望台の上といわず、犬神家のひとびとが凍りついたような顔をして突っ立っていた。  金田一耕助はそれらのひとびとの顔を、すばやく双眼鏡でなでまわしたが、そこにひとりの男の顔が欠けているのを見ると、思わず息をのみ、眼をつむった。  欠けているのは仮面の佐清だった。      血染めのボタン  犬神家の最後の事件は、通信社の手によって、全国の新聞に報道され、その日の夕刊は、いっせいにこの事件を大きくとりあげていた。  犬神佐兵衛翁の奇怪な遺言状に端を発する、あのあいつぐ大惨劇はもはや地方事件ではなくて、全国的に注視の的になっていたのだ。  だから、犬神家から三人目の犠牲者が出たという事実は(若林豊一郎からかぞえると、実に四人目の犠牲者なのだが)もうそれだけで、センセーショナルな記事になるのに、さらに読者を驚倒させたのは、三人目の犠牲が、身をもってえがいていた、あの奇怪な判じ物のなぞなのである。  その判じ物をといたのは、いうまでもなく金田一耕助だった。 「署長さん、い、い、いったい、あ、あ、あの死体はどうしたんです。ど、ど、どうして、あんなところに逆さに突っ立っているんです」  それから間もなく、犬神家の展望台に駆けつけた金田一耕助は、興奮のために、ほとんど口をきくことすらできなかった。駆けつけてくるみちみち、かれの頭にひらめいた、あの奇怪な、ほとんど道化じみてさえいる滑稽な霊感のために、かれは気が狂わんばかりだったのだ。 「金田一さん、そんなことをわしにきいたってはじまらんよ。わし自身が途方にくれているんだ、犯人はなんだって、あんなところへ、佐清君を逆さに突っ立てていったものか……畜生、ああ、いやだ、なんだか気味が悪くてゾッとするようだ」  橘署長は苦虫をかみつぶしたような顔をして、吐きだすようにそういった。そして、眼下の氷のなかから突っ立っている、あのまがまがしい逆立ち死体を、いかにもいまいましそうにながめている。その死体をとりまいて刑事たちが発掘作業に右往左往しているのである。それは一見簡単そうに見えて、その実かなり困難な作業だった。なぜなれば、氷はまだそれほど厚くはないので、うっかり乗ると、氷がわれて湖水に落ちる心配があるし、かといって、ボートを出すのもむずかしかった。刑事たちは氷をきざみながら、ボートを死体のほうへ進めていくのである。  雪になるかもしれない。湖水をおおうた空は、鉛色に凍りついていた。 「そ、それじゃ、あの死体は佐清君にちがいないのですね」  金田一耕助はガタガタあごをふるわせながらつぶやいた。かれがふるえているのは、けっしてその朝の寒さのためではない。ある異常な思いのために、身も心もふるえてやまないのだ。 「ふむ、その点についてはまちがいはないようだ。松子夫人の言葉によると、あのパジャマはたしかに佐清君のものだというし、それに第一佐清君の姿はどこにも見えないのだ」 「松子夫人は……?」  金田一耕助はあたりを見回したが、夫人の姿はどこにも見えなかった。 「いや、あのひとはたいしたものだよ。佐清君の最期を見ても、妹たちのように泣いたりわめいたりしないのだ。ただ、ひとこと、あいつだ、あいつが|復讐《ふくしゅう》の最後の仕上げをしていったのだ……と、そういったきり、自分の部屋へ閉じこもってしまった。それだけに綿々たる恨みの思いは、いっそう深いのかもしれないがね」  金田一耕助は展望台のはしに、珠世が立っているのに気がついた。彼女はふかぶかと|外《がい》|套《とう》の|襟《えり》を立てたまま身じろぎもせずに、あのまがまがしい逆立ち死体を見おろしている。いったいなにを考えているのか、あいかわらずあの端麗な面差しは、スフィンクスのようになぞを秘めて無表情である。 「署長さん、署長さん、それにしても、いったいだれがいちばんはじめに、あの死体を発見したんですか」 「猿蔵だよ、——例によって」  署長の声はあいかわらず吐き出すような調子である。 「猿蔵……?」  金田一耕助は珠世のほうに眼をやりながらため息をついた。珠世はしかし、ふたりの話を聞いているのかいないのか、依然として彫像のように動かない。 「署長さん、それで佐清君の死因は……? まさか、生きながらこんなところへ逆さに突っ立てられたのではないでしょう」 「それはまだわからん。佐清君の死体を掘り出してみなければ……しかし、ひょっとすると、斧で頭をぶちわられているのじゃないか……」  金田一耕助も息をのんだ。 「なるほど、佐清君が殺されたとすれば、こんどは斧の番ですね。しかし、それにしては署長さん、どこにも血の跡が見えないのが不思議じゃありませんか」  金田一耕助のいうとおり、薄白く凍った湖水の表面には、どこにも血の跡は見られなかった。 「そう、わたしもそれを不思議に思っているのだが……それに犯人が斧を使ったとしたら、自分でどこからか持ってきたんだね。この家には、斧、あるいは斧に類する凶器はひとつもないのだ。松子夫人のこのあいだの告白以来、そういうものはいっさい始末をつけさせたのですからね」  そのときやっと刑事連中が、死体のそばへボートを持っていった。そして、刑事がふたりがかりで、ボートのなかから逆立ち死体の両脚に手をかけた。 「おい、気をつけてくれよ。むやみに死体に傷をつけるな」  展望台の上から署長が声をかけた。 「大丈夫です。心得てます」  三人目の刑事が死体の周囲の氷をくだいていく。まえにもいったように、死体はちょうど|臍《へそ》のへんから、氷のなかに埋まっているのである。  間もなく氷がくだかれて、ゆすぶると逆立ち死体がゆさゆさゆれはじめた。 「おい、もういいだろう。気をつけてやってくれ」 「おっとしょ」  刑事がふたり、脚を一本ずつ持って、ごぼう抜きに死体を抜きあげたが、そのとたん、展望台の上に立ったひとびとは、思わず声のない叫びをもらし、息をのんで、手をにぎりしめた。  佐清の仮面はうせて、氷のなかから、逆さにつりあげられたのは|柘《ざく》|榴《ろ》のように肉のくずれた、世にも醜怪な顔なのだ。  金田一耕助はいつか一度、そうだ、佐清が復員してきた直後のことだ、遺言状発表の席で、佐清が鼻のあたりまで仮面をまくりあげるのを見たけれど、そのおぞましい顔をまざまざと正視するのはいまはじめてだった。しかも、その醜怪な顔は、ひと晩、氷のなかにつかっていたために、紫色にくち果てて、その恐ろしさ、おぞましさがいっそう誇張されているのである。しかし不思議なことに、その死体の頭部には、橘署長が予期したような、傷らしいものはどこにも見当たらなかった。  金田一耕助はしばらく、そのおぞましい顔を見つめていたのち、やがて顔をそむけたが、そのとき、ふとかれの眼をとらえたのは珠世の顔色である。  男の耕助ですら、ふた眼とは見られぬその顔を、珠世は、|瞳《ひとみ》をこらして凝視しているのである。ああ、そのとき珠世の頭を去来するのは、いったいどういう思いであったろうか。……  それはさておき、刑事連中が凍った死体を、ボートに乗せてかえってくるとき、警察医の楠田氏があたふたと展望台へ駆けつけてきた。あいつぐ変事に楠田氏はうんざりした格好で、署長の顔を見てもろくすっぽあいさつもしなかった。 「楠田さん、御苦労でもまたひとつ頼みます。詳しいことは解剖してみなければわからんでしょうが、とりあえず死因と、死後の経過時間を知りたいのだが……」  楠田医師は無言のままうなずいて展望台からおりかけたが、そのときだった。珠世が口をひらいたのは。 「あの、ちょっと、先生……」  階段へ一歩足をかけた楠田医師が驚いたように立ちどまると、珠世のほうへふりかえる。 「ええ? お嬢さん、なにか御用かな」 「はい、あの……」  珠世は楠田医師と橘署長の顔を見くらべながら、ちょっとためらったが、やがて思いきったように口をひらいた。 「もし、あの死体を解剖なさるのでしたら、そのまえに、ぜひとも、右手の手型を……指紋をとっておいていただきとうございます」  その一言をきいた|刹《せつ》|那《な》、金田一耕助はまるで重い|棍《こん》|棒《ぼう》で脳天をぶん殴られたようなはげしい衝撃を感じた。 「な、な、なんですって、珠世さん!」  かれは一歩まえへ出ると、思わず大きく息をはずませた。 「それじゃ、あなたはあの死体に、疑問がおありだとおっしゃるのですか」  珠世はそれに答えなかった。瞳を湖水のほうに転じると、無言のままひかえている。珠世という女は、自分のいいたいことはいうけれど、他人の意志で口をわらせることの非常に困難な性質だった。おそらく孤独な彼女の境遇が、そういうふうな、|強靭《きょうじん》な意志をつくりあげたのであろう。 「だって、珠世さん」  金田一耕助は、なにかしら圧倒されるような気持ちでくちびるをなめ直し、なめ直し、 「佐清君の手型なら、いつかとったじゃありませんか。そして、あの奉納手型と一致するということになって……」  金田一耕助はそこまでいって、はたと口を閉じてしまった。そのとき、珠世の瞳のなかに、ちらりと動いたあざけりの色に気がついたからである。  珠世はしかし、さすがにすぐその色をもみ消すと、低い静かな|声《こわ》|音《ね》でいった。 「ええ、でも……念には念を入れよということがございますから。……それに、手型をとるなんてこと、そんなにやっかいな仕事でもございませんでしょう」  橘署長も眉をひそめて、珠世の顔を見つめていたが、やがて楠田医師のほうにうなずくと、 「楠田さん、それじゃ、あとで刑事をやりますから、解剖なさるまえに、ひとつ指紋をとるようにはからってください」  楠田医師は無言のままうなずくと、階段をおりていった。珠世も署長と金田一耕助のほうへ目礼すると、いそぎ足にそのあとからおりていった。  金田一耕助と橘署長も、それから間もなく階段をおりていったが、そのときの耕助の足どりは、まるで酔っぱらっているもののようであった。金田一耕助の頭には、いまや恐ろしい旋風が吹き荒れはじめたのだ。  ああ、珠世はなんだって、佐清の指紋にこだわるのだろう。その指紋はたしかに一度とったのだ。そして、疑問の余地なしということになったのではないか。しかし、……しかし……いまの珠世の確信にみちた顔色。……彼女はいったい、どういう思いを胸のなかに秘めているのであろうか。ひょっとすると、自分はなにか重大な見落としをしていたのではあるまいか。  金田一耕助はふいにはたと立ちどまった。そのときさっとかれの頭にひらめいたのは佐清の手型と、奉納手型が比較研究されたときのことである。  藤崎鑑識員が、ふたつの手型を同一のものであると発表した刹那、珠世は二度までなにか発言しかけたではないか。ああ、彼女はなにかを知っているのだ。なにか自分の見落としていることに気がついているのだ。だが、それはなにか。……  展望台の下で金田一耕助は署長とわかれた。橘署長は楠田医師のあとについて、ボートハウスのなかへ入っていったが、金田一耕助は物思いにしずんだ顔色で、ひとりとぼとぼと母屋のほうへやってきた。  母屋の一室には竹子夫婦と梅子夫婦があつまって、なにやらひそひそ話をしていたが、ガラス戸の外をとおり過ぎる金田一耕助の姿を見ると、 「あっ、ちょっと」  と、声をかけて、縁側のガラス戸をひらいたのは竹子だった。 「金田一さま、あなたにちょっとお話が……」 「はあ」  金田一耕助が縁側のそばによっていくと、 「これ……いつか、あなたからのお話のありましたボタンが……」  柔らかい|塵《ちり》|紙《がみ》につつんだものを、竹子はそっと金田一耕助のまえにひらいてみせたが、そのとたん、耕助は大きく眼を見はった。  それはたしかに佐智のワイシャツから、ひとつなくなっていたボタンではないか。 「奥さま、いったい、これはどこにあったのですか」 「それがわからないのですよ。小夜子が持っているのを今朝見つけたのですが、なにしろあの娘はご存じのとおりの状態でございましょう。いったい、どこで見つけたものか……」 「小夜子さん、まだ、いけませんか」  竹子は暗い顔をしてうなずいた。 「以前のように取りのぼせるというようなことはなくなりましたけど、まだ、いっこう、とりとめがなくて……」 「金田一さま」  そのとき、座敷のなかから梅子が声をかけた。 「あの日……佐智の死体が見つかった日、小夜子さんもあなたがたといっしょに、豊畑村の空き家へ出向いていきましたわね。ひょっとするとそのとき拾ったのではございますまいか」  しかし、耕助は言下にそれを否定した。 「そんなことはありません。絶対にそんなことはありません。小夜子さんは佐智君の死体を見るなり、卒倒してしまわれたのですから、そんなひまは絶対になかったはずです。このことは、梅子奥さまの御主人もご存じのはずですが……」  梅子の主人の幸吉も暗い顔をしてうなずいた。 「そうすると、妙ですわね」  竹子はたゆとうような眼つきをして、 「小夜子はあの日、皆さまにここへつれてかえっていただいて以来、一歩もこの家を出たことはないのですけれど、……いったい、どこでこれを拾ったものか」 「ちょっと拝見」  金田一耕助は竹子の手から紙包みをうけとると、しげしげとそのボタンをながめた。まえにもいったとおり、それは菊形をした黄金の台座に、ダイヤをちりばめたものだったが、その台座にちょっぴり黒い汚点がついている。その汚点は、どうやら血ではないかと思われた。 「梅子奥さま、このボタンはたしかに、佐智君のワイシャツのボタンにちがいないでしょうね」  梅子は無言のままうなずいた。 「でも、ひょっとするとこういうボタンが、余分にあったのでは……」 「いいえ、そんなことはございません。そのボタンは五つそろっているきりで、絶対に余分はないのでございます」 「そうすると、やっぱりあの日、佐智君のワイシャツから、とれたボタンということになりますね。竹子奥さま、いかがでしょう。しばらくこのボタンをぼくにあずからせてくださいませんか。署長さんに頼んで、ちょっと調べてもらいたいと思うことがありますから」 「どうぞ」  金田一耕助がていねいにそのボタンを、紙にくるんでいるところへ、橘署長がいそぎ足でやってきた。 「あ、金田一さん、ここにいたのか」  署長はつかつかとそばへやってくると、 「こんどの事件はちょっと妙だよ。こんど殺人が起これば、当然、斧が使用されることとばかりわれわれは思っていたのだが、まんまと犯人に裏をかかれたよ。佐清君は佐智君と同じように、細ひも様のもので絞殺されたのだ。犯人はそのあとで死体を展望台の上から、逆さに投げおろしたらしいんだが……」  金田一耕助はその話を、いかにも興味のなさそうな顔できいていたが、やがて署長の言葉のおわるのを待って、ものうげに首を左右にふった。 「いいえ、署長さん、それでいいんです。それでやっぱり斧になっているんですよ」  橘署長は眉をひそめて、 「しかし、金田一さん、どこにも斧の跡なんか……」  金田一耕助はふところから、手帳と万年筆をとり出すと、 「署長さん、あの死体は佐清君でしたね。その佐清君が逆立ちになっているのだから……」  と、手帳の一ページに金田一耕助は大きく、 「ヨキケス」  と、書くと、 「しかも、逆立ちをしたスケキヨの上半身は、水のなかに埋没していたのだから……」  と、ヨキケスの四字のなかから下の二字を万年筆で塗りつぶすと、あとに残ったのは、すなわち、 「ヨキ」  の、二字である。  署長はびっくりして、いまにもとび出しそうなほど、大きく眼を見はった。 「金田一さん!」  署長は大きくあえいで、手を握ったり開いたりした。 「署長さん、そうですよ、子どもだましの判じ物なんですよ。しかし、犯人は、被害者の肉体をもって、斧を暗示しようとしたのです」  そこで金田一耕助は、ひっつったような笑い声をあげた。それはほとんど、ヒステリックにさえひびく、むなしい笑い声だった。  雪になろうという予想はあたって、鉛色の空からチラホラと、白いものが舞い落ちてくる。     第八章 運命の母子  午後九時半。  那須湖畔いったいは、朝から降りつづく雪につつまれて、着ぶくれしたように、厚くもりあがっていた。湖水も湖畔の町々も、さらにその背後にある山々峰々も、眼まぐるしいほど降りしきる|牡《ぼ》|丹《たん》雪のなかに、じっとりとぬれて息づいている。  風はなかった。  ただ、さらさらと柔らかい雪の花が、暗い空からひっきりなしに舞い落ちる。雪の夜の静けさが身にしみるのである。  その静けさをここに集めたかのように、犬神家の応接室では、金田一耕助と橘署長、それに古館弁護士の三人が暖炉にむかって黙々として座っていた。もう長いあいだ、だれも口をきくものはなかった。みんな黙然として、燃えさかる暖炉の火を見守っている。英国風の暖炉のなかでは、おりおりガサリと石炭の燃えくずれる音がした。  三人は待っているのである。解剖の結果がハッキリわかるのを。それから、新しく佐清の死体からとられた手型と、あの奉納手型を、目下比較研究中の、藤崎鑑識課員から報告がとどくのを。  金田一耕助は大きな安楽椅子のなかに、身をうずめるように座って、さっきからじっと眼をつむっている。今やかれの頭脳のなかは、思考の渦が、あるハッキリしたかたちとなって凝結しはじめている。いままでその凝結をさまたげていたのは、かれの思考にひとつの大きな盲点があったからである。今日やっとかれは、その盲点のありかに気がついた。そして、それを教えてくれたのは珠世なのである。金田一耕助はかすかに身ぶるいをすると、眼をひらいて、夢からさめたようにあたりを見回した。雪はますます降りつのってくるらしく、窓の外を間断なく、柔らかなものがななめによこぎって舞い落ちる。  と、そのとき、玄関の外へ雪を踏むかるい|轍《わだち》の音がきてとまったかと思うと、やがてけたたましく呼び鈴の音がとどろいた。  三人ははっと顔を見合わせ、橘署長は腰をうかしかけたが、そのまえに奥からかるいスリッパの音がして、いそぎ足に玄関へ出た。玄関で二言三言、押し問答をするような声がきこえていたが、やがてスリッパの音がこちらへちかづいてきて、応接室のドアがひらいた。顔を出したのは女中である。 「署長さま、お客さまがあなたにお眼にかかりたいとおっしゃって……」  女中の顔にはなんとなく|怪《け》|訝《げん》そうな色がうかんでいる。 「わたしに客? どんな人?」 「女のかたでございます。青沼菊乃さんとおっしゃって……」  そのとたん、三人ははじかれたように椅子から立ち上がった。 「青沼菊乃……さんだって!」  署長はごくりと大きくのど仏をうごかすと、 「どうぞ、どうぞ。すぐこちらへ来ていただくように」  女中がさがると間もなく、小作りな婦人の姿が、ドアのところに現われた。その婦人は黒っぽいコートを着て、古風な|小豆《あずき》色のお|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかぶっていた。輪タクに乗ってきたとみえて、コートもお高祖頭巾も雪にぬれてはいなかった。  婦人はかるく一同に黙礼すると、向こうむきになってコートをぬぎ、お高祖頭巾をとって、それを女中にわたすと、あらためてこちらへ向き直り、頭をさげたが、そのとたん、三人が三人ながら、足下をさらわれたように大きくよろめき、呼吸をはずませ、|拳《こぶし》を握りしめたのである。 「あなたが……あなたが青沼菊乃さんだったのですか」 「はい」  静かに答えて顔をあげたのは、まぎれもなく琴の師匠、宮川香琴女史ではないか。  それまで棒をのんだように立ちすくんでいた金田一耕助は、ふいにガリガリ、バリバリと、めったやたらに頭の上の雀の巣をかきまわしはじめた。古館弁護士もハンケチを取り出すと両手の掌をごしごしこすった。  宮川香琴——いや、いまやみずから青沼菊乃と名乗りでた婦人は、不自由な眼をショボつかせて、しずかに一同の顔を見わたしながら、 「今日、東京でお弟子さんから、夕刊のことをききまして、……佐清さんのことを聞いたものですから、もうこれ以上身分をつつんでいるのはよくないと、大急ぎで駆けつけてきたのでございます」  三人はそれを聞いて、思わず顔を見合わせた。なるほど、東京で夕刊の第一版を見て、それからすぐに汽車に乗ったとすれば、この時刻までに上那須へくることは不可能ではない。しかし、青沼菊乃はその言葉によって|婉曲《えんきょく》にアリバイをにおわせようとしているのではあるまいか。……橘署長の眼にはふいと疑いぶかい色がひかった。 「それは、それは。……すると、いまお着きになったばかりですね」 「はあ」  寒いところから、急に暖かい部屋へ入ってきたので、顔がほてるのか、菊乃はハンケチを出して、静かに額の汗をぬぐっている。 「おひとりで……?」 「いいえ、お弟子さんがひとりついてきてくれたのですが、これはひと足さきに、宿のほうへやりました。わたしは駅からまっすぐに、警察のほうへお伺いしたのですけれど、署長さん、こちらのほうへ来ていらっしゃると伺ったものですから。……」  橘署長はちょっと失望したように、かるい吐息をもらした。弟子がいっしょにきたとすれば、菊乃の言葉にうそがあろうとは思えない。 「それはどうも。さ、どうぞ、こちらへきてお掛けください」  署長が椅子を押しやった。金田一耕助がそばへ行って、かるく手をとった。 「恐れ入ります。いいえ、そうしていただかなくても……そうですか。では……」  金田一耕助に手をひかれて、椅子までくると、菊乃はていねいにお辞儀をして腰をおろした。金田一耕助はそれからドアのところまでくると、一度それをひらいてそとを見回し、それからピッタリなかからしめた。 「あなたが青沼菊乃さんとは……燈台もと暗しというのはまったくこのことですな。古館君、全然、心当たりがつかなかったのですか。……」 「全然。……なにしろ戦災というやつがあるものですから。あれさえなかったら、もう少し捜査しようもあったのですが。……」  菊乃はかすかにほほえんで、 「御無理もございません。前身をかくすためには、わたくし、あらゆる努力をはらってきたものでございますから。……わたくしの前身を知っていたのは、たぶん、七年まえになくなりました主人と、富山の親戚のものだけだったでございましょう。その三人ももうなくなってしまいまして。……」 「御主人というのは?」  金田一耕助がたずねた。 「宮川松風といって、やはりお琴の師匠でした。富山に身をよせております時分に、あちらのほうへあそびにまいりまして、心やすくなったのでございます」 「それで御結婚なすったのですか」 「いえ、あの、それが……」  菊乃は少し口ごもって、 「結婚はしませんでした。その時分、主人の奥さまというかたが、まだ生きていらっしゃったものですから」  菊乃は顔をあからめてうつむいた。金田一耕助は思わずいたましげな眼をそらす。人生のはじめにおいて、ひとの|妾《めかけ》としてスタートを切ったこの女は、その後も正式の妻とはなれず日陰の花として送ってきたのだ。金田一耕助はこの薄倖な女の、暗い運命の星を思って、気の毒にならざるをえなかった。  菊乃はあいかわらず口ごもりがちに、 「もっとも、わたくしが主人のお世話になるようになってから三年目に奥さまがおなくなりになりまして、その節、主人がわたくしを籍に入れようといってくれたのですが、わたくしのほうから御辞退申し上げたのでした。子どもでもあればともかく、うっかり戸籍をうごかしたりして故郷のほうへわたくしのことがわかりますと、また、どういう手づるで富山へ残してきた、子どものことがこちらさまへ知れようかと、それが心配だったものでございますから。……」  菊乃は手にしたハンケチで、そっと眼頭をおさえた。金田一耕助と橘署長、それから古館弁護士の三人は、思わずいたましげな眼を見かわした。  ああ、この婦人にとっては、あの霜凍る夜の思い出は、生涯、ぬぐってもぬぐいきれぬ恐怖の種だったのだ。あの夜の松竹梅三人娘の脅迫は、骨の髄までしみとおっていたからこそ、彼女は自分の生涯を棒にふっても、わが子をかれらの眼からかくそうと努力したのだろう。なるほど、これでは古館弁護士の捜査の手が、およばなかったのも無理はない。 「それですから、わたくしが宮川姓を名乗るのも、まちがっているのでございます。でも、お弟子さんなどなにもご存じなく、わたくしを主人の正式の妻だと思いこんでいられるので、いつの間にやら宮川香琴になってしまって……」 「お琴は御主人からおけいこをうけて……」 「はあ、でも、そのまえからたしなみがございましたものですから。……主人と心やすくなりましたのも、それがもとで……」  菊乃はまたうすく頬をそめた。  そのとき、橘署長が椅子のなかで居ずまいをなおすと、ギゴチなく|空《から》|咳《せき》をして、 「ええ……と、それが、富山へ残してこられた子どもさんのことですがね。たしか、静馬君といいましたね。その静馬君とその後お会いになりましたか」 「はあ、ときどき、……三年に一度ぐらいのわりあいで……」 「すると、静馬君はあなたを生母だと知っていたんですね」 「いいえ、子どものうちは知らなかったようでございます。籍も向こうへ入っていましたし、すっかり津田の子になって……わたくしのことを、ただ親切な叔母さんだくらいに考えていたようでございます。でも、中学へ入る時分には、やはりだれかに聞かされたのでございましょう。うすうす知っていたようでございます」 「お父さんのことは……?」 「いえ、もう、このほうは全然知らなかったでしょう。第一、津田のほうにも、あれの父のことについては、あまり詳しく話してなかったのでございますから。むろん、津田はうすうす知っていたでしょうけれど……」 「すると静馬君は最後まで、自分の父のことを知らずじまいですか」 「さあ、それが……」  菊乃はハンケチを出して、静かに口もとをぬぐいながら、「ご存じかどうか存じませんが、あの子は二度も三度も兵隊にとられまして、そのつどわたくしも富山まで会いにまいったのでございますが、最後に昭和十九年の春、召集がまいりましたとき、虫が知らせるというのでしょうか、わたくし、なんとなくこんどこそながのお別れになるような気がしまして、とうとうたまらなくなって親子の名乗りをしたのでございます。そのとき、問われるままに父のことも……」 「おっしゃったのですね」 「はあ。……」  不自由な菊乃の眼から、そのとき真珠のような|潔《きよ》らかな涙が、つるりと頬へすべり落ちた。金田一耕助はそれを見ると、なにかしら、胸をしめつけられるような気がして、思わず暗い眼をそらした。  橘署長もギゴチなく、のどにからまる痰を切りながら、 「なるほど、ああ、ええ、それで、あなたがどうして静馬君のお父さん、つまり犬神佐兵衛翁のもとをはなれるようになったのか、それらの事情についてもお話しになったのでしょうね」 「ええ、あの、それは……それをいわなければあの子も納得してくれないものですから。……」 「|斧《よき》、琴、菊の|呪《のろ》いのことも……」  橘署長はそのことばを、できるだけさりげなくいったつもりだったけれど、それでも菊乃ははっと顔をあげ、おびえたような眼で三人の顔を見ると、すぐまたがっくりと首を垂れた。 「はあ、あの……わたくしがどんなひどい目にあったかということを、あの子に知ってもらいたかったものですから……」  菊乃は肩をふるわせながら、ハンケチで眼をおさえている。そのとき、横からしずかにことばをはさんだのは金田一耕助だった。 「そのときの静馬君の御様子はどうでした。もちろん憤慨されたでしょうね」 「はあ、あの……あの子は元来は非常にきだてのやさしいほうなんですが、感情の強い子で、……そのときもひとことも口はききませんでしたが、眼にいっぱい涙をうかべ、真っ青になってぶるぶるふるえておりました」 「そして、それきり入隊し、いずことも知れぬ土地を目ざして、故国をはなれていったのですね」  金田一耕助は暗い眼をして椅子から立ち上がると窓のそばへよって外を見る。雪はなかなかやむけはいもなく、なおその上に風が出たらしく、ガラス窓の外を白い渦が、狂ったように躍っている。金田一耕助はぼんやりそれに眼をやりながら、ほっと暗いため息をついた。  思えば静馬という青年も哀れなものである。かれがはじめて父を知ったとき、——それはかれが暗澹たる運命にむかって船出するときであった。はじめてきいた父の名を、しっかり胸にいだいて船出したかれの行方に待っていたものは、魚雷だったか爆撃機だったか。それともかれはたくみにそれらの襲撃からまぬがれて、いまもどこかに生きているのであろうか。……  金田一耕助は突然身をひるがえして、菊乃のそばへかえってくると、彼女の肩に手をおいて、上からのぞきこむようにした。 「菊乃さん、静馬君のことについて、もうひとつお尋ねしたいことがあるのですがね」 「はあ」 「あなたは佐清君をご存じでしょう。佐清君のかぶっているゴムの面を……」 「はあ存じております」 「あの仮面は、佐清君のほんとうの顔にそっくりにせてつくってあるのですが、どうでしょう、静馬君は佐清君と似てはいなかったでしょうか」  金田一耕助の最後の一言は、この応接室のなかに、爆弾でも投げつけたような効果をもたらした。菊乃は椅子のなかで硬直し、橘署長と古館弁護士は、椅子の両腕をわしづかみにして、いまにも跳躍しそうな姿勢をしめしている。  一種異様な緊迫した空気のうちに、ストーブのなかの石炭が大きくもえ崩れる。      三つの手型 「どうして、……どうして、それをご存じだったのでございますか」  菊乃が口をひらいたのは、よほど時間がたってからのことだった。彼女はがっくり椅子のなかに身をうずめると、落ち着かない様子で、額の汗をぬぐっている。不自由な片眼に、おびえたような光がただようていた。 「そ、それじゃ、やっぱり、に、似ているんですね」  菊乃はかすかにうなずくと、それから乾いた声でいった。 「はじめて佐清さまにお眼にかかったとき、わたくしほんとうにびっくりしてしまいました。むろん、あの方のお顔はほんとうのお顔ではございません。ゴムでつくった仮面のお顔でございます。でもなにしろこのとおり、眼が不自由なものでございますから、はじめははっきりそれがわからず、ただ、もうあの子——静馬に似ていらっしゃるのでびっくりしてしまいました。いえいえ、似ているだんではございません。まるで|瓜《うり》二つで……わたくしてっきり静馬がかえってきて、そこに座っているのだと思ったくらいでございます。でも、よくよくお顔を見ているうちに、やっぱり静馬でないことがわかってきました。眉のあたりから眼もとへかけて……それから小鼻のあたりが静馬とちがっておりました。それにしても血は争えないものでございます。佐清さまは御先代さまのお孫さま、静馬は御先代さまのわすれがたみ、年は同じでも叔父|甥《おい》にあたるわけで、二人ともきっと御先代さまに似ているのでございましょう」  菊乃は静かに語りおわると、あふるる涙をハンケチでおさえた。おそらく犬神佐兵衛のひとり息子と生まれながら、半生を日陰の身として暮らし、その後、行方も知れぬわが子を思うて、胸もしめつけられる思いであろう。  そのとき卒然として、橘署長が、金田一耕助のほうをふりかえった。 「金田一さん。あんたはどうしてそのことを知っていたんです」 「いや、いや」  金田一耕助は署長の視線をさけるように顔をそむけながら、 「知っていたわけじゃないんです。いまも菊乃さんがおっしゃるとおり、叔父と甥の間柄だし、それに年も同じだしするので、どこか似ているところがありはしないかと思ったんですが、瓜二つとは驚きましたな」  金田一耕助は菊乃の背後に立って、かるくもじゃもじゃ頭をかきまわしている。その眼のなかには、一種異様なかがやきがあった。  橘署長はうたがわしげな眼で、まじまじとその横顔を見つめていたが、やがてあきらめたように、肩をゆすって菊乃のほうへ向き直ると、 「菊乃さん、あなたは静馬君の消息をご存じじゃありませんか」 「いいえ、存じません」  菊乃は言下にキッパリこたえると、 「それを知っているくらいなら……」  と、ハンケチを眼にあてて泣きむせんだ。 「しかし、静馬君はあなたのご住所をご存じなのでしょう」 「はあ」 「では、無事でいるとすれば、お宅のほうへ通信があるはずですね」 「はあ、それですからわたくし、待っているのでございます。くる日もくる日も、あれから手紙のくるのを」  橘署長はいたましげな、しかし、どこか疑惑のこもったまなざしで、むせび泣く老女の姿を見守っていたが、やがて静かに相手の肩に手をかけると、 「菊乃さん、あなたはいつごろからこのお屋敷へ、出入りするようになったのですか。そして、それにはなにか特別の目的でも……」  菊乃は涙をぬぐいおさめると、静かに顔をあげて、 「署長さま、そのことを申し上げるために、わたくしは今夜こうしてお伺いしたのでございます。わたくしがこのお屋敷へあがるようになったのは、けっしてやましい下心があったからではなく、そういうめぐりあわせになったのでございます。ご存じかどうか存じませんが、一昨年ごろまでこのへんへ、回ってこられたのは古谷|蕉雨《しょうう》というお師匠さんでございました。ところがその蕉雨さんが一昨年、中風でお倒れになりましたので、わたくしが|代《だい》|稽《げい》|古《こ》にまいることになったのでございます。最初、蕉雨さんからその話がございましたとき、わたくし、身ぶるいしてお断わり申し上げました。那須から伊那へかけては、わたくしの生涯足を踏み入れたくない場所でございます。ましてやお弟子さんのなかに、こちらの松子さまがいらっしゃるときいたとき、わたくし、もうふるえあがって……でも、そこにはいろいろと事情がございまして、どうしてもお引き受けしなければならぬ羽目になってしまいました。そのとき、わたくし考えたのでございます。あれからもう、三十年もたっていることだし、名前も境遇も顔かたちも、このとおりすっかり変わってしまって……」  菊乃は寂しく頬をおさえると、 「ひょっとすると松子さまも、お気づきにならないかもしれない。そう思ったのと、いくらかこちらさまに好奇心もございましたので、少し大胆ではないかと思いましたが、お顔出しすることにしたのでございます。はあ、それ以外にはけっしてやましい下心など——」 「それで松子奥さまは、あなたに気がつかなかったんですね」 「そうのようでした。なにしろこのとおり化け物のような顔になってしまって……」  なるほど現在の宮川香琴から、その昔の面影をさぐりだすのは不可能かもしれぬ。佐兵衛翁の|寵《ちょう》を一身に集めているころの菊乃は、さぞ美しかったであろうのに、現在の香琴師匠ときたら、片眼はとびだし、片眼はひっこんでつぶれている。おまけに額には大きな傷、どう見ても、かつてはそのような美人であったろうとは思われぬ。それに昔製糸工場の女工であった女が、東京から出稽古にくるような、有名な師匠になっていようとは、さすがの松子夫人も思いおよばなかったであろう。三十年という歳月は、ひとさまざまの運命の|筬《おさ》を織るのである。 「あなたがこちらへ来られるようになったのが、一昨年だとすれば、まだ佐兵衛翁の生きていられたころですね。お会いになりましたか」 「いいえ、一度も。もうその時分から御先代さまは、寝たっきりでいらっしゃいましたから。……それに、わたくしとしても、こんな顔になってしまっては。……せめてお姿なりと、かい間見させていただきたかったのでございますけれど……」  菊乃はほっとためいきをついて、 「でも、こちらのほうへ出稽古にあがるようになりましたおかげで、御他界の節にはお葬式の列にも加えていただき、また、御霊前にお|榊《さかき》もあげさせていただきまして……」  菊乃はそこでまたハンケチを眼におしあててむせび泣いた。  思えば佐兵衛翁と菊乃の縁もはかないものであった。たがいに相寄る魂を持ちながら、|悍《かん》|馬《ば》のごとき三人の娘のためにひきさかれ、翁の臨終のさい、菊乃はそのちかくにおりながら、会うことも、名乗りあうこともできなかったのである。人知れず涙に|袖《そで》をぬらしながら、翁の霊前に榊をささげる菊乃の心中を思いやると、金田一耕助はなにかしら、あついものがのどにこみあげてくるようであった。  橘署長もギゴチなく空咳をしながら、 「ああ、いや、なるほど、よくわかりました。それではいよいよこんどの事件ですがね。あなたははじめからこの事件が|斧《よき》、琴、菊に関係があるということをご存じでしたか」  菊乃はかすかに身ぶるいをすると、 「いいえ、とんでもない。佐武さまのときには、なんの気もつかずにいたのでございます。ところが二度目の佐智さまのとき——あのときわたくし松子奥さまの、お琴のお相手をしていたのですが、そこへ刑事さまがいらしって……」 「ああ、そうそう」  そのとき、突然、横合いから口を出したのは金田一耕助だった。 「吉井刑事が豊畑村の事件を、こちらへ報告にあがったとき、あなたは松子夫人のお相手をして、琴をひいていらっしゃったのですね。そのときのことについて、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが……」 「はあ」 「これは吉井刑事からきいたことなんですがね、刑事さんがこんどの事件を、なにか斧、琴、菊に関係がありはしないかと話したとき、松子夫人が思わず強く琴をひかれた。そして、その拍子にプッツリ糸が切れたそうですね」 「はあ」  菊乃はいぶかしそうに不自由な眼を見張って、 「しかし、そのことがなにか……」 「いえ、そのことはなんでもないんですが、お尋ねしたいというのは、実はそのあとのことでして。……糸が切れた拍子にけがをしたのか、松子夫人の右の人差指のうちがわから、たらたらと血がたれていた。そこで吉井刑事が、おや、けがをしましたねと尋ねたそうですね。覚えていらっしゃいますか」 「はあ、あの、よく覚えております」 「そのとき、松子夫人は、はあ、いま、琴糸が切れた拍子に……と、おっしゃったそうですが、問題はそのあとなのです。松子夫人の言葉をきくと、あなたが不思議そうに眉をひそめて、いま、琴糸が切れた拍子に……? と、そうおっしゃったそうですね。覚えていらっしゃいますか」  菊乃はちょっと首をかしげて、 「さあ、そんなことをいったかどうか、そこまではハッキリいたしませんが、あるいはいったかもしれません」 「ところがね。あなたのその言葉をきくと、一瞬松子夫人がなんともいえぬ険悪な形相をしたんだそうです。まるで殺気にもひとしい憎しみの色が、松子夫人の眼にほとばしったというんですが、あなたはそのことに気がおつきではありませんでしたか」 「まあ!」  菊乃はいきをのんで、 「それは……気がつきませんでした。なにしろ、このとおり眼が不自由なものですから」 「いや、気がつかなくてよかったかもしれませんよ。なにしろものすごい形相だったそうですから、つまりその形相があまりものすごかったものだから、吉井刑事も不思議に思って、あとあとまで印象に残っていたんですね。ところが問題というのは、松子夫人が、いま、琴糸が切れた拍子に……と、いったとき、あなたがなぜ不思議そうな顔をして、それをききかえしたのか、それからまた、あなたの疑問のことばをきいて、松子夫人がなぜそのようにものすごい形相をしたのか……と、いうところにあるんですがね。なにかお心当たりがございますか」  菊乃は不自由な眼を見はって、しばらく身動きもせずに考えていたが、やがてかすかに身ぶるいをすると、 「松子奥さまがどうしてそんなに、恐ろしい顔をなすったのか、わたくしにもわかりません。しかし、わたくしが奥さまにお言葉をかえしたことについては心当たりがございます。そんなことをいったかどうか覚えておりませんけれど、不思議に思ったものですから、つい、言葉に出たのでございましょう」 「不思議に思ったというのは?」 「奥さまはいかにもあのとき琴糸が切れた拍子に、指にけがをなすったようにおっしゃいましたが、あれはうそなのでございます。なるほどあのとき、琴糸にうたれて、傷の薄皮がとれて、また血が吹き出したのでございましょうけれど、奥さまがほんとに指に怪我をされたのは、あのときではなかったのです」 「すると、いつ?」 「あのまえの晩のことでした。ご存じのとおりあのまえの晩も、わたくし奥さまのお琴のお相手をしていたのでございますが……」 「まえの晩……?」  橘署長ははっとしたように、金田一耕助の顔をふりかえった。耕助はしかし、格別驚いたふうもなく、 「まえの晩というと、佐智が殺された晩のことですね」 「はあ」 「松子夫人はどうしてけがをしたのですか。菊乃さん、そのときのことについて、もう少し詳しく話していただけませんか」 「はあ、あの……」  菊乃はなんとなく不安らしい面持ちで、ハンケチをもみくちゃにしながら、 「あのときもわたくし、不思議に思ったのでございます。松子奥さまのお相手をしておりますうちに、奥さまが二、三度席をお立ちになったということは、奥さまもおっしゃったそうですし、わたくしもお尋ねをうけたとき、申し上げておきました。はい、いつも五分か十分のごく短い時間で……ところが何度目にお立ちになったときか、そこまではハッキリ覚えておりませんが、間もなく席へおかえりになって、奥さまはまた琴をお弾きになりましたが、そのときわたくし、おやと思ったのでございます。わたくしこのとおり眼が不自由でございます。すっかり見えぬというわけではありませんが、細かいところまでは見えません。しかし、耳というものがございます。口はばったいことをいうようですが、そこは長年の修業でございますから、琴の音色をききわけるぐらいのことはできます。わたくしすぐに奥さまは指に怪我をしていらっしゃる。人差指にけがをしていらっしゃる。しかもそれをかくそうとして、痛さをこらえて琴を弾いていらっしゃる、ということに気がついたのでございます」  話をきいているうちに、金田一耕助はしだいに興奮してきたらしい。はじめにごくゆっくりと、もじゃもじゃ頭をかきまわしていたのが、しだいに猛烈になってきたかと思うと、しまいにはバリバリガリガリと、めったやたらに五本の指でかきまわしながら、 「そ、そ、そして松子夫人は、け、け、けがのことについて、な、な、な、なにもいわなかったんですね」 「はい、ひとこともおっしゃいませんでした」 「そ、そ、そして、あなたのほうからは……」 「いいえ、なにも申しませんでした。向こうさまがかくしていらっしゃるのですから、触れないほうがよかろうと思って、わざと気がつかぬふうをしていました」 「な、なるほど、なるほど」  金田一耕助はぐっと生つばをのみこむと、いくらか落ち着きを取りもどして、 「それでその翌日、松子夫人が、いかにもいまけがをしたばかりだ、というようなことをいったとき、思わず、あなたが聞きなおしたのですね」 「はあ……」 「しかし、それについて松子夫人がおそろしい形相をしたというのは?……」  菊乃はいよいよ強くハンケチをもみくちゃにしながら、 「さあ、そこまではわかりません。でも、ひょっとすると、わたくしが指のおけがのことを、まえから知っていることに気がおつきになって、それがお気にさわったのではございますまいか」 「なるほど、つまり松子夫人はまえの晩にけがをしたということを、だれにも知られたくなかったのですね。いや、ありがとうございました」  金田一耕助のもじゃもじゃ頭をかきまわす運動は、そこではじめてピタリとやんだ。耕助は橘署長のほうをふりかえって、 「署長さん、あなたからどうぞ。……なにか質問がございましたら」  橘署長はいぶかしそうな眼を大きく見はって、 「金田一さん、いまのことはどういう意味です。松子夫人がなにか佐智君殺しに関係があるというのかね。しかし、佐智君は豊畑村で殺されたんですぞ、それにもかかわらず松子夫人はこの家にいて、十分以上は座をはずさなかったという。……」 「いや、いや、署長さん、そのことはあとでゆっくり研究しましょう。それよりもなにか御質問がありましたら……」  署長はいくらか不平らしく、金田一耕助の横顔を見つめていたが、やがてあきらめたように菊乃のほうへ向きなおって、 「それでは菊乃さん、最後にもうひとつお尋ねがあるんですがね、あなたはこんどの事件をどう思いますか。犯人はこちらの三人とあなたとのいきさつを知ってるやつにちがいないのですが、それをだれだと思います。もしあなたが犯人でないならば……」  菊乃はギクリと体をふるわせた。そして、はげしく呼吸をうちへ吸いながら、しばらく署長の顔を見つめていたが、やがてしだいにうなだれると、 「そうでした。そう思われるのが恐ろしゅうございますから、今夜こうしてお伺いしたのでございます。これ以上素姓をかくしていて、いざわかったらきっと疑いをうけるだろう。……そう思ったものですから、自分から名乗って出たのでございます。犯人はわたくしではございません。それからまた、だれが犯人なのか、わたくしは少しも存じません」  菊乃はキッパリいいきった。  菊乃はそれからまだ二、三、たいして重要でもない質問をうけたが、そうこうしているうちに、警察からどやどやとひとがやってきたので、彼女はひとまず弟子の待っている宿へひきあげることになった。  警察からやってきたひとびとというのは、いうまでもなく解剖の報告書や、手型の鑑定書を持ってきたのである。 「署長さん」  見覚えのある藤崎鑑識課員が、なぜか興奮におもてをほてらせながら、署長に声をかけるのを、 「あ、ちょっと」  金田一耕助はおしとめて、ベルをおして女中を呼んだ。女中が顔を出すと、 「珠世さんに、ちょっとこちらへ来てくださるようにって……」  間もなく珠世がやってきた。彼女はしずかに一同に黙礼すると、すみのほうの椅子に腰をおろした。あいかわらず、彼女はスフィンクスのようになぞを秘めて美しい。 「さあ、では順々に伺いましょう。まず解剖の結果は?」 「はあ」  刑事のひとりが進み出て、 「簡単に要領だけを申し上げます。死因は絞殺、凶器は細ひもようのもの、死亡時刻は昨夜の十時から十一時まで、ただし湖水へさかさに漬けられたのは、それより一時間くらいのちのことだろうということです」 「いや、ありがとう。ああ、吉井さん、ボタンに付いている汚点について報告にきてくだすったのですね。どうでした結果は?」 「はあ、たしかに人間の血だそうです。血液型はO型」 「ああ、そう、ありがとうございました」  金田一耕助はそこではじめて藤崎鑑識課員のほうへ向きなおると、 「藤崎さん、さあ、どうぞ。いよいよあなたの番ですよ。結果は……」  さっきからむずむずしていた藤崎鑑識課員は、興奮のためにわななく指で、折りカバンのなかから一本の巻き物と二枚の紙を取りだすと、 「署長さん、どうも変なんです。犬神佐清氏の手型を以前にも一度とったことはあなたもご存じですね。それがこれです。ここに十一月十六日と書いてあります。この手型は古館さんからお預かりしている、この巻き物とピッタリ一致するんです。ところが今日あの死体からとったこれ、……この手型は全然、あのふたつとちがっているんです」  風が葦の穂づらをわたるように、突然、ザワザワとしたざわめきが、一同のあいだからわきおこった。署長は椅子からとびあがり、古館弁護士はいきをのんで大きく眼を見はった。 「そんな馬鹿な! そんな馬鹿な! それじゃ昨夜殺されたのは、佐清君じゃなかったというのかい。……」 「そうです。この手型から判断すると。……」 「だって、だって、このあいだ手型をとったときには……」  そのとき静かにことばをはさんだのは金田一耕助だった。 「署長さん、あのときはたしかに本物の佐清だったんですよ。このことがぼくにとって大きな盲点となったのです。指紋の一致、これほどたしかな身分証明書がありましょうか。まさかぼくはあの仮面をたくみに利用して、本物とにせものがすりかわっていようなどとは、夢にも考えなかったものですから」  それから金田一耕助は珠世のほうへあゆみよって、 「珠世さん、しかし、あなたはそのことをご存じだったのですね」  珠世はだまって金田一耕助の眼を見返していたが、やがてうすく頬をそめると、立ち上がって、一同にかるい黙礼をしたのちに静かに部屋から出ていった。      雪の雪ケ峰  十二月十四日。  この日こそはさしも紛糾をきわめた犬神家殺人事件解決の、最初の、|曙《しょ》|光《こう》がきざしはじめた日だったが、この記念すべき日の、金田一耕助の朝の寝覚めは上乗だった。  いままでかれの脳裏をおおうていた盲点の暗雲がカラリと晴れると、あとは|一《いっ》|瀉《しゃ》千里だった。昨日いちにちかかって、かれはあたまのなかで推理の積み木を組み立て積み上げ、なぞを形成する複雑な骨格は、もうすっかりできあがっていた。あとはもう本物の佐清をさがしだすばかりである。そして、こんどこそは警察も成功するだろう。なにしろさがす相手が佐清だということがわかっているのだし、しかも佐清の写真もあるのだから。  金田一耕助は久しぶりに熟睡した。そして八時ごろに眼をさまし、ゆっくり温泉につかったのち、朝飯をくって一服しているところへ電話がかかってきた。  電話のぬしは橘署長だった。 「金田一さん、金田一さんですね」  署長の声はいくらか興奮にうわずっている。金田一耕助はふいと眉をひそめた。なにが起こったのだろう。もうなにも起こるはずはないのだが。 「ええ、そう、金田一です。署長さん、な、なにかあったんですか」 「金田一さん、佐清のやつがあらわれたんですよ。昨夜、犬神家へ」 「な、な、なんですって! 佐清が犬神家へ……? そ、そしてなにかやらかしたんですか」 「ええ、そう、しかし、さいわい未遂に終わりましたがね。金田一さん、すぐ署のほうへやってきませんか。これから佐清のあとを追おうというんです」 「承知しました」  金田一耕助は輪タクを呼んでもらうと、羽織の上から二重回しをひっかけて、大急ぎで宿からとび出した。  雪はもう夜のうちにやんで、今日はまぶしいような上天気である。湖水の氷も湖畔の町も、さらに背後にある山々峰々も、真っ白な毛布にふんわりとおおわれているが、|牡《ぼ》|丹《たん》雪だから解けるにはやく、道の両側は軒をつたう雪解けの音がしきりである。  警察のまえで輪タクをおりると、スキー道具を後部につけた自動車が三台とまっていて、ものものしい格好をしたお巡りさんが数名、右往左往している。  金田一耕助が署長室へとびこむと、署長と古館弁護士がスキー服にスキー帽といういでたちで立ち話をしていた。  署長は金田一耕助の姿をみると、眉をひそめて、 「金田一さん、その姿じゃ……あんた洋服を持っとらんのですか」 「署長さん、いったいなにがおっぱじまろうというんです。まさか事件をおっぽり出して、雪にうかれ出そうというんじゃありますまいね」 「馬鹿なことをいっちゃいけない。佐清が雪ケ峰へ逃げたらしいという報告があったんですよ。だからこれから追いこんでいこうという寸法です」 「佐清が雪ケ峰へ……」  金田一耕助はドキリと|瞳《ひとみ》をすえて、 「署長さん、佐清のやつ、まさか自殺するんじゃ……」 「そのおそれは十分あります。だから一刻も早く取りおさえねばならんのだが、あんた、その姿じゃ無理だな」  金田一耕助はニヤリと笑った。 「署長さん、見そこなっちゃいけませんぜ。ぼくはこれでも東北生まれです。スキーは|下《げ》|駄《た》よりなれてまさあ。|尻《しり》はしょりでもスキーはできます。しかし道具がなきゃあ……」 「道具は用意させてあります。それじゃいっしょに出かけますか」  そこへお巡りさんがひとり、あわただしく入ってきて、なにやら署長に耳うちした。署長は強くうなずくと、 「よし、それじゃ出発だ」  まえの二台の自動車には、お巡りさんや私服が|鈴《すず》|生《な》りになってぶら下がっている。最後の一台には橘署長に金田一耕助、古館弁護士。それに警部がひとり運転台にのっていた。自動車はすぐ雪解けの道のぬかるみをけって走り出した。 「杉山君、どのへんまで自動車で行けるだろう」  署長が運転台にいる警部にたずねた。 「この雪じゃたいしたことはありません。八合目くらいまでは行けるでしょう。相当スリップするでしょうがね」 「八合目まで行けりゃあ楽だ。この年になってスキーをやるとは思わなかったよ。山のぼりは元来苦手でね」  なるほど狸というあだ名があるくらい、酒ぶとりにでっぷり腹のつん出た橘署長には、雪の登山は苦手であろう。 「署長さん、それにしても、いったいなにが起こったんです。佐清がいったい、なにをやらかしたんです」 「そうそう、金田一さんにはまだ話してなかったな。昨夜、佐清がやってきてな、珠世を殺そうとしたんだよ」 「珠世さんを……」  金田一耕助は思わず大きく眼を見はった。 「ああ、そう」  署長の話によるとこうである。  昨夜、珠世は金田一耕助の招請に応じて、応接室のほうへやってきたが、佐清がしのびこんだのはその留守中のことだろうといわれている。佐清は珠世の寝室の、押し入れのなかにひそんでいたのである。  珠世は十一時ごろ寝室へさがると、電気を消してベッドへ入った。しかし興奮しているせいか、なかなか寝つかれず、一時間あまりも|輾《てん》|転《てん》反側していたが、そのうちになんとなく押し入れのなかが気になりだした。ごくかすかながらもののうごめく気配、息遣いがきこえるような気がするのである。  珠世は気丈な女である。電気をつけてスリッパをひっかけると、押し入れのまえへ行ってドアをひらいた。そのとたん、なかからとび出してきた男が、珠世におどりかかり、ベッドの上に押し倒すと、両手をのどにかけたのである。マフラで顔をかくした男であった。この物音に廊下から隣室へとびこんできたのは猿蔵だった。  寝室のドアはなかから|鍵《かぎ》がかかっていたが、巨人猿蔵にかかってはもののかずではなかった。ドアがうち破られ、猿蔵がなかへとびこんだときには、珠世は|曲《くせ》|者《もの》にのどをしめられ、すでに|昏《こん》|睡《すい》しかけていた。猿蔵はすぐに曲者におどりかかった。曲者も珠世をすてて猿蔵にむかってきた。  もし、このとき尋常にとっくんでいれば、相手は猿蔵の敵ではなかったのだが、二、三合わたりあっているうちに、相手のマフラがパラリと落ちたのである。猿蔵はその顔を見て立ちすくんでしまった。昏睡しかけていた珠世も悲鳴をあげた。  曲者は佐清だった。  佐清は立ちすくんでいる猿蔵を尻眼にかけて、寝室から外へとび出したが、そこへ寅之助や幸吉がかけつけてきた。かれらも佐清の顔を見ると|呆《ぼう》|然《ぜん》として立ちすくんでしまった。そのあいだに佐清は雪のなかへとび出してしまったのである。 「この報告がわしの耳にとどいたのが、一時ごろのことでな。それから非常線を張るやらなにやら大騒ぎさ。わしは雪のなかをのこのこと犬神家へ出かけていったが、かわいそうに、珠世はのどに無残な|痣《あざ》をこさえて、ヒステリーを起こしたように泣いていたよ」 「珠世さんが泣いていたんですって?」  金田一耕助はびっくりしたようにきき返した。 「そりゃあ泣くだろうさ。あやうく殺されるところだったんだからね。勝ち気なようでもそこは女だ」 「それで松子夫人は?」 「ああ、松子夫人か。どうもわしゃあの女は苦手ですな。ウイッチみたいな顔をして、眼ばかりギロギロ光らせながら、ひとことも口をきかない。あいつの口をわらせるのはひととおりのことじゃないな」 「それにしても佐清は、なんだって危険をおかして、珠世さんを殺しにきたんでしょうな。それにいままでどこにいたのか。……」 「そりゃ、佐清をつかまえてみなければわからない」  そろそろ解決の曙光が見えてきたので橘署長は上きげんだったが金田一耕助はそれきり黙って考えこんでしまった。  自動車はすでに雪ケ峰の登山路にさしかかっている。|狭《はざ》|間《ま》新田をすぎ狭間の部落をとおり過ぎると、もうその上には人家はない。すでに相当のスキーヤーが登っていったと見えて、雪もかなり踏みならされて、予想よりはるかに楽な自動車行であった。 「署長、このぶんじゃ八合目までは大丈夫ですぜ」 「うむ、ありがたいな」  笹の海のあたりまで来ると、スキーをつけた私服がひとり、道ばたで待っていた。 「署長、たしかにこの道です。いま連中が追いこんでます」 「よし」  自動車は雪をきしらせながら勇躍走りつづける。|拭《ぬぐ》いをかけたように晴れわたった空には、|陽《ひ》が美しくかがやいて、山々谷々を埋めつくした雪の反射が眼にいたかった。おりおり道ばたの|梢《こずえ》から、ドサリと大きく雪が落ちてくる。自動車は間もなく八合目の地蔵坂へたどりついた。これより上は自動車では無理である。  一同は自動車からとびおりると、それぞれスキーをはいた。 「金田一さん、大丈夫ですか」 「大丈夫、そのかわり相当珍妙な格好をお眼にかけますが」  なるほど、そのときの金田一耕助の格好こそ、世にも見ものであった。かれは二重回しをぬぎ、羽織をぬぎ、|袴《はかま》をぬぐと、尻はしょりをして、メリヤスの|股《もも》|引《ひ》きの上に靴下をはきスキー靴をつけた。 「金田一さん、そいつは……あっはっは」 「笑っちゃいけません。そのかわり手練のほどを見てください」  なるほど豪語するだけあって、一行のなかではかれがいちばん達者だった。両肩にステッキをかついで、タ、タ、タと登っていった。橘署長は大きな腹を持てあましながら、ハアハアいってついてくる。  間もなく一行は九合目を過ぎ、頂上の沼の平のちかくまで来たが、そのとき上から滑ってくる私服のひとりに出会った。 「署長さん、早く来てください。いま、見つけて追っかけているところです。野郎、ピストルを持ってやあがんで」 「よし」  一行が足を早めて登っていくとき、突然、上のほうからパンパンとピストルを撃ちあう音がきこえてきた。 「あっ、はじめやあがった」  金田一耕助は兎のようにピョンピョンと、急な坂を登っていったが、やがて沼の平のスロープの頂上までたどりついたとき、そんな場合にもかかわらず、かれは思わず、 「ああ、きれいだ」  と、叫んで立ちどまらずにはいられなかったのである。  |豁《かつ》|然《ぜん》としてうちひろがった、雪一色のゆるやかな起伏、その向こうに、|峨《が》|々《が》たる八ケ岳の連峰が、これまた雪におおわれて、眉にせまらんばかり間近に見える。|紺青《こんじょう》の空、薄紫色ににおうばかりの雪の|襞《ひだ》。……  だが、金田一耕助の|恍《こう》|惚《こつ》は、それほど長くはつづかなかった。スロープの下のほうから、またしてもきこえてきたのは、パンパンとピストルを撃ちあう音。  と、見れば、はるか下のほうで、復員風の男を遠巻きにして、三人の私服がじりじりと迫っていく。耕助といっしょに登ってきた連中は、それを見ると、いっせいに|燕《つばめ》のように滑降していく。金田一耕助もそのあとから、尻はしょりで滑っていった。  復員風の男は八方から、私服のお巡りさんにとりかこまれて、もう袋のなかの鼠も同然だった。かれはステッキをすて、スキーをはいたまま|仁《に》|王《おう》立ちになっていた。眼が血走り、くちびるのはしから血をたらしている形相がものすごい。  復員風の男はまた一発、二発撃った。それに応じてお巡りさんたちのピストルが火をふいた。金田一耕助はそのほうへ滑っていきながら、 「そいつを殺しちゃいけない。そいつは犯人じゃないのだから」  その声が耳に入ったのか、復員風の男はギョッとしたように金田一耕助のほうをふり仰いだ。一瞬、手負い|猪《じし》のような凶暴な光が、その男の眼のなかにもえあがった。  男はピストルを持った手をひらりとひるがえすと、自分のこめかみに銃口をあてがった。 「あっ、そいつを殺すな」  金田一耕助が絶叫した刹那、だれのはなった一発か、男の|拳《こぶし》をつらぬいたと見えて、相手はピストルを取りおとしたかと思うと、雪の上に|膝《ひざ》をついていた。そして、そのつぎの瞬間には、おどりかかった数名の私服によって、男の両手には手錠がはめられていたのである。  橘署長と古館弁護士が、男のそばへちかづいていった。 「古館さん、いかがですか。この人物に見覚えがありますか」  古館弁護士は息をのみ、相手の顔を見守っていたが、すぐ暗い眼をして顔をそむけた。 「そうです。このひとこそ犬神佐清君にちがいありません」  橘署長はうれしそうに両手をこすりあわせたが、やがて、金田一耕助のほうをふりかえると、眉をひそめて、 「金田一さん、あんたはさっき妙なことをいいましたね。その男は犯人じゃないと、あれはどういう意味ですか」  金田一耕助は、突然、バリバリジャリジャリともじゃもじゃ頭をかきまわしはじめた。そして、いかにもうれしそうに、 「ショ、ショ、署長さん、ド、ド、どういう意味も、コ、コ、こういう意味もありませんよ。コ、コ、このひとは犯人じゃないのですね。タ、タ、たぶんこのひとは、あくまで自分が犯人だといいはるでしょうけれどね」  さっきから凶暴な眼で耕助をにらんでいた佐清は、そのとき、手錠をはめられた両手を、絶望したように打ちふると、ドサリと雪の上に横倒しになったのである。      わが告白  十二月十五日。  昨日からうちつづく好天気に、那須湖畔をうずめつくした雪も、だいぶ根がゆるんできたけれど、それにもかかわらず、那須市とその周辺に住むひとびとのあいだには、いま、つめたい|戦《せん》|慄《りつ》と緊張とが、空気中に浮遊するバクテリヤのように|瀰《び》|漫《まん》している。  かれらはみんな知っているのだ。那須湖畔いったいを|震《しん》|撼《かん》させた、あの犬神家における連続殺人事件の、もっとも有力な容疑者が、昨日、雪の雪ケ峰でとらえられたということを。そして、その容疑者こそはほかならぬ、犬神佐清そのひとであったことを。さらにまた、その佐清とこの事件の関係者一同との対決が、今日これから、犬神家の奥座敷でおこなわれようとしていることを。  さらにかれらは知っているのだ。去る十月十八日、若林豊一郎殺しにはじまった、この一連の殺人事件も、いよいよ大詰めにちかづいているということを。ただ、だれにもわからないのは、犬神佐清がはたして真犯人であるかどうかということである。しかし、それも今日の対決によって、ハッキリわかるのではあるまいか。  だから、那須湖畔に住むひとびとは、|固《かた》|唾《ず》をのむ思いで、犬神家のかたを凝視しつづけているのである。  その犬神家の奥座敷では例の十二畳二間をぶちぬいて、いま、異様に緊張した顔、顔、顔がならんでいる。  松子夫人はあいかわらず、しんねり強い顔色で、たばこ盆をひきよせて、|悠《ゆう》|然《ぜん》として、長ぎせるで刻みたばこをすっている。細いながらも、バネのように|強靭《きょうじん》な体質をもったこの女は、いったい、いまなにを考えているのであろうか。  彼女も昨日雪ケ峰で、本物の佐清がつかまったということを、聞いていないはずはないのである。してみれば……いや、いや、本物の佐清がつかまる以前に、あの手型から、湖水に逆立ちしていた人物が、佐清でなかったことを知っているはずなのだ。  それにもかかわらず、彼女の態度にも表情にも、なんの動揺もあらわれていない。妹たちの|猜《さい》|疑《ぎ》と憎しみにみちた視線を、どこ吹く風とうけながしながら、小憎らしいまでに落ち着きはらって、|朱《しゅ》|羅《ら》|宇《お》のきせるでたばこをすっている。刻みたばこをもむ指先にも、|微《み》|塵《じん》のふるえも見られなかった。  松子からすこし離れたところに、竹子と夫の寅之助、梅子と夫の幸吉が、ひとかたまりになって座っている。松子の落ち着きはらっているのに反してかれらは皆一様に、猜疑と恐怖と不安におののいている。竹子のゆたかな二重あごは、極度の緊張のためか、ひっきりなしにふるえている。  この一団からまたすこし離れたところに、珠世がひとり、孤立の姿でひかえている。  彼女はあいかわらず美しい。美しいことにかけては、ふだんと少しもかわりはないが、しかし、今日の珠世はいつもの彼女ではなかった。呆然と放心したように見はった瞳には、どこかいたいたしい傷心の色が濃かった。なにをいわれても、どのような眼で見られても、ただ端然と、美しく取りすましていた珠世だのに、今日ははじめから、なんとなく取り乱した様子である。彼女をささえていた強い自我の根が、なにかのはずみに、ポッキリ折れたという格好だ。おりおりはげしい戦慄が、思い出したように彼女を襲う。  珠世からすこし離れたところに、琴の師匠の宮川香琴。彼女はまだ、自分がなぜこの席へ呼び出されたのか知っていないらしい。恐ろしい松竹梅三人姉妹をまえにおいて、彼女はただおどおどとおびえている。  香琴女からすこし離れて、金田一耕助と古館弁護士。古館弁護士はすっかり落ち着きをうしなって、しきりに|空《から》|咳《せき》をし、額をこすり、貧乏ゆすりをする。金田一耕助もさすがに興奮しているのか、一同の顔を見まわしながら、さっきから、もじゃもじゃ頭をかきまわしつづける。  午後二時ジャスト。  遠くのほうで|呼《よ》び|鈴《りん》の音がしたので、一同はさっと緊張する。間もなく縁側の向こうから、ドヤドヤ足音がちかづいてきて、まずいちばんに姿を見せたのは橘署長。それにつづいて左右から、刑事に腕をとられた犬神佐清。|蹌《そう》|踉《ろう》とした足どりで、手錠をはめられた右の手に、白い包帯がいたいたしい。  佐清は障子のそとまでくると、ギックリと、おびえたように立ちどまった。そしておずおずと一同の顔を見まわしていたが、その視線が、松子夫人までくると、はじかれたように顔をそむける。  と、その拍子にかれの視線は、カッキリと珠世の瞳とかみあった。しばらくふたりは活人画のように、眼を見かわしたまま身動きもしなかったが、やがて佐清がのどの奥で、すすり泣くような音をたてて顔をそむけると、珠世もガックリ、|呪《じゅ》|縛《ばく》がとけたようにうなだれた。  このとき、金田一耕助が、いちばん興味をもって見守ったのは、なんといっても松子夫人である。さすがに彼女も佐清の顔を見たとたん、さっと|頬《ほお》を紅潮させ、きせるを持つ手がふるえたが、すぐに日ごろのしんねり強い顔色にもどると、落ち着きはらって、しずかに刻みたばこをもみはじめる。  その意志の強さには、金田一耕助も舌をまいて驚嘆した。 「おい、佐清君をこれへ……」  橘署長の声に刑事のひとりが、手錠をはめられた佐清の肩をおした。佐清はよろよろと座敷のなかへ入ってくると、橘署長の指さすままに、金田一耕助のまえの席につく。刑事がふたり、いざという場合、いつでもとびかかれるように背後にひかえる。橘署長は金田一耕助のとなりの席に座った。 「で……?」  ちょっとした沈黙があってのち、金田一耕助が署長のほうをふりかえって、 「なにか新しい事実をききだすことができましたか」  橘署長はむっつりと、口をへの字なりに結んだまま、ポケットからしわくちゃになった茶色の封筒をとりだした。 「読んでごらんなさい」  金田一耕助が手にとってみると、表には、 「わが告白」  と、あって、裏には、 「犬神佐清」  太い万年筆の走り書きである。  封筒のなかには粗末な|便《びん》|箋《せん》が一枚、表書きと同じ字で、 [#ここから1字下げ]  犬神家における連続殺人事件の犯人は、すべて私、犬神佐清である。私以外の|何《なん》|人《ぴと》も、この事件には関係がない。自決の直前に当たってこのことを告白す。 [#ここから1字下げ] [#地から2字上げ]犬神佐清  金田一耕助はこれを読んでも、かくべつなんの興味もおもてにあらわさなかった。無言のまま、便箋を封筒におさめてそれを署長にかえすと、 「佐清君がこれを持っていたんですね」 「そう、内ポケットに」 「しかし、佐清君は自殺するつもりならなぜさっさと自殺しなかったんです。なぜあんなふうに、警官に抵抗しなければならなかったんです」  橘署長は|眉《まゆ》をひそめて、 「金田一さん、それはどういう意味です。それじゃあんたは、佐清君に自殺するつもりなどなかったというのかな。しかし、あんたも昨日、その場にいあわせたから知ってるはずだが、あのときこちらのだれかのはなった弾丸が、佐清君の右手に命中しなかったら、このひとはたしかに自殺してたはずだぜ」 「いやいや、署長さん、ぼくのいうのはそうじゃないんです。佐清君はたしかに自殺するつもりだった。しかし、それをできるだけ、はなばなしく、劇的にやりたかったのです。できるだけ世間の注目をひきたかったのです。そうすればするほど、告白書の効果が強くなるわけですからね」  橘署長はまだ|腑《ふ》に落ちかねる顔色だったが、金田一耕助は委細かまわず、 「いや、さっきぼくのいったことには、ひとつ大きなまちがいがある。佐清君はなぜ警官に抵抗したかといいましたが、これはまちがい。佐清君は抵抗なんかちっともしやあしなかったんだ。ただ、抵抗してるふうをしていただけなんです。このひとの銃口は、絶対に警官をねらってはいなかった。いつも雪をねらっていたんです。署長さん、あなたはそのことに気がつきませんでしたか」 「そういえば、わしもあのとき、ちょっと不思議に思ったんだが……」 「ああ、それじゃあなたも気がついていらしたんですね」  金田一耕助はうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「署長さん、このことはよく覚えておいてくださいよ。佐清君の罪を決定する際に、ひとつの反証になるわけですからね」  橘署長はまだ腑に落ちかねるように顔をしかめた。しかし、金田一耕助は依然として委細かまわず、 「ときに署長さん、佐清君はこの告白書に書かれていることについて、具体的に語りましたか、どういうふうにして殺したのだというようなことを……」 「いや、それが……」  と、署長はにがりきった顔色で、 「このひとは絶対に口をわろうとしないんだ。すべての事件の犯人は自分である。ほかのだれも関係はないと主張するばかりで、それ以外のことは絶対に口外しようとしないんだ」 「なるほど、なるほど、おおかたそんなことだろうと思いましたよ。しかし、ねえ、佐清さん」  金田一耕助はにこにこと、|愛嬌《あいきょう》のある笑顔を佐清のほうにむける。佐清はしかしさっきから、無言のままうなだれたきりだった。  なるほどその顔は、ついこのあいだまで、佐清を名乗っていた、男のかぶっていた、あのゴムの仮面にそっくりだった。ただちがっているのは、あの仮面は生気と表情にかけていたが、いま眼前にある佐清の顔には、血がかよっており、そしていたましい表情にみちている。まだ南方やけの|褪《あ》せきれぬ、たくましい顔色ながらげっそりやつれて|憔悴《しょうすい》していた。  しかし、身だしなみのほうはそれほど見苦しくなかった。ひげものびていなかったし、頭も最近散髪したばかりのように首筋から後頭部へかけて、きれいに刈りあげられていた。むろん、髪は乱れていたけれど。……  金田一耕助はなにかしらうれしそうに、佐清の刈り上げられた頭を見ながら、 「ねえ、佐清さん」  と、もう一度いって、 「あなたがすべての事件の犯人だなんてことは不可能ですよ。たとえば若林豊一郎氏の場合ですがね。若林氏が殺害されたのは、十月十八日でしたよ。ところがあなたが山田三平と名乗って、ビルマから博多へ復員してこられたのは、十一月十二日のことだった。このことは署長さんからもおききおよびのことと思いますが、佐武さんが殺された晩、すなわち十一月十五日の晩、山田三平と名乗る復員風の男が、下那須の柏屋という旅館に一泊している。しかも、その男の立ち去ったあとには、復員援護、博多友愛会と染めぬいた、血染めの手ぬぐいがのこっていた。そこで警察のほうで博多へ照会したところ、十一月十二日入港した復員船のなかに山田三平と名乗る人物がたしかにいたという。しかも山田三平なる人物が、落ち着き先として告げていったのが、東京都麹町区三番町二十一番地。柏屋にのこっている番地と同じで、これは東京にあるお宅の別邸の番地なんですね。つまりあなたは名前をかえて復員してこられたが、とっさに、適当な場所が思いうかばなかったので、落ち着き先として東京にあるお宅の番地をいわれたんですね。しかし、そのとき復員したばかりのあなたは、区名がかわっていることをご存じなかったので、昔どおり麹町区としておかれたんですね」  佐清は依然として無言の|行《ぎょう》をつづけている。かれよりもむしろほかのひとたちのほうが熱心に、金田一耕助の話に耳をかたむけていた。 「さて、山田三平なる人物は、博多に一泊したのち、翌十三日そこを立って東京へむかっている、と、すれば十五日の晩、下那須の柏屋へあらわれることは不可能ではないのだから、当然、十五日の晩、柏屋へあらわれた山田三平と、十二日博多へついた復員者、山田三平とは、同一人物、すなわちどちらもあなただったということになる。佐清さん、ぼくがなにをいおうとしているのかわかりますか。すなわち、十一月十二日に博多へ復員してきたあなたが、どうして十月十八日に起こった若林豊一郎殺しの犯人でありうるのです」  一同は|固《かた》|唾《ず》をのんで佐清の顔を見まもっている。佐清はそのときはじめて、おずおずと顔をあげた。 「それは……それは……」  佐清はくちびるをふるわせながら、 「若林事件のことはぼくも知りません。ぼくのいっているのは、この家で殺された三人の人物のことです。若林事件はこの事件と、なにも関係がないんです」  そのときである。金田一耕助が突然バリバリガリガリと、頭の上の雀の巣をひっかきまわしはじめたのは。それは耕助のくせをまだ知らぬ、佐清がびっくりして、眼をまるくしたくらい猛烈なものだった。 「しょ、しょ、署長さん、佐清君のいまのことばをおききでしたか。佐清君は暗黙のうちに、十一月十二日、博多へ復員してきた山田三平、それから十一月十五日、柏屋へあらわれた山田三平が、ともに自分であることを認めたんですよ」  しまった! というような凶暴な光が、一瞬、佐清の瞳のなかにもえあがった。だが、すぐあきらめたようにガックリ肩をおとしてうなだれる。  金田一耕助はにこにこしながら、 「いや、佐清さん、ぼくはけっしてカマをかけるつもりはなかったんですよ。しかし、ただそのことは一応たしかめておきたかったんです。これで手数がはぶけました。ところで佐清さん、若林事件のことですがねえ、それが犬神家の殺人事件と関係があることは、まだハッキリ証明されてはおりません。しかし、常識として、同一犯人によるものとしか考えられないのです。しかし、それはそれとしておいて、では最後に、にせものの佐清殺しの場合にうつりましょう。あのひとが殺されたのは、十二日の夜の十時から十一時のあいだですが、死体が湖水へさかさにつけられたのは、それから一時間のちということになっています。ところで佐清さん、あなたはその時刻にこちら、すなわち那須市にいましたか」  佐清は無言である。かれはもうどんなことがあっても、こんりんざい、口をひらかぬ覚悟とみえる。金田一耕助はにっこりわらって呼び鈴をおした。呼び鈴に応じて女中がくると、 「ああ、きみ、あちらに待たせてあるひとびとを、こちらへつれてきてくれたまえ」  女中はいったんひきさがったが、すぐにふたりの男を案内してきた。ひとりは黒い|詰《つめ》|襟《えり》をきた男、もうひとりはカーキ色の復員服をきた人物、どちらもまだ若い青年である。橘署長は不思議そうに眉をひそめた。 「署長さん、御紹介しましょう。こちらは上那須駅につとめている上田啓吉君、十三日の晩、新宿発の下り列車が、九時五分に上那須駅へついたとき、降車口の改札に立って切符をうけとっていたひとです。それからあちらは輪タクの運転手さんで、同じころ、駅のまえで客待ちをしていた小口竜太君、さて上田君、小口君、このひとに見覚えがありますか」  金田一耕助が佐清を指さすと、ふたりは言下にうなずいた。 「このひとなら……」  と、上田啓吉はあらかじめことばを考えてきたらしく、 「十三日の晩、午後九時五分上那須着の下り列車からおりた客のひとりです。大雪の晩だったし、なんとなくこのひとのそぶりがへんだったので、よく覚えているんです。受け取った切符は新宿駅発行のものでした」  輪タクの運転手小口竜太もことばをそえて、 「このひとならば、私も見覚えがございます。十三日の晩、九時五分の下りがついたとき、私は駅のまえで客待ちをしていたんですが、あの列車からはほんのわずかしかお客はおりなかったんで、……私はこのひとに輪タクをすすめたんですが、このひとはひとこともおっしゃらずに、顔をそむけるようにして、スタスタと雪のなかをあるいていったんです。ええ、もうまちがいはございません。大雪の晩のことでしたからね」 「ああ、そう、ありがとう。それじゃいずれまた、警察から呼び出しがあるかもしれませんが、今日はこれで……」  ふたりが立ち去ると、金田一耕助は署長のほうをふりかえって、 「今朝ね、佐清君の写真をもって上那須駅へききにいってみたんですよ。それというのが、佐清君のあの頭ですがね。あれがぼくには気になった。あの頭は散髪してから、まだ三、四日しかたっていませんよ。ところで佐清君はこの土地で、散髪するようなことは絶対にない。散髪屋では顔をかくすわけにはいかないし、よしまた散髪屋自身佐清君を知らないにしても、いつなんどき知っている人物が、入ってこないとも限りませんからね。だから佐清君が散髪をしたとしたら、どこかほかの土地にちがいない。と、すればいつこちらへやってきたか、それを知りたかったので、駅へききにいってみたんです。そのときぼくはこう考えた。佐清が顔をかくしていたらなんにもならないがおそらくそんなことはあるまいと。なぜならば、佐清君はあのとおり復員服を着ています。いまこの那須|界《かい》|隈《わい》じゃ、顔をかくした復員風の男といえば、みんなが|鵜《う》の目、|鷹《たか》の目でさがしているんですからね。だから佐清君は人眼をさけながらも、顔をかくすわけにはいかなかった。だからああして上田君と小口君に顔を見覚えられたんですよ」  金田一耕助はそこで、宮川香琴のほうをふりかえると、 「ときに宮川先生、あなたがこちらへおいでになったのも、十三日午後九時五分上那須着の列車でしたね」 「はあ、さようでございます」  香琴女の声は消え入りそうである。 「そしてあなたは東京で、夕刊を読んで佐清さん殺しのことを知り、驚いて駆けつけてきたんでしたね」 「はあ」  金田一耕助はにこにこと、橘署長のほうをふりかえり、 「署長さん、おわかりですか。宮川先生は夕刊で、佐清さん殺しを知って、いそいで東京から駆けつけてこられたんですよ。してみれば、同じ列車で東京からやってきた佐清君も、東京で夕刊を読んだかもしれないのです、少なくともその可能性はあるわけです。すなわち佐清君も夕刊で、にせ佐清殺しを知って、驚いて駆けつけてきたのかもしれないんです」 「しかし、それはなんのために……」 「珠世さんを殺すまねをするためにです」 「まね……まねですって?」  はじかれたように顔をあげたのは珠世である。青ざめた顔にさっと血の気がさして、金田一耕助を見つめる瞳に、異様な熱とかがやきがある。  金田一耕助はなぐさめるように、 「そうですよ。まねですよ。佐清君にはあなたを殺す意志など毛頭なかったんです。ただ、告白書の効果をつよめるために、あなたを殺すまねをしてみせたんですよ」  突如、大きな感動が珠世の全身をおしつつんだ。珠世ははげしく体をふるわせながら、張りさけるような眼で、金田一耕助を見つめていたが、そのうちにふうっと瞳がうるんできたかと思うと、泉のように涙が|湧《わ》きだし、やがて彼女はせぐりあげるように泣きむせびはじめたのである。      静馬と佐清  これには金田一耕助も驚いた。しばらくかれは|呆《ぼう》|然《ぜん》として、珠世のはげしい発作をながめていた。  金田一耕助はいままで珠世を強い女だと思っていた。事実、強い女にはちがいなかった。そして、そのためにややもすれば、女らしさにかけるのを、惜しいことだと思っていたのだ。ところがいま眼のまえに見る珠世のいじらしさはどうだろう。泣きむせぶ彼女の全身から発散するのは、切ないような孤独の訴えなのである。金田一耕助ははじめて珠世という女の魂にふれたような気がした。  耕助はのどにからまる|痰《たん》を切りながら、 「珠世さん、あなたにとってはこのあいだのこと……佐清君に殺されかけたことが、そんなに大きなショックだったのですか」 「あたし……あたし……」  珠世は顔に両手をおしあてたまま、なおも|嗚《お》|咽《えつ》をつづけながら、 「佐清さんがこんどの事件の犯人だなど、どうしても考えられませんでした。だから……だから……その佐清さんがあたしを殺そうとなすったのは、ひょっとしたら、逆にあたしを疑っていらっしゃるのじゃないかしら……あたしそんなふうに考えたんです。それがあたしにはいやでした。悲しかったんです。あたし、だれに疑われたってかまわないわ。平気だわ。だけど、佐清さんだけには疑われたくないの。そんなこと、いやよ、いやよ、あたし、それが悲しくて……」  珠世は肩をふるわせて、ふたたびはげしく嗚咽する。  金田一耕助は佐清のほうをふりかえって、 「佐清さん、いまのことばをききましたか。あなたはあるひとをかばうために、珠世さんの魂を殺そうとしたも同然ですよ。よく考えなければいけませんね。珠世さん、もう泣くのはおやめなさい。あなたほどの女性がどうしてこのあいだの襲撃が、単なる見せかけにすぎなかったということがわからなかったんですかね。だって、佐清君はピストルを持っていたんですよ。あなたを殺そうと思えば、たった一発でやれたはずなんです。それもあなたを殺しておいて、自分はあくまで逃げおおせようというのならともかく、佐清君はちゃんと自殺の覚悟をしていたんですよ。佐清君はあなたを殺しそこなったあげく、警官に追いつめられた結果、自殺しようとしたんじゃないのですよ。なぜって佐清君はポケットに、ちゃんと遺書を持っていた。あの遺書は東京をたつときから持っていたのにちがいない。まさかあなたを殺しそこなって、雪のなかへとび出した佐清君が、警官に追われる身で、便箋だの封筒だのを買おうとは思えない。そうです。佐清君は東京をたつときから、自殺の覚悟をしていたんです。自殺を覚悟したひとが、ピストルの音をおそれるはずがない。だから佐清君にほんとうにあなたを殺す意志があったのなら、十三日の晩、一発のもとにあなたを撃ち殺し、自分も自殺することができたはずなんです。そういうことから考えても、あの晩の襲撃が、単なる見せかけにすぎなかったということがわかるじゃありませんか」 「よくわかりました」  珠世はしずかにこたえた。彼女はもう泣いていない。そして、金田一耕助を見る眼に、なんともいえぬやさしさと、深い感謝の色がみなぎっていた。 「あなたのおかげで、あたしは地獄の苦しみから救われました。なんといってお礼を申し上げてよいやら……」  それははじめて珠世からきく、やさしい言葉であった。金田一耕助はすっかり照れて、 「いや、そ、そ、そういわれると、ど、ど、どうもどうも」  と、しきりにもじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、やがてぐっとつばをのみこむと、 「さて……と。これで佐清君が十三日の晩、東京からこっちへやってきたこと、それから珠世さんへの襲撃が単なる見せかけにすぎなかったということがわかりましたが、しかし、まだこれだけでは十二日の晩の、にせ佐清君殺しに無関係とはいいきれません。なぜといって、十二日の晩にせ佐清君を殺しておいて、その夜の終列車か、翌朝のはやい汽車で東京へたてば、十三日の晩の九時五分には、またこっちへやってくることができます。しかし、それは不可能ではないというだけのことで、どう考えても不合理ですね。そんなことをするくらいなら、十二日の晩、ついでに珠世さんを襲撃し、自殺してしまえばいいのですからね。それに問題は佐清君のその頭です」  金田一耕助はにこにこと佐清の頭を見ながら、 「その頭はどう見ても、散髪してからまだ間のない頭です。だから佐清君の写真を東京じゅうの散髪屋にくばって注意を喚起すれば、きっとどこで散髪したのかわかりましょう。その散髪屋だけではダメとしても、そこから佐清君の足取りをたどっていけば、十二日の夜、佐清君がどこにいたかわかるだろうし、それからひいて、にせ佐清君殺しに関するアリバイが構成されやあしないかと思うんです。佐清さん、どうですか。この方法ではだめですか」  佐清は首うなだれたまま、わなわな肩をふるわせている。額にはねっとりと脂汗がういていた。そういう様子からみれば、金田一耕助のいまのことばが、痛いところをついているのだということがわかるのである。  橘署長は|膝《ひざ》をすすめて、 「すると、なにかな。十三日の晩、佐清君がこっちへやってきたのは、だれかをかばって、自分が犯人の役を買って出るためだったというんですか」 「そうです、そうです。にせ佐清君殺しは佐清君にとっても意外だったにちがいない。だから十三日の夕刊でそれを知ったとき、佐清君は非常なショックを感じたんでしょう。しかもまえの佐武君や佐智君の場合にはいつも犯人が外からきたか、外にいたように工作がしてあったが、こんどの場合にはそれがない。だから、このままにしておけば、真犯人があがってしまう。そこで佐清君は決心のほぞをさだめて、みずから身を殺し、犯人をかばおうとしたんです」 「だれです。それでは、その犯人というのは……」  橘署長のその声は、まるでのどに魚の骨でもひっかかっているような調子だったが、それに対する金田一耕助のこたえというのは、いとも無造作なものだった。 「ここまでお話しすれば、改めて指摘するまでもないと思いますが……そこにいらっしゃる松子夫人ですよ」  骨をさすような沈黙が、一瞬シーンと座敷のなかにみなぎりわたった。だれも特別に驚いたものはなかった。金田一耕助の話の途中から、みんなそれを知っていたのだ。だから耕助のくちびるから、犯人の名前がもれたとき、いっせいに松子夫人にむけられたまなざしには、|嫌《けん》|悪《お》と憎しみこそ強かったが、驚きの色を、示したものはひとりもなかった。  そういう憎悪のまなざしにとりかこまれながら、松子夫人は|悠《ゆう》|然《ぜん》としている。しずかにきざみたばこをもんでいる、松子夫人のくちびるには、渋いうすら笑いの影さえやどっていた。  金田一耕助は膝をすすめて、 「松子奥さま、話してくださるでしょうね。いいえ、きっとあなたは話してくださいます。あなたのなすったことは、みんな佐清君のためだったんですからね。その佐清君に犯人の役を買って出られちゃ、あなたのいままでの御苦心は、みんな水の泡になってしまいます」  松子夫人はしかしそのことばもきかず、またそのほうへ見向きもしなかった。食いいるようなまなざしで、わが子の横顔を見つめながら、 「佐清や、おかえりなさい。あなたがそのように無事な姿でかえってくると知っていたら、母さんはあんな馬鹿なことをするんじゃなかった。また、する必要もなかったのね。だって珠世さんは、きっとあなたを選ぶにちがいないんですもの」  そのことば、その声の調子には、いままでの松子夫人とは思えないほど、やさしさがあふれている。珠世はそれをきくとさっと|頬《ほお》をあからめ、佐清はうつむいたまま、わなわなと肩をふるわせた。 「佐清や」  松子夫人はことばをついで、 「それにしても、あなたはいつかえってきたの。そうそう、さっき金田一さまのお話によれば、十一月十二日博多へついたというのね。それじゃなぜそこから電報でもくれなかったの。なぜまっすぐにかえってこなかったの。そうすればお母さんは、人殺しなんかせずにすんだのに……」 「ぼくは……ぼくは……」  佐清はうめくようになにかいいかけたが、すぐはげしい身ぶるいをすると、ハタと口をつぐんでしまった。しかしまたつぎの瞬間、|昂《こう》|然《ぜん》と頭をあげると、 「いいえ、お母さん、あなたはなにもご存じないことなんです。みんなぼくがやったんです。ぼくが三人を殺したんです」 「お黙り、佐清!」  松子夫人の舌が|鞭《むち》のように鋭く鳴った。しかし、すぐまたことばをやわらげて、 「佐清や、あなたのその態度は母さんを苦しめます。あなたは母さんのためを思ってくれるでしょうが、かえってそれは母さんを苦しめることになるのですよ。それがわかったらなにもかも正直にいっておくれ。あなたはいったいなにをしたの。佐武の首を|斬《き》りおとしたり、佐智の死骸を豊畑村へはこんだりしたのは、あなたの仕業だったの。母さんはそんなこと、してもらいたくなかったのに」  金田一耕助が突然バリバリガリガリと、もじゃもじゃ頭をかきまわしはじめたのはそのときだった。 「あっ、そ、そ、それじゃやっぱりあなたがたは、ふつうの意味での共犯者じゃなかったんですね。佐清君は松子夫人にも知らさずに、こっそり後始末をしていたんですね」  松子夫人ははじめて金田一耕助のほうをふりかえった。 「金田一さま、わたしはこんな事件で人手を借りようと思うような女じゃない。ましてやわが子の手助けなど……第一、佐清がこんな無事な姿でかえっていると知ったら、なにも人殺しなどする必要はないじゃございませんか」 「わかりました。ぼくもだいたいそうじゃないかと思ったんですが、それにはあまりにも多くの偶然を、計算に入れなければならないものですから……」 「そうでした。偶然でした。恐ろしい偶然でした。恐ろしい偶然が何度も何度も重なってきたのでした」  うめくようにいったのは佐清だった。金田一耕助はいたましそうなまなざしで、やつれたその横顔を見つめながら、 「ああ、佐清さん、あなたも認めましたね。そうです。そのほうがよいのです。お母さんのおっしゃるとおりなにもかも正直に話したほうがよいのです。話してくださいますか。それともぼくが代わって話しましょうか」  佐清はびっくりしたように、金田一耕助の顔を見直したが、相手の自信にみちたまなざしを見ると、すぐしょんぼりとうなだれて、 「話してください。ぼくにはとても……」 「松子奥さま、よろしいですか」 「どうぞ」  松子夫人はあいかわらず、悠然とたばこをすいながら、落ち着きはらった声でこたえた。 「そうですか。それではぼくが代わってお話ししましょう。奥さまも、佐清君も、まちがっているところがあったら遠慮なく訂正してください」  金田一耕助はちょっといきを入れると、 「さて、十一月十二日に佐清君が山田三平という匿名のもとに復員してきたことは、さっきもいったとおりですが、佐清君がなぜそのような匿名を用いていたか、そこまではこのぼくにもわかりません。そのことはいずれ佐清君が話してくださるだろうと思いますが……さて、復員してきた佐清君が、いちばんになにをしたか、これはぼくにも復員の経験があるのでわかりますが、おそらく新聞を読むことだったろうと思います。復員者はだれでも内地の情報に飢えているものですし、その飢えをみたすために、収容所にはどこでも新聞のとじこみがそなえつけてあるものです。佐清君も博多へ上陸すると、おそらくいちばんに、新聞のとじこみにとびついたろうと思うのです。ところで佐清君はその新聞で、いったいなにを発見したか…」  金田一耕助はずらりと一座を見まわすと、 「皆さんもご存じでしょう。にせ佐清君の面前で、佐兵衛翁の遺言状が読みあげられたのは十一月一日のことでした。そしてこのことは全国的なニュースとなって伝えられ二日の新聞に大々的に掲げられました。佐清君は博多でその記事を読み、おそらく非常なショックを感じたことだろうと思います。なぜといって、だれかが自分の名前をかたって自分の家へ乗りこんでいるということがわかったのですからね」 「佐清!」  そのとき横から金切り声をあげたのは松子夫人だった。 「それならあなたはなぜ、すぐ電報をうってよこさなかったの。そいつはにせものだとなぜいってよこさなかったの。そうすれば……そうすれば、こんなことにはならなかったのに」  佐清はなにかいおうとしたが、すぐおびえたようにうなだれてしまった。金田一耕助がそれを引きとって、 「そうです。松子奥さま、あなたのおっしゃるとおりです。そうしていたらこんなことにはならなかったんです。しかし、佐清君には佐清君で考えがあった。おそらく佐清君にはそのにせものについて心当たりがあったのでしょう。佐清君にはそのにせものが憎めなかった。むしろ同情するところがあったのかもしれません。だから正面から告発する代わりに|隠《おん》|密《みつ》のうちに事をはこぼうと考えたのが、結果からいえばそれがいけなかった」 「いったい、そのにせものというのは何者だね」  橘署長の質問だった。金田一耕助はちょっとためらった。それはいうに忍びない名前である。さりとていわずにすませることではなかった。金田一耕助は口ごもりながら、 「これは佐清君にきかねばわかりませんが、ぼくにいくらか小説的想像を許してもらえるならば、あれは……あれは……静馬君ではなかったかと思います」 「ああ、やっぱり……」  はじけるような声をあげたのは宮川香琴女だった。彼女は泳ぐような手つきをして、ひと|膝《ひざ》ふた膝ゆすり出ると、 「おお、おお、それじゃあれはやっぱり静馬だったのですね。いえいえ、一昨日の晩あなたさまから、静馬と佐清さまと似ていなかったかときかれたときから、もしやと思っていたのでございます。おお、おお、それじゃいつかわたくしの手を引いてくれたのも、向こうでは母と知っていたのでございますね」  香琴女の不自由な眼から、ふいに滝のように涙があふれた。 「それにしてもあまりひどい。神様もあんまりひどうございます。ひとさまの身代わりとなってかえってきたのは、あの子も悪うございます。しかし、こんなに待ちこがれている母に、ひとことも名乗りもさせずに殺してしまうとは、神様もあんまりひどうございます」  香琴女の嘆きももっともだった。思えばかれらも幸うすきひとびとである。静馬がいったいどんな心で天一坊をきめこんだのか知らないけれど、そのために現在母を眼のまえにおきながら、名乗りもならず、しかも、人知れず殺されてしまったのだ。もしこの事件の真相が明るみへ出なかったら、かれはいつまでも佐清として葬られ、香琴女は永遠にかえらぬわが子を、いつまでもいつまでも待ちわびていたにちがいない。  佐清はくらい顔をしてため息をついた。竹子と梅子は恐ろしそうに肩をすくめる。ただ、松子夫人のみがあいかわらず、悠然として長ぎせるをもてあそんでいた。 「佐清さん」  香琴女の嘆きのいくらかおさまるのを待って、金田一耕助は佐清のほうをふりかえった。 「あなたはビルマで静馬君といっしょだったんですか」 「いいえ」  佐清はひくい声で、 「いっしょではありませんでした。部隊はちがっておりました。しかしあまりふたりが似ているので、両方の部隊で評判になって、ある日、静馬君のほうから会いにきてくれたのです。静馬君はぼくの名前を知っていました。名乗って素姓をあかされると、ぼくにも心当たりがありました。母たちはけっしてそのことにはふれませんでしたけれど、亡くなられたお|祖《じ》|父《い》さまから、聞かされたことがあったんです。前線ではふるい|怨《えん》|恨《こん》を忘れてしまいます。静馬君も旧怨をわすれて手を握ってくれました。その当座、たがいに行き来して、自分たちの過去のことを語りあうのを楽しみにしていたんですが、そのうちに戦争がしだいに|苛《か》|烈《れつ》になってきて、私たちは別れ別れになってしまったのです。その後静馬君は私たちの部隊が全滅したときき、てっきり私も戦死したことと思っているところへ、自分も顔にあのような戦傷をうけ、しかもなじみの部隊からもただひとり、離れるような羽目になったので、そのときはじめて、私の身代わりになろうと決心したのだそうです。なにしろビルマ戦線ときたら、めちゃめちゃでしたから、このような小説めいたことでもだれにも怪しまれずに行なわれたのです」  そこまで語って、佐清はまた深いため息をつく。     第九章 恐ろしき偶然 「なるほど、わかりました。それであなたは静馬君を告発するに忍びず、なるべくことを隠密のうちに運ぼうと、那須市へかえってくると、顔をかくしてひとまず柏屋へ落ち着いたのですね」 「しかし、金田一さん、佐清君はなぜ顔をかくす必要があったのかね」  そうことばをはさんだのは橘署長である。 「署長さん。それはいうまでもありませんよ。犬神家には仮面をかぶった佐清君がちゃんとひかえているんですよ。もし佐清君が町の人に顔を見られてごらんなさい。佐清君がふたりいるということになって、せっかくのこのひとの苦心も水の泡になってしまうじゃありませんか」 「あ、なるほど」 「ところがあのとき佐清君が、顔をかくしてかえってきたということが、のちになって非常に役に立ったんです。むろん佐清君はそんなことを勘定に入れていたわけじゃなかったんでしょうがね。さて、柏屋へいったん落ち着いた佐清君は、十時ごろそこを出てそっとこの家へ忍んできた。そしてひそかに仮面の佐清、すなわち静馬君を呼び出した。佐清さん、あなたがたはあのとき、どこで、話をしていたんですか」  佐清は落ち着かぬ顔色で、ソワソワあたりを見回しながら、あえぐような声で、 「ボートハウスのなかで……」 「ボ、ボートハウス!」  金田一耕助は大きく眼を見はると、いかにもうれしそうにもじゃもじゃ頭をかき回して、 「そ、それじゃ、犯罪現場のすぐ下ですね。ところで佐清くん、あなたは静馬君をいったいどうしようと思っていたんですか」 「ぼくは……ぼくは……」  佐清の声にはふかい嘆きがこもっている。世を|呪《のろ》い、人を恨むように、 「大きな誤算をしていたんです。ぼくの読んだ新聞には、にせ佐清が顔にけがをして、ゴムの仮面をかぶっているなんてことは出ていなかった。だからぼくは造作なく、静馬君と入れ替われると思っていたんだ。むろん、静馬君には……それ相当の財産をおくるつもりだった。だが、会ってみた静馬君は……思いがけなくあのていたらく、人知れず入れ替わるなんてことは思いもよらなくなりました。そこでふたりでいろいろ善後策を協議しているところへ……」 「ボートハウスの上の展望台へ、佐武君がやってき、それから間もなく珠世さんがやってきたんですね」  佐清はくらい眼をしてうなずいた。  一同はさっと緊張する。いよいよ事件の核心へふれてきたのだ。 「佐武君と珠世さんは、ものの五分も話していたでしょうか。そのうちにドタバタともみあうような足音がするので、私たちがハッとしていると、そこへ猿蔵がかけつけてきて、大急ぎで展望台の上へあがっていきました。それから間もなくだれかがドシンと|尻《しり》|餅《もち》をつくような音がし、急ぎ足で階段をおりてくる足音がしました。ボートハウスの窓からのぞいてみると、それは珠世さんを抱くようにした猿蔵でした。猿蔵と珠世さんは逃げるように、母屋のほうへ走っていきましたが、するとそのとき、ボートハウスのかげからヌーッと人が現われたのです。それが……それが……」 「松子奥さまだったんですね」  佐清はひしと両手で顔をおおう。  一同は|固《かた》|唾《ず》をのんで松子を見たが、あいかわらず彼女はしんねり強い顔色で、|悠《ゆう》|々《ゆう》と長ぎせるをもてあそんでいる。竹子の眼から、すさまじい憎悪の色がほとばしった。  金田一耕助は声をはげまして、 「佐清さん、しっかりしてください。ここがいちばん肝心なところじゃありませんか。松子奥さまは展望台の上へあがっていったんですね」  佐清は力なくうなずいて、 「ちょうどそのとき佐武君も、階段をおりようとしていたらしく、途中で話し声がしていましたが、そのままふたりでまた展望台へあがっていきました。と、思う間もなくひくいうめき声。ドスンとだれかの倒れる音、ころげるように階段をおりてきたのは母でした。私たち、私と静馬君は呆然として顔を見合わせていましたが、いつまで待っても佐武君がおりてくる様子もなく、また、物音ひとつきこえないので、静馬君とふたりでそっと階段をのぼっていくと……」  佐清はそこでまた、両手で頭をかかえこんでしまった。ああ、佐清の身をやくような|苦《く》|悶《もん》、煩悶、|懊《おう》|悩《のう》も無理ではない。かれは現在眼のまえで、母が人殺しをするところを見ていたのだ。ひとの子として、これほど大きなショックがあろうか。握りしめた一同の|掌《てのひら》には、じっとりと汗がにじんでくる。  金田一耕助も、さすがにその場の情景を、それ以上佐清に語らせるに忍びなかった。 「さて、それから仮面とマフラを利用して、あなたと静馬君が入れ替わるという大手品が演じられたわけですが、それを考えついたのは静馬君なんでしょうね」  佐清は力なくうなずいて、 「そのことがあって以来、私たちは主客まったく転倒してしまったんです。それまでは私が責め、静馬君がおろおろしていたんですが、こんどはそれは逆になりました。静馬君はけっして悪人ではないのですが、母たちに対する恨みはふかかった。かれは私に身をひけと迫りました。佐清の地位を永久に自分に譲れ、自分は珠世さんと結婚して、犬神家を相続する。もしそれに異議をとなえるならば、おれはおまえの母を殺人犯として告発する……」  ああ、なんという恐ろしいジレンマ。おのれの正当な地位を主張しようとすれば、かれは母を告発しなければならぬ。母を守ろうとすれば、地位も身分も財産も、さては恋人までひとに譲って、おのれは生涯、名もなき日陰の身として暮らさねばならないのだ。世のなかにこれほど恐ろしい窮地に立たされた人間が、果たしてほかにあるだろうか。 「あなたはそれを承知したのですか」  佐清は力なくうなずいて、 「承知しました。その場の雰囲気からして、そうするよりほかに方法はなかったのです。ところがそのとき静馬君があの晩行なわれた手型くらべのことを思い出したのです。あの晩は、母が強硬にはねつけたので手型をおさずにすみましたが、こうして殺人があったからには、明日は必ずおさされるだろう。そうなれば、にせものであることが暴露する。静馬君もそこでジレンマにおちいったのですが、そのとき思いついたのがあのゴムの仮面。それを利用して、一日だけ私に佐清の役目をつとめろというのです」  ああ、なんという怪奇な話だろう、あのゴムの仮面をにせ佐清にかぶらせることを思いついたのは、松子夫人だったということだが、そのときまさかそれが、こんなふうに役立つとは夢にも思わなかったろう。  佐清はすすり泣くように息をうちへひいて、 「なにをいわれても私はもう|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》でした。私は悪酒に酔ったような気持ちで、ただ、|命《めい》これに従うのみだったのです。すると静馬君は展望台をおりていって、どっからか日本刀を持ってきました。ぼくがびっくりして、なにをするのかとききますと、これもみんなおまえのおふくろを救うためだ。犯行が残虐であればあるだけ、女に疑いはかからぬと……」  さすがにそのあとは佐清も語るに忍びず、また金田一耕助も語らせようとはしなかった。宮川香琴はわが子の恐ろしい所業を思いうかべて、わなわなと薄い肩をふるわせている。  佐清はほっとふかいため息をついて、 「しかし、あとから思えばそのことは、私の母を救うためばかりではなく、自分の母の|呪《のろ》いを果たそうとしたんですね。さて、佐武君の首を|斬《き》りおとしてしまうと、私たちは着物を着かえ、私はあの気味悪いゴムの仮面をかぶりました。そのとき静馬君が、私にどこからきたかときくので、柏屋のこと、また醜聞をおそれてだれにも絶対に顔を見せなかったことを話すと、静馬君は手をうって笑いました。よしよし、それじゃあした一日、おまえはここでおれの身代わりをつとめろ、おれはこれから柏屋へ行って、おまえの身代わりをつとめてやる……」  金田一耕助は橘署長をふりかえって、 「署長さん、おわかりですか。佐清君がマフラで顔をかくしていたことが、ここで役に立ってきたんです。十一月十五日から十六日へかけて、この家と柏屋で、二重の身代わり二重の二人一役が演じられていたわけです。眼だけ出しているぶんにゃ静馬君の、あの恐ろしい顔の|崩《ほう》|潰《かい》も、だれにも気づかれる心配はありませんからね」  なんという奇妙な話であろう。すべてが偶然であった。なにもかもが偶然の集積であった。しかし、その偶然をたくみに|筬《おさ》にかけて、ひとつの筋を織りあげていくには、なみなみならぬ知恵がいる。静馬はそういう知恵の持ちぬしであり、こうしてここに、世にも怪奇な犯行|隠《いん》|蔽《ぺい》のためのカムフラージが行なわれたのである。 「着物を着かえ、マフラで顔をかくすと、静馬君は下へおりていって、ボートハウスからボートを|漕《こ》ぎだしました。私は展望台のはしから、佐武君の首無し死体と日本刀をボートのなかに投げおとしました。ボートはすぐに沖を目ざして漕ぎ出しました。私は静馬君の命令どおり、佐武君の生首を、菊人形の首とすげかえ、それから静馬君に教えられた部屋へ、こっそり忍んでかえったのです」  佐清の顔にはありありと疲労の色が濃くなった。|瞳《ひとみ》がぼんやり光をうしない、上体がふらふらふらついて声の調子にもかげりが多くなった。  そこで金田一耕助がひきとって、 「以上が十五日の晩のできごとなんですね。そうしてその翌日、十六日に手型くらべがあったわけですが、あの手型くらべこそぼくにとっては、致命的な盲点となったんですよ。なぜといって、人間の手型、指紋ほどたしかな身分証明書はありませんからね。まさかそこにあのような、大胆な大手品が演じられていようとは、夢にも知らなかったものですから、あの顔のくずれた佐清君こそ、ほんものの佐清君にちがいないと、ぼくは信じこんでしまったんです。そしてそのことが、ぼくの推理にとって、大きな妨げとなったんです。しかし、珠世さん、あなたはそのことに気がついていたんです」  珠世は驚いたように、金田一耕助の顔を見る。 「手型くらべが終わって、仮面の佐清さんがほんものの佐清さんにちがいないとわかったとき、あなたは二度までなにか発言しかけてよしましたね。あのときあなたはいったいなにをいおうとしたのですか」 「ああ、あのこと……」  珠世はいくらか青ざめると、 「あたし……知っていたんです。いいえ、知っていたといえばまちがいですわ。感じていたんです。全身でもって感じていたんです。くずれた顔を、あの気味の悪い仮面でかくしたひとが、佐清さんでないということを……それは女の直感といいますか……?」 「それとも恋する者の直感では……?」  金田一耕助がことばをはさむと、 「あら!」  と、珠世は|頬《ほお》を染めたが、すぐ、悪びれずに体をまっすぐに起こして、 「そうかもしれません。いいえ、きっとそうなのでしょう。とにかく、あたしはあのひとが、佐清さんではないと確信していたのに、手型が一致したというものですから、びっくりしてしまって、これがやっぱり顔のくずれたひとだろうかという疑いが、一瞬頭にひらめいたのです。そこで……」 「そこで?」 「そこで、あたしはいいたかったのです、仮面をとって……仮面をとって顔を見せて……と」  金田一耕助のくちびるから、鋭いうめき声がほとばしった。 「そのときあなたがそれをいってくれたら……少なくともあとの事件は起こらずにすんだのでしょうに……」 「すみません」  珠世は愁然として首うなだれる。金田一耕助はいくらかあわてて、 「いやいや、これはあなたを責めているのじゃない。ぼく自身の不敏を責めているのです。さて、あの晩、また佐清さんは静馬君といれかわったんですね」  佐清は無言のままものうげにうなずいた。 「あなたは展望台の下で静馬君と出会った。そしてすばやく着物を交換すると、静馬君のもとめに応じて、アッパーカットの一撃をくらわしておいて逃げだした。あのとき、静馬君が仮面をはずして、わざとあの醜い顔を露出していたのは、身代わりなどは使っちゃいないぞ、これ、このとおり、おれはやっぱり顔のくずれた男だぞということを、みんなに見せつけるためだったんですね」  佐清は、また力なくうなずいたが、そのときだった、珠世がことばをはさんだのは。 「でも、先生、あの晩、あたしの部屋へしのびこんだのはいったいだれだったんです」 「むろん、静馬君ですよ。静馬君がこの家へやってきたのは、約束の時間より早かった。その時分はまだ佐武君のお通夜で、みんなこのお座敷に集まっていたので、そこであなたのお部屋へしのびこんだのですよ」 「なんのために……!」 「それはね、静馬君の死んだいまとなっては、想像でいくより手がありませんが、おそらく静馬君はあの時計——指紋のある時計を取りもどしにきたのだろうと思いますよ」 「あっ!」  と、珠世は口をおさえる。彼女にもはじめて納得がいったのだ。 「静馬君はこの土地に佐清さんの手型がのこっていようなどとは、夢にも知らなかった。ところが十五日の晩手型をおすおさぬの|悶着《もんちゃく》があったことから、はじめてあなたの策略に気がついた。ひょっとすると、あれは時計に指紋をとるためではなかったかと。……静馬君は佐清さんを使って手型をおさせました。ああして一度手型をとれば、二度と指紋をとろうとはいうまいと考えたのでしょうが、もしあなたがあの時計を持ち出して、那須神社からもって帰った、佐清君の手型とくらべたら、なにもかもぶっこわしです。そこで時計をさがしにいったんですが、このことは静馬君が十六日の日、この家にいなかったことを示しています。この家にいたものならば、十六日の朝のあなたの告白から、時計は佐武君にわたり、その夜行方不明になっていることをみんな知っているはずなんです。それにしてもあの時計は……」 「その時計ならばここにあります」  つめたい声でそういったのは松子である。松子はたばこ盆の小引き出しをあけると、いっぱい詰まった刻みたばこのなかから、金側の懐中時計を取り出して、それを金田一耕助のほうへ押しやった。くるくると畳の上を回転しながら滑っていく金色の物件を見たとき、一同は思わず総毛立つような感じだった。あっ、その時計こそもっとも有力な罪のあかしではなかろうか。その時計をもっているものこそ、佐武殺しの犯人なのだ。  松子夫人は渋い微笑をうかべて、 「わたしは指紋のことなど知りませんよ。でも、佐武をうしろからさしたとき、よろよろとまえのめりになって倒れた佐武の胸から、すべり落ちたのがその時計、手にとってみると珠世さんが、佐清……にせものの佐清に、修繕をたのんで断わられた時計です。それをどうして佐武が持っているかわからなかったけれど、なんとなく|腑《ふ》に落ちなかったものですから、持ってかえって、こうしてかくしておいたのです」  これまた偶然であった。松子夫人はその時計のもつ、真の価値を知ってかくしたのではなかったのだ。事実はいつもそんなものなのであろう。こうしてだいぶなぞは解けたがしかし、そこにはまだ語りつくされぬ、多くのなぞがのこっている。……      悲しき放浪者 「いや、松子奥さま、ありがとうございました。この時計さえ出てくれば|完《かん》|璧《ぺき》です」  金田一耕助はギゴチなく、のどにからまる|痰《たん》をきりながら、佐清のほうをふりかえって、 「佐清さん、いままでのお話で、だいたい第一の事件はわかりましたから、それでは第二の事件にうつろうじゃありませんか。お見受けするところひどくお疲れのようですから、ぼくから質問させていただきます。あなたは適当にこたえてください。いいですか」  佐清は力なくうなずく。 「さて、十一月十六日の晩、ここをとび出して以来、あなたがどこに潜伏していられたのか知りませんが、第二の事件の起こった十一月二十五日には、あなたは豊畑村の空き家にいられた。そこへ佐智君が珠世さんをつれこんで、けしからぬふるまいに及ぼうとしたので、あなたがとび出し、格闘のすえ佐智君を椅子にしばりつけた。そうして猿蔵に電話をかけたのですね」  佐清は力のない眼でうなずいて、 「そうです。そうしておけば猿蔵が、珠世さんを救いにきたとき、佐智君のいましめを解いてくれると思ったのです」 「なるほど、ところが猿蔵は佐智君など見向きもせず、珠世さんだけつれていったので、佐智君が苦心|惨《さん》|澹《たん》のすえ、いましめを解くことができたのは、それからよほどのちのこと、おそらく七時か八時ごろのことでしょう。佐智君はいましめを解くと、ぬぎすてたシャツやワイシャツ、さては上着などを着て外へとび出したが、モーターボートのほうは猿蔵が乗ってかえったので、猿蔵の乗ってきたボートでこの家へかえってきた。……」 「な、な、なんですって。そ、それじゃあの晩佐智君は、この家へかえってきたんですか」  橘署長の驚きの声である。 「そうですよ、署長さん、あなたもごらんになったでしょう。佐智君の肌にいっぱいついていた縄目のかすり傷、あれだけのかすり傷がつくには、よほど縄目がゆるんでいなければならぬはずだのに、われわれが発見したときには、縄はガッキリ小ゆるぎもなく、佐智君の素肌にくいいっていましたよ。だからあれはあとからまただれかがしばりなおした証拠です。それからまた佐智君のワイシャツのボタン、あれは小夜子さんが持っていましたが、小夜子さんはあの日以来一歩もこのお屋敷を出ないのですから、どこで拾ったにしろこのお屋敷のなかにちがいないのです。だからぼくはあの晩きっと、佐智君はここへかえってきたにちがいない。そしてこのお屋敷のどこかで殺されたのだろうとにらんでいたのです」  橘署長がまたううむとうめいた。 「それをまた佐清君が、豊畑村の空き家へはこんでいったんですか」 「そうだろうと思います。佐清さん、そのところをあなたの口からお伺いしたいんですがね、あなたはどうしてこの家へ来られたんです」  佐清はまたはげしく肩をふるわせた。そして光のない眼で、ぼんやりと畳の目を見つめながら、ひくい声で語りだした。 「恐ろしい偶然です。なにもかもが|呪《のろ》わしいめぐりあわせなんです。豊畑村の空き家をとび出した私は、もう二度とあそこへかえれなくなりました。佐智には絶対に顔を見せませんでしたけど、顔をかくした復員風の男がそこにいたということはすぐ警察に知れるでしょう。そうすれば、警察の追及がきびしくなるにきまっています。それまで私はなんとなく、この湖畔から離れがたくて、転々としてあちこちにひそんでいたんですが、もうこうなったらしかたがない。東京へでも行ってしまおう。そう思ったのですが、それには相当まとまった金がいる。そこでそのことを相談するために、私はここへ忍んできて、口笛で静馬君を呼び出したのです。実はまえにも一度、そうして静馬君に会って金をもらったことがあるので、あの晩も静馬君はすぐに出てきました。私たちはいつものとおりボートハウスのなかで会ったのですが、私がその日のいきさつを話し、東京へ行きたいというと、静馬君はとてもよろこんでいました。あの男はまえからぼくを、那須周辺から追っぱらいたくてしようがなかったんですからね。ところがそんな話をしているところへ、だれかが水門の外へかえってきました。そして、水門がひらかぬと見ると、塀をかけのぼって、屋敷のなかへ入ってくる様子です。私たちはびっくりして、ボートハウスの窓からそっとのぞいてみましたが、それが佐智君でした」  佐清はそこでほっとひと息入れると、 「私はびっくりしました。佐智君は猿蔵にいましめを解かれてもうとっくにかえっているとばかり思っていたのですからね。その佐智君はひどくつかれて取り乱した様子で、ボートハウスのまえをとおり、よろよろと母屋のほうへ行くのです。私たちは何気なく、そのうしろ姿を見ていたのですが、するとそのとき、だしぬけに|闇《やみ》のなかから、二本の腕が出たかと思うと、うしろから、ひものようなものを佐智君の首にまきつけて……」  佐清はそこでことばを切ると、はげしい身ぶるいをして、右手の包帯で額の汗をこすった。骨をさすような沈黙が、ものすさまじく座敷のなかにみなぎりわたる。梅子と幸吉の眼に、真っ黒な憎悪の炎がもえあがった。 「格闘は一瞬にして終わりました。佐智君はぐったりと土の上に倒れました。佐智君を絞め殺した人物は、はじめて闇のなかから出てきて、しばらく佐智君の上にかがみこんでいましたが、やがて身を起こしてあたりを見回したとき、ぼくは……ぼくは……」 「それがだれだかわかったのですね」  佐清は力なくうなずいて、またはげしい身ぶるいをした。ああ、それにしてもなんという恐ろしい偶然だろう。佐清は一度ならず二度までも、世にも恐ろしい母の所業を目撃したのだ。世にこれほど残酷な運命におかれた人物があろうか。 「あのときわたしは……」  そう語り出したのは松子夫人である。松子夫人は一同のけわしい視線を全然無視して、抑揚のない、まるで|暗誦《あんしょう》でもするような声で語るのであった。 「お琴のけいこをしていたのですが、なにか用事があって、佐清の部屋へ入っていきました。皆様はご存じかどうか存じませんが、佐清の部屋の丸窓からは、湖水の一部が見えるのです。そのときちょうど丸窓があいていたので、なにげなく外を見ると、だれかボートでこっちへやってくる。間もなくボートは、ボートハウスの陰になってしまいましたが、ひょっとするとあれは佐智ではなかったかしらと考えたのです。それというのが宵から梅子さんが、佐智の姿が見えないといって、騒いでいることを知っていたものですから。……そこでそっと離れをぬけ出し、暗闇で待っていますと、果たしてやってきたのは佐智でした。そこで帯締めでうしろから……佐智はひどく弱っていたとみえて、ほとんど抵抗らしい抵抗もせず……」  松子夫人はものすごい微笑をうかべる。梅子がヒステリーを起こしたようにはげしく泣き出したが、金田一耕助はそれを完全に無視し、 「そのときあなたは佐智君のワイシャツのボタンで、右の人差指をけがしたのですね。そしてそれと同時にボタンがとんだ……」 「そうなのでしょう。でも、そのときわたしは少しもそれに気がつかなかった。離れへかえってから指のけがに気がついたのです。幸い血はすぐにとまりましたので、痛さをこらえて琴をひいてたのですが、香琴さんにどうやら看破されたらしいのね」  松子夫人はまたものすごい微笑をうかべる。おそらくそれこそ殺人鬼の微笑というのであろう。  金田一耕助は佐清のほうをふりかえって、 「佐清さん、それではどうぞ、あなたのお話をつづけてください」  佐清はおこったような眼で、金田一耕助をにらみすえたが、それでもしかたなしに、また呪わしい話をつづけていく。 「母の姿が見えなくなると、私たちは現場へ駆けつけました。そして静馬君とふたりで、佐智君の体をボートハウスのなかへかついでくると、なんとかして、もう一度よみがえらせようと、人工呼吸をやってみたのですがダメでした。静馬君はあまり長くなると怪しまれるからと、いったん母屋へひきあげましたが、そのあとでも、私は必死となって人工呼吸をつづけたのです。半時間ほどすると、また静馬君がやってきました。どうだときくのでダメだというと、それじゃ死体をここへおいちゃいけない。もう一度豊畑村へつれていって、もとどおり裸にして椅子にしばりつけておけ、そうすればあちらで殺されたと思われる。……そういって東京行きの金と琴糸のきれはしをくれ、その糸の用途まで教えてくれたのです」  佐清のことばは怪しく乱れ、ほとんど消え入りそうである。それでもかれは最後の力をふりしぼってあえぐように語るのである。 「ああ、そのとき私はそれ以外に、いったいなにができたでしょう。私は静馬君の命令にしたがうよりほかはなかったのです。静馬君が水門をひらくと、佐智君の乗ってきたボートがすぐそばにありました。私たちは佐智君の死体をかついで、そのボートに乗せました。そして私は豊畑村さして|漕《こ》ぎ出したのです。静馬君があとから水門をしめました。私は豊畑村の空き家へつくと、静馬君にいわれたとおりに死体を処分し、それから陸づたいに上那須へくると、すぐその足で東京へたったのです。そして、一昨日夕刊を見るまで、東京のあちらこちらをあてもなく、希望もなく、絶望的な悲しみと苦しみをいだいて放浪していたのです」  佐清の眼から、突然、涙が滝のようにはふり落ちた。      静馬のジレンマ  日がしだいにかげってきたせいか、さっきからうるさいほどきこえていた雪解けの音もパッタリやんで、十二畳二間をぶちぬいた座敷のすみずみから、しだいに底冷えがはいよってくる。しかし、そのとき金田一耕助に肩をすぼめさせたのは、そういう肉体的な寒気よりも、精神的な底冷えであった。松子夫人の鬼のような所業もさることながら、それにもまして底冷えを感じさせるのは、佐清のおかれた位置と運命の残酷さ、いたましさである。金田一耕助はそこに骨も凍るような恐ろしさを、感じずにはいられなかった。  しかし、いまはそのような感慨にふけっている場合ではない。かれは松子夫人のほうへ向きなおると、 「松子奥さま。それではいよいよあなたの番ですよ。話してくださるでしょうね」  松子は|禿《はげ》|鷹《たか》のような眼で、金田一耕助のほうを見たが、すぐ渋い微笑をうかべて、 「ええええ、話しますとも。わたしが話せば話すほど、かわいい息子の罪がかるくなるのですものね」 「それではどうぞ、若林君の事件から……」 「若林……?」  松子夫人はギクッとしたように眼をみはったが、すぐ、ほ、ほ、ほ、とかるく笑って、 「そうそう、それがありましたね。あれはわたしの留守中に起こった事件だったので、すっかり忘れていました。ええ、そうです。若林に命じて遺言状のうつしをとらせたのはわたしでした。むろん、若林は頑強にこばみましたが、それをおどしたりすかしたり、それに若林はその昔、わたしがめんどう見たことがあるものですから、とうとうこばみ切れなくなって、わたしの頼みをいれたのです。さて、そうして若林にとらせたうつしに、眼をとおしたときのわたしの怒りを、まあ御想像くださいませ。ただ、恩人のすえであるというだけのことで、あのように有利な地位をあたえられました、珠世さんに対する怒りと憎しみ、それこそ八つ裂きにしてもあきたらぬくらいでした。そこでわたしは決心したのです。珠世さんは死なねばならぬと。……いったん決心するとわたしは強うございます。そこで寝室に|蝮《まむし》をほうりこんだり、自動車のブレーキにやすりの目をいれたり、ボートに孔をあけたり、いろいろ小細工をしました。いずれも猿蔵という男のために不首尾におわりましたけれど……」  松子夫人はそこで一服すいつけると、 「ところがそうしているうちに困ったことができたのです。若林がわたしのそぶりに眼をつけだしたのです。あれは珠世さんに|惚《ほ》れてたのね。その珠世さんがたびたび危ない目にあうものだから、わたしを疑いだしたのです。これはいけないとわたしは思いました。将来どんなことになるかもしれないけれど、わたしが遺言状を盗み読みしたことがわかるとまずい。そう思ったものですから、佐清を迎えに立つまえに、毒入りたばこをあたえておいたんです。あれがあんなにきわどい瞬間に、効果をあげるとは思いませんでしたけれどね」  松子夫人は気味悪くせせらわらって、 「ええ? その毒の入手経路ですか。それだけは勘弁してください。他人に迷惑のかかることですから。……さて、そうしておいて佐清を迎えに立ったのですが、その途中でわたしは急に気がかわったのです。それというのがあの遺言状、あれを子細に吟味してみると、珠世さんが死ぬと、なるほど、犬神家の全事業は、佐清のものになります。しかし、財産のほうは、五等分して、佐清はただ五分の一しかもらえないのに、なんと、青沼菊乃の小せがれは、その倍ももらえることになっているじゃございませんか」  松子夫人はまだこの場に立ちいたっても、怒りが解けやらぬらしく、キリキリ奥歯をかみ鳴らして、 「しかも、なおも子細にあの遺言状を読んでみると、青沼菊乃の小せがれが、遺産のわけまえにあずかれるのは、珠世さんが死ぬか、あるいは珠世さんが三人をきらって相続権を失うか、二つの場合にかぎっているのです。そのときはじめて、わたしは亡父の用意周到さに舌をまいて驚嘆しました。亡父はわたしどもをよく知っていたのです。ひょっとするとわたしどもが、珠世さんに危害を加えやあしないかと、それを防ぐために、青沼菊乃の件を持ちだしたのです。なぜといって、わたしどもがどんなにはげしく、菊乃親子を憎んでいるかということは、亡父はもう骨身に徹するほどよく知っています、その憎い憎い菊乃の小せがれに、遺産のわけまえをわたさぬようにするためには、どうしても珠世さんを生かしておかねばならないのです。なんとよく考えたものではございませんか」  そのことならば金田一耕助も気がついた。そして、それゆえにこそ、珠世がたびたび奇禍にあいながら、いつも無事に切りぬけているときいたとき、ひょっとすると、それはすべて珠世の|欺《ぎ》|瞞《まん》、見せかけではあるまいか、そして若林を|籠《ろう》|絡《らく》して、遺言状の盗み読みをしたのは、珠世ではなかったかという疑惑が、しばらく頭を去らなかったのである。  松子夫人は言葉をついで、 「さて、こうして珠世さんを生かしておくとすると、どうしても佐清と結婚してもらわねばなりません。そしてそのことならばわたしにも自信がありました。珠世さんは佐清に好意をもっていました。いえいえ、好意以上の想いをよせているらしいことは、わたしの眼にもハッキリわかっていたのです。だからわたしは自信にみちみちて、博多まで出向いていったのですが、佐清の顔をひと目見たとき、その自信は無残にもうちくだかれてしまったのです。ああ、ひと目佐清の顔を見たときのわたしの驚き、絶望……まあ、御想像くださいませ」  松子夫人はほっと熱い息をふく。そのとき、金田一耕助は|膝《ひざ》をすすめて、 「お話し中ですがちょっと。……奥さまはあの顔のくずれた人物を、にせものだとは全然お気づきにならなかったんですか」  松子はギロリとすごい眼で、金田一耕助を見すえると、 「金田一さま、わたしがいかにしんねり強い女でも、まさかにせものと知って引きとるはずがないじゃございませんか。また、にせもののために、あのような恐ろしいことをするはずがないじゃございませんか。いいえ、ちっとも気がつきませんでしたよ。もっとも、変だなと思うようなことはたびたびございました。でも、あれのいうのに、顔をやられたとき、頭にひどいショックをうけて、昔のことをスッカリ忘れてしまったと……そういう言葉をまにうけて……そうそう、いちばん変だと思ったのは、あの手型くらべのときでした。あのときわたしはカッとして、|依《い》|怙《こ》|地《じ》になって反対したのですが、それでも佐清のほうから、手型を押そうといい出しゃあしないかと、内心それを待っていたのでございます。ところがあの子は、わたしの反対をよいことにして、とうとう手型を押さずにすませてしまいました。そのときばかりはわたしも、なんともいえぬほどの薄気味悪さを感じたものでございます。ひょっとすると、これはやっぱり、佐武や佐智のいうとおり、にせものではあるまいか……と、そういう疑いがふいと頭をもたげました。もちろんすぐに、そういう考えは打ち消してしまいましたけれど……ところがそのつぎの日になって、佐清のほうから、手型を押そうといい出してきたものですから、そのときのわたしのうれしさ、また、ぴったりと手型が合ったときのわたしのよろこび、あまりのよろこびに、わたしは気が遠くなりそうになり、また、たとえいっときでも疑ったことをすまないとさえ思ったのです。そういうわけですから、ずうっと後にいたるまであの子を疑うなんてこと夢にも考えなかったのですよ」  松子夫人はそこでひと息入れると、 「さて、話をまえにもどして、なにしろあのとおり醜く顔がくずれているのですから、とてもそのまま連れかえるわけにはまいりません。そんなことをすれば、珠世さんにきらわれるにきまっています。そこでいろいろ考えたすえ、東京でつくらせたのがあのゴムの仮面です。あれを昔の佐清の顔にそっくりにせて作らせたのは、それによって少しでも珠世さんに昔のことを思い出していただき、愛情をもってもらおうと考えたからなのです」  松子夫人はほっとため息をつき、 「しかし、その苦心も水の泡。珠世さんがあれをきらっていることは、どんなにヒイキ目に見てもハッキリわかっておりました。いま聞けば珠世さんは、あれをにせものと感づいて、きらっていたのだそうですが、どうしてわたしにそれがわかりましょう。そこでわたしは考えました。これでは珠世さんにあれを選ばせることはむずかしい、佐武と佐智に死んでもらわないかぎりは……」 「そこであなたは着々として、それを決行なすったのですね」  松子夫人はものすごいわらいをうかべて、 「そうです。さっきもいったとおり、わたしは決心すると強い女です。しかし、ここでいっておきますが、佐武の場合でも、佐智の場合でもわたしは犯行をくらまそうなどという考えは、それほど強くはなかったんですよ。わたしはふたりを殺しさえすればよかった。そのあとでつかまろうが死刑になろうが、そんなことはどうでもよかったのです。わたしはあれのために、邪魔者をとりのぞいてやりさえすればよかったので、自分の命などどうでもよかったのです」  おそらくそれがこの|希《き》|代《たい》の殺人鬼の本音であろう。 「それにもかかわらずだれかがあとから、たくみに犯跡をくらましているのに気がついたときには、あなたもさぞ驚かれたでしょうね」 「むろん驚きました。でも、一方どうにでもなれという腹もあったんです。ただ、そういう小細工に、どうやらあの仮面の佐清が関係しているらしいのには弱りました。弱ると同時に、なんとなく薄気味悪くもあったのです。わたしたちはひとことも、そのことに触れはしませんでしたが、どうしてあんなにうまくごまかされるのかと、それが不思議で、なんとなくあの子が、世にも恐ろしい怪物のように思われたことさえあるのです」  金田一耕助は橘署長をふりかえって、 「署長さん、おわかりですか。この事件では真犯人はちっとも技巧をこらしてはいなかったのです。それをふたりの共犯者、事後共犯者たちが、あとへ回っては技巧をこらしていたのです。そこに事件のおもしろさとむずかしさがあったのですね」  橘署長はうなずきながら、松子夫人のほうへひと膝乗り出し、 「それでは松子奥さま、最後に静馬君殺しについて承りましょう。あれこそ、あなたひとりの手でおやりになったことでしょう」  松子夫人はうなずいた。 「いったい、どうしてあれをやっつける気になったんですか。結局正体がわかったのですか」  松子夫人はまたうなずいた。 「そうです。わかったんです。だが、ここではどうしてそれがわかったか……そのことからお話しいたしましょう。佐武と佐智がいなくなると、もうこちらのものです。そこでわたしは口を酸っぱくして、珠世さんに結婚を申し込むようにあれを説いたのです。しかし、あれはどうしても、うんといわないのです」  橘署長は|眉《まゆ》をひそめて、 「どうしてでしょう。さっきの佐清君の話では、静馬君は佐清君の身代わりになって、珠世さんと結婚するつもりだと、ハッキリいったそうじゃありませんか」 「そ、そ、そうなんですよ、しょ、しょ、署長さん、そ、そ、その時分には静馬君、珠世さんと結婚するつもりだったんです」  金田一耕助がバリバリ、ジャリジャリともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、猛烈にどもりはじめたのはそのときである。 「し、し、静馬君は、す、す、少なくとも十一月二十六日、す、す、佐智君の死体が発見されるところまでは、そ、そ、そのつもりだったんです」  金田一耕助はそこでやっと気がつき、ぐっと生つばをのんで落ち着きを取りもどすと、 「ところが佐智君の死体が発見されたあとで、那須神社の大山神主が、すばらしい爆弾を投げつけました。すなわちあの|唐《から》|櫃《びつ》の秘密です。それによって珠世さんは、単なる恩人の孫ではなく、佐兵衛翁自身の真実の孫であることが判明したんです。だから静馬君は珠世さんと結婚できなくなってしまった」 「どうして……」  橘署長はまだ|腑《ふ》におちかねる顔色である。金田一耕助はにこにこしながら、 「署長さん、まだおわかりになりませんか。静馬君は佐兵衛翁の子どもなんですよ。だから珠世さんが翁の孫だとすると、叔父と|姪《めい》にあたるわけじゃありませんか」 「あっ!」  と、いうような叫びが、橘署長の口からほとばしった。 「なるほど、なるほど、そうだった、静馬はそれで進退に窮したわけですね」  署長は大きなハンケチで、しきりにゴシゴシ太い|猪《い》|首《くび》をこすっている。金田一耕助はほっと熱い吐息をついて、 「そうですよ。思えば大山神主の、あの恐ろしい暴露こそ、こんどの事件のクライマックスだったんですね。静馬君はそれですっかりジレンマにおちいった。むろん、戸籍のうえでは静馬君も、珠世さんもともに佐兵衛翁とは他人になっている。だから法律のうえでは問題はなかったんですけれど、血統のことを考えると、静馬君もおいそれと、この結婚にとびつくことはできなかったのでしょう。そこに静馬君のジレンマがあった。佐清君の話によっても、静馬君は格別悪人というわけではなく、ただ、|復讐心《ふくしゅうしん》に燃えていただけのことなのだから、そういう点にかけては、われわれと同様な潔癖性をもっていたのでしょうね」  金田一耕助はもう一度、ふかいため息をつくと、松子夫人のほうをふりかえって、 「ところで松子奥さま、あなたが静馬君の正体を知ったのはいつのことでした」 「十二日の夜の十時半ごろのことでしたよ」  松子夫人はホロ苦くわらって、 「その晩も、結婚するしないで、あれと小ぜりあいをしていたのですが、そのうちしだいにいいつのり、とうとうあれがたまらなくなったのか、結婚できないわけを打ち明けたのです。いまから思えば、たとえそれを打ち明けても、わたしの秘密を知っている以上、なにもできまいと思ったのでしょうが、ああ、そのときのわたしの驚きと怒り、まあ御想像くださいませ。それこそわたしは眼がくらむようでした。それでもまだ、ふたことみこと、疑問の節を問いただしていましたが、そのうちにわたしの形相の恐ろしさに気がついたのか、さっと腰をうかして逃げようとします。それがカッとわたしを逆上させたのです。気がつくとわたしの握りしめた帯締めのなかで、あいつはグッタリ息がたえておりました」  キャッと悲鳴をあげて、畳の上につっぷしたのは香琴である。 「恐ろしい、恐ろしい、あなたは鬼です。|外《げ》|道《どう》です。ようまあそんな恐ろしい……」  香琴は肩をふるわせて泣きむせんだが、松子夫人は|睫《まつげ》ひとすじ動かさず、 「あいつを殺したことについては、わたしはしかし、これっぽっちも後悔しませんでしたよ。どうせ、おそかれ早かれこうなるんだ。三十年まえにやるべきことを、いまやっただけのことなんだと思いました。思えばあの子も不運な星のもとに生まれたものね。しかし、その死体の始末には弱りましたよ。署長さま、金田一さま、世の中って皮肉なものですわね。佐武や佐智を殺したときには、わたしは犯跡をくらまそうなどとは少しも思わなかった。つかまるならつかまってもいいと思っていたんです。ところがそのときにはだれかしらが、うまくゴマ化してくれました。ところがこんどの場合には、わたしは当分つかまりたくなかった。どうしてもしばらく生きていたいと思ったのです。ところがそのときにはもうだれも、わたしの手助けをしてくれるものはいなかった……」 「ああ、ちょっと……」  と、金田一耕助がさえぎって、 「こんどの場合にかぎって、どうしてつかまりたくなかったんですか」 「いうまでもありません、佐清のことがあるからです。ああして手型が一致した以上、あのときの佐清はほんものにちがいありません。静馬もそれをいっていました。そのときわたしはあまり逆上していたものですからその後の佐清のなりゆきを、つい聞きもらしたが、それがハッキリわかるまでは、わたしは死んでも死に切れなかったのです」 「それで死体にああいう曲芸をやらせたんですね」 「ええ、そう、あれを思いつくまでには一時間以上もかかりましたよ。わたしはそれほど頭がよくはないのですからね。でも、ああいう判じ物をこさえることによって、あの死体を佐清だと思いこませることができる。そしてあれが佐清だと信じられているかぎり、佐清の母であるわたしは安全だと考えたのです」  静馬のえがこうとした、|斧《よき》、琴、菊の|呪《のろ》いはこうしてみごとに完成されたのである。最後は静馬自身の肉体をもって。…… 「そう考えがまとまると、わたしはすぐにボートハウスへあいつの死体をかついでいき、ボートに乗せて水門から出たのです。そしてなるべく水の浅いところを|選《よ》って、泥のなかへあいつの体をさかさにつっこんだのです。いっておきますが、そのときはまだ、それほど氷は厚くなかったのですが、夜が更けるとともにあのとおり厚氷になって、なんともいえぬ変てこなことになってしまったのです」     大団円  松子夫人の話は終わった。そして、この事件に関するかぎり、すべてのなぞは語りつくされたわけである。  それにもかかわらず一同は、少しも胸のかるくなるのをおぼえなかった。いやいや、その反対に、あまりにもドスぐろいし、あまりにも陰惨な真相に、腹の底が鉛のように重くなるのを感じるのである。  シーンとしずまりかえった座敷のなかに、たそがれの底冷えがいよいよきびしくなりまさる。空はまた曇りはじめたらしい。 「佐清や」  突然、松子夫人が声をかけた。それはまるで深山に叫ぶ怪鳥のような鋭い声だった。佐清がギクッとしたように顔をあげる。 「あなたはなぜ匿名などしてかえってきたのです。あなたはなにか、うしろ暗いことでもしていたんですか」 「お母さん!」  佐清は熱い声でいって、それからひとびとの顔を見回した。その顔にはなにかしら、一種異様な憤りのかげがあった。 「お母さん、あなたのおっしゃるような意味でなら、私にはなんのうしろ暗いところもありません。内地の人情がこんなに大きく変わっていると知ったら、私はなにも匿名などするんじゃなかったんです。私はしかしそうは思わなかった。いまもなお、勝ってくるぞと勇ましくと、日の丸の旗をふって送られた、あの当時の日本人だとばかり信じていたんです。私は前線で大きなあやまちをおかしました。自分の指揮のあやまりから、部隊を全滅させてしまったんです。私は部下とただふたりで、ビルマの奥地を放浪しました。そのとき、私は何度切腹して責任をとろうと思ったかしれないくらいです。なんの面目あってふたたび故国にまみえんや、……そんな気持ちだったんです。そのうちにたったひとりの部下も死んでしまい、私ひとり捕虜になったんですが、そのときとっさに匿名をつかってしまったんです。犬神家の家名に対しても、私は捕虜になることを恥じたのです。それだのに……それだのに……内地へかえってみると……」  佐清は声をふるわせ、熱い息をのみくだした。  ああ、佐清が匿名で身分をいつわり、故国へかえってきたのには、そういう動機があったのか。なるほどそれは、いささか常軌を逸した突飛な行動だったかもしれぬ。しかし、戦争前の日本人は、だれでもそれくらいの誇りと責任感は持っていたはずなのだ。そして、その誇りと責任感を、敗戦後まで持ちつづけていたところに佐清の純情がうかがえるのではあるまいか。ただ、その純情のために、こんどのこの酸鼻を極めた事件を、未然に防ぐことができなかったのは、千載の恨事ではあったけれど。…… 「佐清や、それほんとうでしょうね。あなたが匿名を用いていたのは、ただ、それだけの理由なのですね」 「お母さん、ほんとうです。それ以外、私には、なんのうしろ暗いところもありません」  佐清が熱い声でいった。松子夫人はにっこり笑って、 「安心しました。署長さま」 「はあ」 「佐清は刑に問われるでしょうね」 「それは……やむをえんでしょうな」  署長はギゴチない声で、 「いかなる理由があるにせよ、共犯……事後共犯の罪がありますからね。それにピストルの不法所持……」 「それはひどく重いのですか」 「さあ……」 「まさか、死刑になるようなことはありますまいね」 「それは、もちろん……それにまあ、情状酌量が相当あると思いますが……」 「珠世さん」 「はあ」  ふいに松子夫人から呼びかけられて、珠世はギクッと肩をふるわせた。 「あなたは佐清が|牢《ろう》から出てくるまで待ってくれるわね」  珠世はさっと|蝋《ろう》のように青ざめたが、やがてその顔に、ぽっと血の気がのぼってくると、|瞳《ひとみ》がうるんでキラキラ輝いた。彼女は決意にみちた声で、なんのためらいもなく、キッパリといいきった。 「お待ちしますわ。十年でも、二十年でも……佐清さんさえお望みなら……」 「珠世ちゃん、すまない」  ガチャンと手錠を鳴らして、佐清が両手を膝について、首をたれた。  そのときである。金田一耕助が古館弁護士になにか耳打ちをしたのは。  古館弁護士はそれをきくと、強くうなずいて、うしろにおいてあった大きなふろしき包みをひきよせた。一同の眼は不思議そうに、ふろしき包みに吸いよせられる。  古館弁護士がふろしき包みをとくと、なかから現われたのは、長さ一尺ばかりの長方形の桐の箱だった。桐の箱は三つあった。  古館弁護士はその箱をささげて、すり足で珠世のまえに歩みよると、それをうやうやしく彼女のまえにおいた。  珠世は不思議そうに眼を見はっている。何かいおうとして、くちびるがわなわなふるえた。  古館弁護士はひとつひとつ、ふたをとって中身をとり出すと、それを箱の上においた。と、同時に一同のくちびるから感動の声がもれ、風にそよぐ|葦《あし》|原《はら》のようなざわめきが、一瞬座敷のなかにたてこめた。  おお、それこそはまごうかたなき、犬神家の三種の家宝、金色|燦《さん》|然《ぜん》たる、|斧《よき》、琴、菊ではないか。 「珠世さん」  古館弁護士は感動にふるえる声で、 「佐兵衛翁の遺言によって、これはあなたに贈られます。あなたはこれを、御自分の選んだひとに贈ってください」  珠世の頬にはさっと|羞《はじ》らいの色が散った。彼女はたゆとうような眼で、一座の顔を見回していたが、その眼が金田一耕助の視線とぶつかると、ふっとそこで|釘《くぎ》づけになった。耕助はにこにこしながらかるくうなずく。珠世は笛のような音をたてて、大きく息をうちへ吸った。  それから消え入りそうな声で、 「佐清さま、これをお受け取りくださいまし。……ふつつかものでございますけれど……」 「珠世ちゃん、あ、ありがとう」  佐清は包帯の手で眼をこする。  こうしてあの巨大な犬神家の全事業ならびに全財産を、相続すべきひとは決定したのである。そのひとは今後幾年かを、暗い牢獄で|呻《しん》|吟《ぎん》しなければならぬ運命にあるのだけれど。  松子夫人はこのありさまを、満足そうにながめていたが、またひとつまみの刻みたばこをとって長ぎせるに詰めた。もし、このとき金田一耕助が、もっとよく注意していたら、いま松子夫人のつめたたばこが、いままで吸っていた箱のものではなくて、たばこ盆のひきだし、すなわち、さっき時計をとり出した、あのひきだしからつまみ出されたものであることに、気がついていなければならなかったはずなのである。 「珠世さん」  松子夫人は静かにたばこを吸いながら声をかける。 「はあ」 「あなたに、もうひとつ、お願いがあるの」 「なんでございましょう」  松子夫人はまたひきだしから、たばこを取ってきせるに詰めた。 「ほかでもない、あの小夜子のことですがねえ」 「はあ」  小夜子ときいて、竹子と梅子がはっと松子の顔をみる。しかし、松子はあいかわらず、|悠《ゆう》|然《ぜん》としてたばこを吸い、何度も刻みを詰めかえながら、 「小夜子は近く子を産みます。その子の父は佐智です。してみると、その子は竹子さんにとっても梅子さんにとっても孫にあたるわけです。珠世さん、わたしのいうことがわかるわね」 「はあ。わかります。それで……」 「それで、お願いというのはほかでもないの。その子が大きくなったら、犬神家の財産を、半分わけてやっていただきたいの」  竹子と梅子はギョッとしたように顔見合わせる。珠世は即座にキッパリと、 「小母さま、いいえ、お母さま、よくわかりました。きっとあなたのお言葉どおりいたします」 「そう、ありがとう。佐清や、あなたもそのことをよく覚えておいておくれ。古館さん、あなたは証人ですよ。そしてね、その子がもし器量のある男の子なら、犬神家の事業にも参画させてね。これがわたしの、竹子さんや梅子さんに対する、せめてもの罪——ほ——ろ——ぼ——し……」 「あっ、いけない!」  金田一耕助が|袴《はかま》の|裾《すそ》をふみしだいて駆けよったとき、松子夫人はポロリと長ぎせるを取りおとし、ガックリまえにのめっていた。 「しまった! しまった! しまった! この刻みたばこだ。若林君を殺した毒……気がつかなかった。気がつかなかった。医者を……医者を……」  だが、その医者が駆けつけてきたときには、一世を|震《しん》|撼《かん》させたこの希代の女怪、希代の殺人鬼、犬神松子はすでに息をひきとっていたのである。くちびるのはしにちょっぴり赤いものをにじませて。……  那須湖畔に雪も凍るような、寒い、底冷えのする|黄《たそ》|昏《がれ》のことである。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル5 |犬《いぬ》|神《がみ》|家《け》の|一《いち》|族《ぞく》 |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年11月9日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)  Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『犬神家の一族』昭和47年6月13日初版発行             平成 8 年9月25日改版初版発行 ========= 次の校正者にお任せする部分 ========== 690行 ※ここに系図の画像?